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02.悪役令嬢は挨拶を重んじる

「ようこそおいでくださいました。ご足労をおかけし、まことに恐縮です」


「わたくしの都合ですもの、お気になさらないで」


 季節は初冬。

 肌寒くなってきたにもかかわらず、店前に停めた馬車から降りるなり、紳士服店のオーナーに出迎えられる。

 オーナーは、片眼鏡(モノクル)が目を引く白髪の老紳士だった。

 穏やかな人柄が雰囲気に現れ、自然とクラウディアの表情も和む。


「この寒い中、ずっと外で待ってらしたの?」


「リンジー公爵令嬢にお会いできると思うと、年甲斐もなく気が急いてしまいまして……ちょうど頭に上った熱が冷めてきた頃合いにございます」


「まぁ! でも寒さは体に毒よ。次からは中で待ってらして」


「お心遣い、痛み入ります」


 慇懃でいて、好々爺然としたオーナーの立ち振る舞いは、店を利用する機会があまりないのを惜しく感じるくらい好ましかった。

 前を歩くオーナーに応接室へ案内されながら、店内を眺める。

 婦人向けの店では、内装の色鮮やかさが目立つけれど、紳士向けの店となると、また趣が違った。

 柱や棚だけでなく、床にも深い暗褐色が特徴のウォールナット材が使われているからか、色彩は落ち着いていて重厚感がある。

 だからといって重苦しさはなく、信頼感だけが残るよう設えられたインテリアデザインは秀逸だ。

 普段の買い物は、屋敷に商人を呼んで済ますことが多いだけに、店の趣向を味わえるのが楽しい。

 つい毛の長い絨毯からそれて、ヒールで床板を小突きたくなる。


「磨かれた床の上を歩いたら、きっと小気味良い音がするでしょうね」


「クラウディア様?」


「そんなはしたない真似はしないから安心して」


「お気持ちは、とてもよくわかります」


 神妙に頷くヘレンと、顔を合わせてくすりと笑う。

 それだけ、敷かれた絨毯の防音性能は高かった。

 屋敷でなら、きっと二人で音を鳴らしていただろうけれど、流石に外ではできない。


(あら……?)


 何となく視線を巡らせた先で、店員と話している男性客が目にとまる。

 知った顔ではないけれど、佇まいや風貌に馴染みがあった。

 娼婦時代に、身請けを申し出てくれた青年の顔が浮かぶ。


(正式な名前は、わからないままだったわね)


 娼館では愛称で呼び合っていた。場所柄、珍しいことではない。

 結局、身請けについて返事を出す前に、死に別れてしまった。

 その青年は隣国、バーリ王国の上級貴族だった。

 彼を連想させるくらい、客の身なりは良い。加えて、会話の合間に見せるボディランゲージも上品だ。


(でも上級貴族が王都に滞在している話は聞かないし……それならパーティーで会ってるはずよね)


 耳に入っているのは、バーリ王国の王弟の動きくらいだ。

 現在、彼はハーランド王家の直轄領である港町に滞在しているという。

 王都にも訪問する予定だが、まだ王都入りしたとは聞いていない。

 それこそ隣国の王族の来訪ともなれば、クラウディアも悠長に買い物などしていられないだろう。


(面識がないってことは、職業外交官かしら)


 他にも上がる候補を消去法で消していき、残った答えがそれだった。

 外交官には貴族や軍人が任命されがちだけれど、交渉術など特殊な技能を必要とされるため、最近では職業外交官も目立つようになってきている。彼らは身分こそ低いものの、特権を持つため、扱いはデリケートだ。

 それでも公爵令嬢(クラウディア)が出席するパーティーに招待されるのは、身分差があって難しかった。

 男性客の袖に光るものを見つける。


(チェーン付きのカフリンクスね。やはり家紋はないタイプみたい)


