39.男爵令息は女神と出会う
「誇りだけで生きられるのが、貴族というものよ」
威厳ある声がその場に響いたとき、男爵令息であるブライアンは負けを悟った。
颯爽と現れたクラウディアが、対立していた伯爵令嬢を庇うように立てば、なおさらだ。
(フェルミナ嬢なら味方になってくれたかもしれないけど、クラウディア嬢では分が悪すぎる)
一代貴族の男爵令嬢の娘であるフェルミナは、今でこそ公爵令嬢だが目線は新興貴族に近かった。その分、古参貴族から反感を買っているようだけれど。
片やクラウディアは淑女の見本とも言われる一方で、噂では妹に辛く当たっているという。
噂を鵜呑みにするわけではないが、クラウディアの隙の無い佇まいを目の当たりにすれば、白旗を上げるしかなかった。
つん、と顎を上げて近付かれ、背中に冷や汗が流れる。
(父さん、ごめん……おれミスったかも……)
男爵家からすれば、公爵家など王家と変わらない。
そんな相手から不興を買えばどうなるか、想像するまでもなかった。
しかし身を小さくするブライアンに届けられた言葉は。
「あなたのお家では、お客を煽てることもしないの? これも商談だと思いなさい」
天啓を受けるに十分なものだった。
クラウディアが家の事業を知っていることも驚きだ。
それから対立していた伯爵令嬢と、自分が望む方向で話がまとまるのは、あっという間だった。
気づいたときには、クラウディアは場を辞していて、慌ててあとを追いかける。
「リンジー公爵令嬢、ご無礼をお許しください!」
社交界では、身分が下のものから声をかけるのは無礼とされる。
けれど学園では交流が優先されるため、そこまで礼儀に厳格である必要はない。
それでも礼儀を重んじたのは、クラウディアへ対する敬意の表れだった。
「あら、何かしら?」
突然呼び止められたにもかかわらず、振り返ったクラウディアの顔に険はなかった。
つり目がちな目尻は気が強そうに見えるけれど、纏う雰囲気は柔らかく、微笑みを湛える表情に、ブライアンは噂は噂でしかないと知る。
しがない男爵家の自分にも、これほど穏やかに対応してくれるのだ。
緊張で口が乾く中、必死で舌を動かす。
「名乗ることを、お許しください」
「では、わたくしから。クラウディア・リンジーと申します。そちらは?」
「ブライアン・エバンズと申します。このたびは、ご助言ありがとうございました。まさかリンジー公爵令嬢が、我が家の商いをご存じとは思わず……感動致しました」
公爵家と男爵家となれば、それこそ社交界で会うことはまずない。
ブライアンとしては、この機会を逃すわけにはいかなかった。
でもそれ以上に、双方に不快な思いをさせないまま解決に導いたクラウディアの手腕に敬服し、直接お礼を伝えたかった。
最後に声が震えたのは、胸が熱くなったからだ。
下げた頭を上げたブライアンは、イタズラにくすりと笑うクラウディアを目の当たりにして顔を赤くする。
「たまたま興味のあるお話を耳にしましたの」
「どういったものですか?」
「わたくし、化粧品の中でも、化粧水に興味がありまして」
それはまだエバンズ商会で、大々的に売り出せていない商品だった。
品質に自信はある。けれど品質にこだわるあまり、製造量と販路の開拓が上手くいかず、伸び悩んでいるところだ。
「どこでそれを!? あれはまだ製造量と販路に課題が多くて……」
既に王家御用達の化粧水は存在する。
公爵家の令嬢なら、それを利用するに留まりそうだけれど、新興貴族であるエバンズ商会にも情報の網を広げていることに、ブライアンは舌を巻いた。
しかもである。
「繊細なものですからね。ですが、きっとエバンズ商会なら成し遂げられるだろうと、期待しておりますのよ」
化粧水の取り扱いを理解した上で、貴族の中の貴族であるクラウディアから期待を寄せられれば、全身の血が沸騰しそうだった。
「あのっ、最高品質のものができたら、お贈りしてもいいですか!?」
噛みそうになりながら申し出る。
それに対する答えは。
「まぁ、嬉しいわ」
バラの蕾が、花開くような笑顔だった。
ブライアンは見てはいけないものを見てしまったような、僅かな後ろめたさを感じながらも、貴重な瞬間に立ち会えた高揚感に包まれる。
香り立つクラウディアの美しさにしばし瞬きを忘れ、正気に戻ったあとも、余韻で中々その場から立ち去れなかった。
こうしてクラウディアは、意図せず娼婦時代に愛用していた化粧水を手にする確約を得た。




