59.悪役令嬢はもう妹を恐れない
王太子殿下を自分が救うなど、おこがましい。
公爵令嬢としての理性がそう訴えてくるものの、視界は揺らぎ、今にも青い瞳からは雫がこぼれそうだった。
感極まった熱に、神経が焼かれる。
「わ……わたくしに、できることでしたら」
「君にしかできない」
震える声で答えれば、断言された。
握られていた手の甲に、口付けが落とされる。
「君が欲しい。君の心に住まうのは、私しか許せない」
次いで、指先にもシルヴェスターの唇が触れた。
指の一本一本に愛を贈られ、体に火が灯る。
「シルヴェスター様……っ」
「シル、と。私はディアと呼ぼう。愛しいディア、私の心を救ってくれ」
接触は僅かでしかない。
記憶を辿れば、児戯に等しいぐらいだ。
でも。
恋を知ってしまったクラウディアには、刺激が強すぎた。
今までの経験はまるで役に立たず、自分でも全身が真っ赤に染まっているのではと思う。
「シル、わたくしがお救いいたします。だから、どうか手を」
放してください、とは言えなかった。
手を握られたまま、唇を吸われる。
「愛している、ディア。私は何とも思っていない相手に、キスはしないぞ」
咎められているのはわかるが、火照りで思考が追いつかない。
――けれどその熱は、乱入者によって急激に冷やされた。
「嘘よ……そんなの、嘘!」
どこからか走ってきたのか、息を切らしたフェルミナが部屋の前で立っていた。
すかさず、シルヴェスターの背に庇われる。
「そなたも切り捨てられたいのか?」
後ろにいるクラウディアから、シルヴェスターの表情は窺えない。
しかし声音だけで、体に震えが走った。
特別低いわけでも、冷たいわけでもない。
ただ人がこんな声を出せるのかと思うくらい、感情がのっていなかった。
それでも恐る恐るシルヴェスターへ手を伸ばす。
「シル、わたくしは望みませんわ」
暴漢が現れたことで、フェルミナの関与は確定した。
報告を聞けば、父親も判断せざるをえないだろう。
指先がシルヴェスターの手に触れると、彼は感情を取り戻した。
「……ディアがそう言うなら矛は収めよう。どちらにせよ、ただでは済まぬからな」
振り返った黄金の瞳に光があり、人知れずほっとする。
クラウディアにもフェルミナへ対する怒りがあるが、罰せられるのは今ではない。
「フェルミナさんも部屋へお戻りになって」
大人しくしているよう伝えるが、フェルミナは獣が牙を剥くように吠える。
「そう言って軟禁する気でしょ!? 殿下、殿下はその女に騙されているんです! あたし、必死で逃げてきたんです!」
誰から? と思ったところで、侍女長のマーサが姿を見せる。
どうやらフェルミナのお目付役としてつけられたらしい。
「申し訳ございません、クラウディア様。振り切って逃げられてしまいました。すぐ連れて行きます」
「嫌よっ、使用人風情があたしに触らないで!」
抵抗しながら部屋へ入ろうとするフェルミナに、待機していたシルヴェスターの護衛が判断を仰ぐ。
「手を貸してやれ」
二人いる護衛の内、一人が動こうとしたところで、フェルミナはシルヴェスターへ向かって手を伸ばした。
しかし距離が縮まることはなく、護衛に取り押さえられる。
瞬く間の出来事だったが、クラウディアには一部始終がスローモーションで見えていた。
フェルミナは床へ押さえ込まれ、後ろ手に拘束される。
「で、殿下っ、あたしは、何もやってません!」
「では誰がやったというのだ?」
「貴族派の女生徒ですっ、証拠もあります!」
嘘か本当か、フェルミナは往生際悪く抵抗し、叫ぶ。
「ほう、それは興味深いな? そろそろ到着する捜査官も聞きたがるだろう。連れて行け」
「待って! 違うの、あたしは、ち、違う、違う違う違う違うーっ」
ピンクブロンドの髪をぐちゃぐちゃに乱しながら連行される姿は、錯乱しているようにしか見えない。
歪んだフェルミナの表情は醜く……哀れみを誘った。
前のクラウディアより酷い。
「人は、あそこまで落ちるものなのだな」
「そのようですわね……。あの、捜査官が来られるのですか?」
「あぁ、こちらが仕向けたとはいえ、暴漢を学園へ招き入れたのだ。協力者ともども、しっかり罰を受けてもらう」
公表の仕方は考えるから安心していい、と言いながら、シルヴェスターは空いていた椅子に腰かける。
すぐにヘレンがお茶を用意してくれた。
「ところで、焦がれているとも言ったはずだが、何故君は私の気持ちを疑った?」
「えっ!? そこへ話を戻しますの!?」
「ディア、今、君の前にいるのは誰だ?」
「シル、ですけど……」
答えれば、にっこりと微笑まれる。
どうやらフェルミナのことは、早く頭から追い出せと言いたいらしい。
急展開に頭が混乱するものの、シルヴェスターなりに気を使ってくれているのだろう。
「もうあの子のことは、怖くありませんわ」
「ならばいいが。私は狭量だと言っただろう? 私の気持ちを疑った理由は?」
(それはそれで訊かないと気が済まないのね……)




