28 好きすぎるのは君のせい
ユーヴェハイドが任務で騎士団本部から離れている昼下がり。
王宮第一騎士団の訓練場に、今日もふわりと良い匂いが漂った。
それに気づいた団員たちは顔を見合わせる。
「……まさか、な?」
「いやいやいや、まさかだろ。前回は奇跡だ。皇太子殿下の婚約者様が、殿下のいない時にわざわざ俺たちなんかに差し入れなんて――」
団員の一人がそう言い終える前に、リリナの鈴の音のような声が響く。
「こんにちは……」
一瞬で空気が変わった。
おずおずと様子を伺うように顔を出したリリナを怖がらせないように、団員全員が剣などの武具を片してにこやかに笑ってみせる。
「リリナ様!今日はどういったご用件で?」
「あ、今日も差し入れを……」
リリナが持つ籠の中には、焼きたてのスコーンと、甘い香りのパイ。
「今日、ユヴィ、じゃなかったユーヴェハイド様はは任務でいないと聞いたから、皆さんいつもより厳しい訓練を言い渡されてるかと思って差し入れに来たんです」
柔らかい声。
団員たちはほぼ同時に胸を押さえた。
(天使だ……!?)
我に返った団員たちが慌てて駆け寄る。
「そ、その通りなんです!!あっ、いや、その……本当にありがとうございます!!」
続けて皆が深く頭を下げた。
リリナは首を横に振り、少し寂しそうに笑う。
「こちらこそ……ユーヴェハイド様が皆を信頼してるの、知ってるから。少しでも力になれたら嬉しいです」
その言葉に団員たちは完全に撃沈した。
「「「僕たち、もしもリリナ様が殿下に泣かされるようなことがあれば、死ぬ覚悟でリリナ様の味方になります!!」」」
それに続いて、
「……脅されてたりしません?」
「怒鳴られたりしてません?」
「殿下、怖くないですか?」
不安げに訊かれ、リリナはぽかんと目を瞬かせる。
そして、にこっと笑った。
「ユーヴェハイド様は怖くないですよ……すっごく優しいし、かわいいんです」
訓練場が静止する。
次の瞬間――
「かわいい!?!?!?」
「いやいやいやあの皇太子殿下ですよ!?」
「可愛い……?恐怖を擬人化したような存在が?????」
リリナはくすっと笑って、肩をすくめた。
「はい。かわいいんです」
団員たちが崩れ落ちたその日の騎士団は、なぜか異常な団結力と幸福感で満ちた。
そしてリリナは見送られながら帰っていく。
✼ ✼ ✼
それから数時間後。
任務から戻ったユーヴェハイドは、騎士団本部の中に残った甘い匂いに立ち止まった。
「まさか、リリナが来ていたのか?」
「あ、はい!リリナ様が俺たちに差し入れを持ってきてくれました」
ユーヴェハイドの表情がわずかに曇る。
「俺は、貰っていない。会ってもいない」
その一言で団員全員が背筋を凍らせた。
だが次の瞬間、ひとりが震えながら袋を差し出す。
「ぼ、僕……殿下の分も取っておきました……!スコーンとパイだそうです!」
するとユーヴェハイドは、その団員にだけ短く言った。
「お前はもう帰っていい」
そしてその場の全員に向け、低く静かに告げる。
「お前らは訓練追加だ」
地獄の鐘が鳴り響いた。
✼ ✼ ✼
その夜。
部屋に戻ると、暖炉の前のソファで、リリナが本を抱いたままうたた寝していた。
薄いブランケットが肩から落ちかけている。
ユーヴェハイドはそっと拾い、彼女の肩にかけた。
「リリナ、ただいま」
柔らかく声をかけると、睫毛が震え、ゆっくり瞳が開く。
「ん……ユヴィ様、おかえりなさい」
眠気混じりの声なのに、彼を見る瞬間だけ表情がぱっと明るくなる。
そのままリリナは立ち上がり、迷いなく彼の胸に飛び込んだ。
ぎゅう、と。
不意打ちにユーヴェハイドの心臓が跳ねる。
「会いたかったです。お仕事お疲れ様です」