 男性向けのアクセサリーとしてシャツの袖につけるカフリンクスは、主に貴族社会で愛用されている。

 その場合、家紋を象るのが一般的で、一目で貴族とわかる作りになっていた。

 職業外交官は貴族と並んで交渉の席に着くために上質な装いを心がけ、見た目では上級貴族と変わらないが、彼らが家紋をつけることはない。

 オーナーには少し待ってもらって挨拶へ向かう。

 男性客しかいない売り場に、華やかなクラウディアが姿を見せれば、相手もすぐ彼女に気付いた。


「歓談中、失礼いたします。わたくし、クラウディア・リンジーと申します。バーリ王国の方とお見受けしたのですけれど、合ってますかしら?」


「これはこれは……! 完璧な淑女と名高いリンジー公爵令嬢にお声がけいただけるとは望外の喜び! お恥ずかしながら、てっきり妖精が店内に迷い込んだのかと思っておりました。いかにも、わたくしめはバーリ王国で外交官を務めております。何かご用がおありですか?」


 おどけながら、照れた様子で笑顔を見せる男性に嫌味はない。

 生来のものか、技巧か、初対面にもかかわらず場を和ませる手腕に、人知れず舌を巻く。

 けれど彼から香ったアロマからは、悲しい思い出が蘇った。


(もしかして、娼館帰りなのかしら?)


 娼婦時代、同じアロマを愛用していた娼婦がいた。

 勤務時間外の昼下がり。窓から入る日差しが、眠気を誘うほど暖かかったのを覚えている。

 娼館の遊戯室で、クラウディアはヘレンや先輩娼婦たちとお喋りに興じていた。

 その最中、件の娼婦は自ら命を絶った。

 死が身近だった頃の記憶。

 人生の苦みが顔に出そうになって、慌てて意識を切り替える。


「用というほどではないのですけれど、ご挨拶がしたくて。王太子殿下のご誕生、おめでとうございます」


 今年に入って、バーリ王国では第一子となる王太子が誕生していた。

 子宝に恵まれなかった国王にとっては待ちに待った慶事で、国は今も祝賀に沸いているという。

 一方、新たな問題も生まれようとしているみたいだけれど――。


「ありがとうございます。わたくしめのような、しがない外交官にも直接ご祝辞を仰っていただけるとは、光栄の至りにございます。もしかして、これだけのためにお声がけくださったのですか?」


「あなたを見て、懐かしい方を思いだしましたの。バーリ王国では、人と出会ったら、必ず挨拶をなさるのでしょう?」


「我が国の文化をよくご存じでおられる……! 次に私的な場でバーリ人とお会いになるときは、気軽に『オウラー』とお声がけください。リンジー公爵令嬢のお美しい声で挨拶されれば、相手はたちまち虜になるでしょう」


「『オウラー』が挨拶の言葉ですのね、わかったわ」


「いやはや、リンジー公爵令嬢におかれましては、一目見た瞬間から心を奪われてしまいそうですが」


「お上手ですこと。あなたのような大人の男性からすれば、わたくしなんてひな鳥と同じでしょうに」


「まさかまさか! 若くはあらせられますが、リンジー公爵令嬢の魅力を前に、幼さを覚えるものなどおりますまい! そうだ、ぜひリンジー公爵令嬢の気品にあやからせていただきたいものがいたのですが……ちょうど席を外しているようです」


「残念ですわ。教えていただいた挨拶を試す機会でしたのに」


 実のところ、挨拶については知っていた。娼婦時代は、青年と顔を合わせるたびに言ったものだ。

 しかし公爵令嬢である今、バーリ人とは公的な場でしか会うことがない。

 「オウラー」はあくまで、日常で使える挨拶だった。


 外交官と別れたあとは、つつがなく品物を受け取り、オーナーに店前まで見送られる。

 そして、馬車へ乗るための踏み台に足をかけた、そのときだった。

 背中に視線を感じて、振り返る。

 挨拶した外交官が、やって来たのかと思ったからだ。


「クラウディア様、どうかされましたか?」


「いいえ、気のせいだったみたい」


 振り返った先に誰も認められず、ヘレンに首を振る。

 訝しみながらも席につき、馬車の窓から再度店前を確認しても、いるのは会釈するオーナーだけだった。

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