番外編 57.騎士団長令息は円満を願う
「57.悪役令嬢は逃走する」のトリスタン視点です。
「殿下、おはようございます」
「おはよう」
穏やかな笑顔で挨拶を返すシルヴェスターを、一番近い場所からトリスタンは眺める。
友人がこんな風に表情を取り繕うようになったのはいつからだろう、と。
少なくともヴァージルと三人で王城を駆け回っていた頃は、自然体だった。
(気付いたときには、表情が変わらなくなっていたんですよね)
きっと誰よりも一緒にいる時間は長いだろうに。
決定的な瞬間がわからず、不甲斐なさが募る。
シルヴェスターにとっては取るに足らないことでも、友人の変化には敏感でありたかった。
特に感情を表さなくなったことについては、壁を感じてしまうから。
いつか息が詰まってしまうんじゃないかと心配になる。
(クラウディア嬢がいてくれて良かった)
彼女がいるだけで、シルヴェスターの雰囲気は明るくなる。
独占欲の強さゆえか、たまに淀むときはあるけれど。
感情が察せられやすいので、トリスタンとしては安心できた。
「シルヴェスター様、おはようございます」
視界で艶やかな黒髪が躍れば、シルヴェスターの黄金の瞳に温もりが宿る。
おはよう、と返す声音は、心なしか甘く聞こえた。
果たして自分以外の人間がどれだけ、この僅かな変化に気付けるだろうか。
それを考えると、シルヴェスターの友人である自信が回復する。
何せ当人であるクラウディアすら気付いていないのだから。
(もう婚約者は決まったも同然ですよね)
華やかな二人が並ぶと、絵画を眺めている心地になった。
完成された美術品とでもいえばいいか、そこへ他者が入り込む隙などない。
誰よりも近くで見てきたからこそ、二人の関係を尊く感じる。
だからシルヴェスターからプロポーズの話を聞かされたときは、心から祝福したし、自分のことのように喜んだ。
逃げ場がない状態で、だだ甘――仲睦まじい姿を見せ付けられても、我慢した甲斐があったというものだ。
だというのに。
「これはないんじゃないですかね……?」
シルヴェスターの何が悪かったというのか。
いや、護衛を差し置いて前へ出たのは悪いけれど。プロポーズの話は聞いていたが、自分より前へ出られるとは思っていなかった。
でもまさか断られるとは。
あまりの衝撃に、走り去るクラウディアの背中へ向けた視線を動かせない。
動かしたくない。
空気が凍てついている中、冷気の発生元であるシルヴェスターと向き合う勇気がなかった。
そーっと顔を逸らし、巻き込まれた人がいた場合の言付けを届けて、精神の平穏を保つことにする。
といっても、こちらはこちらで落ち込んでいそうだけど。
「ルイーゼ嬢、少しよろしいですか」
「何でしょう?」
さらりと靡く彼女の金髪は、日が落ちた暗がりでも輝いて見える。
次の瞬間には、平時と変わらないルイーゼの凜とした表情に、首を傾げそうになった。
(てっきりルイーゼ嬢は、シルのことが好きだと思ってたんですけど)
婚約者候補という立場もあるけれど、彼女がシルヴェスターへ好意を寄せているのは傍目にも明かで。
それが見当違いだったのかと、会話に間を空けてしまう。
沈黙が落ちたことでトリスタンの考えを察したのか、ルイーゼは苦笑を浮かべた。
「いつかこうなるだろうと覚悟はしていましたわ。予想より早くはありましたが……クラウディア様は、わたしに遠慮されたのね」
「遠慮、ですか?」
「わたしがいる手前、婚約者候補の公平性を保つために、断るしかなかったのでしょう。あれだけ殿下を諫められる方ですもの」
そうなのだろうか。
先ほどまではクラウディアの考えが理解できなかったけれど、ルイーゼに言われるとそんな気がしてくる。
「お恥ずかしながら、わたしは見惚れるだけでしたわ」
思い人が颯爽と助けに現れた瞬間を思いだしたのか、ルイーゼの頬が染まる。
けれど吐息と共に熱は治まり、憂いを帯びた翠色の瞳だけが残った。
間近で瞳が濡れるのを見て、胸が締め付けられる。
「ルイーゼ嬢は何も悪くありません」
自身の至らなさを恥じるルイーゼに、気持ちがそのまま口をついて出ていた。
彼女はただ現場に居合わせただけの被害者だ。
その上、恋に破れてさえいるのに。
「誰が何と言おうと、ルイーゼ嬢に落ち度はありません。それを言うなら、シルを止められなかった僕が一番責められる立場です」
だから責めるなら僕を責めてくださいと胸を叩く。
ドンッとわざと大きく音を鳴らせば、ルイーゼは一瞬目を瞠ったあとに笑みを漏らした。
くすりと和んだ表情に安堵する。
どこか張り詰めていた緊張が緩んだ気がした。
できればルイーゼには、ずっと笑顔でいて欲しいと強く思う。
「ありがとうございます。誰よりも反省が必要なのは、無茶をなさった殿下ですものね」
「その通りです。今回の件は王家が預かると決まっています。沙汰があるまでは公言しないでもらえますか?」
「わかりました。王家の考えとあれば、わたしに異論はございません。家にも黙っていたほうがいいのかしら?」
「はい。改めて王家から話がいきますから、それまでは内密にお願いします」
伝えるべきことは伝え終わった。
それでも不思議とルイーゼから離れがたく、続けて口を開く。
「あの――」
「トリスタン、私は何を間違えた?」
しかし肩に置かれた手によって、会話は遮られた。
感情をなくしたシルヴェスターの声に、冷や汗が背中を伝う。
振り返るのが躊躇われるけれど、無視もできない。
何より折角のルイーゼとの空気を壊されたくなかった。
「な、何も間違っては」
けれど光を失った黄金の瞳と目が合うなり、振り返ったことを後悔する。
生気を一切感じさせないシルヴェスターの姿は、真夜中に見るビスクドールのようだった。
容姿が整っているだけに無機質さが恐ろしく、心臓がきゅっと縮む。
「では何故ここにクラウディアはいない?」
「それはクラウディア嬢に訊かないとわかりませんっ」
理由なら自分だって知りたい。
ルイーゼは遠慮したのだと言うけれど、果たして本当にそうなのか。
必死で首を横へ振れば、ふむ、とシルヴェスターは頷く。
「では、とりあえずヴァージルを訪ねるか」
返事は求められなかった。
護衛騎士を待機させていたシルヴェスターは、彼らを引き連れてこの場をあとにする。
(直にクラウディア嬢のところへ向かわないのは、シルなりに傷心してる証拠ですかね……)
いつもならすぐ本人を問い質すだろう。
見送るトリスタンの背中に、ルイーゼから声がかかる。
未だかつてないシルヴェスターの様子に、彼女も心配になったようだ。
「お二人は大丈夫かしら?」
「大丈夫だと信じたいです」
どうか些細な行き違いでありますように!
自分の平穏のためにも、そう願わずにはいられない。
シルヴェスターは大切な友人だ。
二人の関係は尊く思う。
けれどこれ以上、彼らの恋愛に巻き込まれるのは、ごめんだった。




