5 寝ても醒めても
王宮の空気は、どこかざわついていた。
皇太子ユーヴェハイドが連れ帰った少女――リリナ・グレイランジュ。
その存在はまだ姿を見せぬというのに、城全体に波紋のような変化を生んでいる。
だが当の本人は、静かに眠っていた。
✼ ✼ ✼
「――部屋の支度をしろ。湯の温度はぬるめ。香草はラベンデルを混ぜろ。服は柔らかいものを。締め付けないものだ。食事は消化の良いものを。……甘い菓子も用意しろ」
次々と命じられる指示に、侍女や従者たちは慌ただしく動く。
氷の皇太子。
冷徹無比と名高い男。
だが今、その表情にあるのは冷酷でも威圧でもない。
――落とした宝物を壊さぬよう扱う者の、異様な慎重さ。
腕に抱かれた少女は軽く、息づかいは静かで、夢の中にいるようだった。
扉が閉じた瞬間、空気は静寂に沈む。
ユーヴェハイドはリリナを自室の寝台へそっと降ろし、枕に広がった髪を指で整える。
規則正しい呼吸。穏やかな寝顔。
少しだけ表情が緩む。
椅子を引き寄せ、寝台のそばへ腰掛ける。
ただ静かに、彼女を見る。
脳裏をよぎるメルモンドでの光景。
震えながらも、自分のために立ち向かった少女。
あの声。あの瞳。あの必死さ。
「……転生者、か」
低い声が静かに落ちる。
この世界の理から外れた存在。
リリナ・グレイランジュの両親であるグレイランジュ侯爵夫妻にも、この事実は他言無用として伝えられた。
本来なら忌避され、研究対象か、排除されるべき存在――なのに。
「それでも、渡さない」
囁きは驚くほど穏やかだった。
指先がそっとリリナの頬に触れる。温かい。柔らかい。
幻想ではない。たしかに生きている。
胸の奥で、黒い熱がゆっくりと燃え上がる。
「お前を失うくらいなら……俺は世界を壊せる」
その言葉に激情はなく、ただ事実として口にしているだけだった。
愛ではない。
慈悲でもない。
執着――いや、執念。
「リリナ・グレイランジュ」
名を呼ぶ声音は甘く、それでいて呪いのようだ。
「俺を苦しめた“あの女”とは違う」
一瞬、瞳に影が落ちる。
それは傷であり、怒りであり、過去の亡霊。
しかし次の息は淡く熱を含んでいた。
「……どうしてだ」
指先が彼女の涙痕をなぞる。
「なぜ、お前はこうも俺を惑わせる?」
抱きしめたい。
壊してしまいたい。
守りたい。
逃げられる想像だけで気が狂いそうになる。
矛盾した感情が渦巻きながらも――答えは一つに収束していく。
「お前が離れるというなら……俺は、殺したくなるほどお前を欲している。きっと、お前がいない世界が俺を魔王にする」
唇がリリナの額へ近づく。
ほんの息が触れる距離で止まる。
触れない。
ただ、逃げられない距離で囁く。
「逃げるな、リリナ。お前が俺を選び、俺がお前を選んだ」
その声は優しく、甘く、残酷だった。
✼ ✼ ✼
目が覚めた瞬間、リリナはしばらく天井を見つめた。
……白い。
……広い。
……ふかふか。
そして――気づく。
(……ここ………………推しの部屋ーーーー!?!?)
跳ね起きた瞬間、現実が襲う。
黒と白を基調とした冷たく洗練された空間。
無駄のない家具。
眺めただけで分かる高級感と権威。
そして――奥。
優雅に紅茶を飲む白銀の髪を持つ男。
氷の皇太子、ユーヴェハイド・ディア・リ・ヴァレンディエル。
(推し……本物……近距離……死……尊……無理……)
脳がキャパを超え、リリナは震える。
(死亡フラグの中心人物!!!でも顔が良すぎて許す……いや許せない……いや好き……いや死ぬぅぅ!!)
原作知識が脳内を高速で駆け巡る。
関われば破滅。
執着されれば人生終了。
恋愛ルート? バッドエンド確定。
(詰んだ。推しと距離ゼロ。私の精神も命も終了)
逃げる即ち死亡フラグ。
関わる即ち死亡フラグ。
恋愛即ち死亡フラグ。
(私は! 推しを遠くから見守って満足するタイプなんです!!)
そっと壁伝いに出口へ向かう。
「どこへ行くつもりだ?」
低い声が背後から落ちた瞬間、世界が反転し――
気づけばユーヴェハイドの胸元に押し戻されていた。
(忍者!? いや忍者でもこんな高速移動無理でしょ!?)
逃げようと足が動く前に――
「次逃げたら、キスする」
ピタッ。
リリナは即停止し、石像化。
ユーヴェハイドは満足げに頷く。
「良い子だ」
(良くない! 怖すぎて固まっただけ! 推しからキスなんて受けたら魂昇天して人生クリアしちゃうから止まっただけだから!!)
すべて無視され、ユーヴェハイドが扉へ声をかける。
「入れ」
侍女たちが入室し、丁寧に頭を下げた。
「リリナ様、湯浴みの準備が整っております」
「えっ、わ、私、自分で――」
「いいから行け」
軽く背を押され、侍女に引き渡される。
(推しに触られた……尊……いやだめ現実見て!! 死亡フラグ!!!)
✼ ✼ ✼
浴場は豪奢で、香草の香りが湯気に溶けている。
侍女たちは丁寧で、優しく、手際がいい。
「こちら、殿下が選ばれた香りです。リラックス効果が付与されているんですよ」
湯が肌を包み、緊張が少しずつ溶けていく。
「殿下はとても心配されていました。リリナ様が泣かれた痕を見て……あの方、初めて顔を歪められました」
「……え……?」
胸がきゅっとなる。
(……だめ。流されない。私は推しの幸せを遠くから応援するタイプ……)
けれどその後も侍女たちの声は優しく、気づけばリリナは笑っていた。
✼ ✼ ✼
身なりを整え、淡い水色のドレスを纏う。
鏡に映る自分は――
「……ヒロインじゃん……」
(いや私は観客席!!!)
廊下へ出ると――そこにはユーヴェハイドが立っていた。
リリナを見た瞬間、その瞳がわずかに揺れる。
驚き。喜び。独占欲。
ゆっくりと歩み寄り、低く呟く。
「――綺麗だな」
リリナ、真っ赤。息が止まる。
そして悟る。
(これ恋愛ルート直行便……逃げたい……でも推し……無理……)
ユーヴェハイドは優しく微笑んだ。
けれどその瞳は、逃げ道を塞ぐ獣のものだった。




