37.悪役令嬢は愛を唱える
「君には負けるな」
シルヴェスターは降参と共に、クラウディアの腰を引き寄せた。
横抱きの形で膝に乗せられてクラウディアは焦る。
「シル!? 重いわよ」
「重くない。ディア、愛していると言ってくれ」
またあとで、と言われていた文言だろうか。
顔を上げれば、黄金の瞳を彩る睫毛が艶を帯びていた。
そこへ前髪がかかる様は耽美で、しばし見惚れる。
(美しい人)
陶器のように滑らかな肌は作りものめいて見えるけれど、シルヴェスターにはちゃんと血が通っている。
だからこそもっと近付きたいと思う。
(けれど今はダメ)
自分を律する。
己の正義を貫いてこそ、誰かの悪になれるのだ。
クラウディアにとっての正義は、淑女であり続けることだった。
(まぁ膝の上に座りながら言っても、説得力なんてないけど)
クラウディアは服越しに伝わる体温に身を預け、言葉に気持ちを込める。
「わたくしはシルだけを愛しているわ」
「もう一度」
「わたくしはシルだけを愛してる」
もう一度、と繰り返されるたび要望に応えた。
おかげで何度かは噛みそうになった。
「私も愛しているよ、ディア」
口付けが頭に落とされる。
そして髪を伝って頬へ。
唇に到達するのは手で制した。
「いいではないか、悪い女になるのだろう?」
「バーリ王国にとってです」
「私にも少しぐらい悪くなっていいのではないか?」
ちらりとシルヴェスターの視線が、クラウディアの胸へ落ちる。
先程抱き締められた感触が忘れられないらしい。
(早まったかしら)
視線を受けて、今日はデコルテが見える装いだったのを思いだす。
谷間は見えないけれど、これだけ近寄れば素肌を意識せずにはいられないだろう。
「そう女性の胸を見るものではありませんわ」
「不躾に見ていたなら謝ろう。……ヴァージルを同行させる。あいつならラウルにも物怖じしないだろうからな」
急な話題転換だったが、クラウディアは即座に頷いた。
「はい、わがままを聞いてくださって、ありがとうございます!」
「といっても私の一存で決めていい話ではない。危険はないから父上は反対されないだろうが、君の家族までは説得しないぞ?」
「う……はい、もちろんですわ」
一番の難所は越えられたが、同じくらいの難所があることを失念していた。
(お兄様も許してくれるわよね?)
大丈夫だと信じたい。
ただヘレンと説得するための作戦は練ろうと思った。
とりあえず第一関門は突破したのだから一段落だ。
胸を撫で下ろしたところでシルヴェスターに背中の髪を梳かれ、そちらへ視線が動く。
「できれば直接、ラウル様のお考えを聞きたいのです」
現状から察せられることも多い。
けれど心の中は本人にしかわからないものだ。
「うむ、ラウルが何を考えているのか、知りたい気持ちは私にもある」
悪い男ではないしな、とシルヴェスターは溜息をつく。
「相手がディアでなければ応援してやったものを」
「あら、想像以上に気心が知れた仲なのですか?」
「今は国外へ追い出したい」
「落ち着いてくださいまし」
これはいけない。手段がバーリ国王と同じになっている。
話題を変えようとして、レステーアが頭に浮かんだ。
元々ラウルと話させたがっていたのは彼女だ。思惑は違うだろうけれど。
「レステーア様からのお誘いはどうしましょう?」
「女子寮でおこなわれるお茶会か……何故こちら側の招待客が一人に絞られるのか気になるところだが、あそこなら大丈夫だろう」
先にこちらがラウルと話す機会を設ければ、また出方が変わってくるかもしれない。
レステーアについては、あえて泳がして様子を見ることになった。
「そろそろ下ろしてくださるかしら」
「まだいいだろう?」
「足が痺れてしまいますわよ」
「正当な対価だ」
「もう……」
下心を隠そうともしないシルヴェスターに笑みが漏れる。
(嫌ではないから始末に負えないわね)
離れがたいのはクラウディアも一緒だけれど、淑女であるためにあと少しだけにしようと決めたときだった。
ヘレンが叫ぶ。
「あっ、キャンディ! ダメっ!」
今まで大人しくしていた子猫が急に活発化した。
シルヴェスターが来るまではクラウディアと遊んでいたので、疲れていたのかもしれない。
ヘレンの手から逃れた子猫は、一目散にクラウディアへと駆ける。
空いた椅子へ跳び、更にテーブルの上へ。
そこからクラウディアの胸元に着地するまで一瞬のことだった。
しかし足場となった胸は、上手く子猫を支えきれず――。
「きゃっ!?」
ずり落ちそうになった子猫は爪を立てて必死にしがみつく。
幸か不幸か、子猫の体重はまだ軽く、落下は免れた。
ただその結果、胸の生地を思い切りずり下げることとなる。
谷間がほとんど露出し、クラウディアは咄嗟に片手でシルヴェスターの目を覆った。
「見ないで!」
(こんなの、何てことないはずなのに)
項に熱が走った。
シルヴェスターの目があるだけで顔が火照る。
美しい黄金の瞳に、自分の胸が映っているのかと思うと平常心を保てない。
「いや、私より他を気にするべきだろう!?」
「背を向ければ他の方からは見えませんから!」
言いながら、空いてる手で子猫を抱きかかえる。
もふもふとした手触りに癒され、少しずつ冷静さが戻ってきた。
「あぁ、ダメだわ。生地が伸びてしまったわね」
胸元を正しても、谷間が覗いてしまう。
「申し訳ありません……!」
泣きそうな表情で頭を下げるヘレンに子猫を返し、待機していた侍女にストールを持ってきてもらうよう頼む。
寮に戻さず、子猫を部屋に留めていたのはクラウディアの判断だ。
気にしないようヘレンへ言葉を重ねる。
「驚いたけれど、肌は引っ掻かれていないし大丈夫よ」
最近、脚力が増しているとも聞いていた。
今回のことは子猫に魅了された自分の落ち度だ。
「そろそろ私の視界も解放してくれないか?」
「ストールが届くまでお待ちください」
話している間にもストールを手にした侍女が視界に映る。
ちゃんと色合いや生地の種類を合わせてくれていることに有能さを感じた。
「はい、もう大丈夫ですわ」
「とても惜しい時間を過ごした気がする……」
未練がましく注がれる視線に、クラウディアは苦笑するしかない。
「子猫には罰として、毎日魚を食べさせよう」
「シル、見ましたわね?」
すぐに視界を遮ったものの、後手だったのは否めない。
シルヴェスターは穏やかな笑みでとぼける。
「何のことだ。私は罰を定めただけだぞ」
後日、王城から魚が届けられたことで、クラウディアは確信した。