リリナの声は甘く、それでいて無邪気すぎる。
ユーヴェハイドが必死に抑え込んでいる理性の息の根を、平気な顔で止めにくる。
「ああ。……あまり、可愛いことをするな」
低く呟くが、腕はもう彼女を抱きしめていた。
ユーヴェハイドは、思わず額をリリナの肩に押し当てる。
「…………自覚してくれ。俺の理性は、リリナ相手に弱すぎる」
震える声。
リリナはくすっと笑い、彼の髪をそっと撫でる。
「疲れてますね。じゃあ……今日はたくさん甘えてください」
ユーヴェハイドは──息を止めた。
そしてしばらくしてから、降参するように呟いた。
「……お前は俺を殺す気だろう」
リリナは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔が――彼にとって何よりの救いで、何よりの破壊だった。
「ただ、ユヴィ様が大好きなだけです」
リリナのその一言で、ユーヴェハイドの中の何かが――確実に軋んだ。
「……そういう顔で言うな」
低く、押し殺した声。
それでも腕は離れず、むしろ逃がさないようにリリナの背へ回される。
「え……?」
何がいけなかったのか分からない、と言いたげな顔。その無自覚さが、一番危険だと本人だけが知らない。
「……聞け、リリナ」
額を寄せ、視線を合わせる。
逃げ場はないのに、触れ方だけは驚くほど慎重だった。
「俺は今、かなり……危ない」
「危ない、ですか?」
「そうだ」
喉が鳴る。
それを悟られないよう、ユーヴェハイドは一度目を伏せた。
「お前が可愛すぎてな」
その言葉に、リリナの頬が一気に染まる。
「え、えっと……」
否定しようとして言葉に詰まる、その間。
ユーヴェハイドは耐えきれず、そっと彼女の顎に指を添えた。
持ち上げるだけ。キスはしない。
それだけなのに、距離が近すぎて、リリナは息の仕方を忘れる。
「……その反応」
囁きは耳元すれすれ。
「俺がお前を抱きたいのを、どれだけ我慢してると思ってる」
びくり、とリリナの肩が跳ねた。
「だ、抱く……?!」
リリナは耳まで赤くなって、視線が定まらない。
その反応に、ユーヴェハイドは思わず苦笑した。
しかし、すぐに息を整え、額を彼女の額に軽く当てる。
「……今はしない」
きっぱりとした声。
けれど、その言い方は優しく、少しだけ苦しそうだった。
「約束する。だから安心しろ」
そう言って、顎に添えていた指を離す。
代わりに、そっと指先でリリナの頬をなぞった。
触れるだけ。それだけなのに、リリナはぴくりと肩を揺らす。
「……触られるだけで、そんな顔をするな」
「だ、だって……ユヴィ様が……」
「可愛い」
即答だった。
リリナが言い返そうとする前に、ユーヴェハイドは彼女を腕ごと包み込む。
ぎゅっと強く――けれど、痛くない。
「こうしているだけでいい」
低く、静かな声。
「一日中、俺の頭の中にお前がいた。任務中も、戻ったら何を話そうか、そればかり考えていた」
「……ユヴィ様」
「お前が俺を好きでいてくれる。それだけで、全部報われる」
リリナはそっと腕を回し、胸に頬を寄せた。
鼓動が早いのが、はっきり分かる。
「……ドキドキしてます」
「しているに決まっているだろう」
自嘲気味に笑って、ユーヴェハイドは彼女の髪に顔を埋める。
「好きな女が腕の中にいるんだぞ」
隠しもしない、真っ直ぐな言葉。
それを聞いた瞬間、リリナの胸がきゅっと締め付けられた。
「……私も、大好きです」
そう答えると、彼は一瞬だけ動きを止めた。
次の瞬間、ぎゅっと、さっきより少しだけ強く抱きしめられる。
「……ああ、もう」
呟きは、半分降参だった。
「本当に、俺をどうしたいんだ」
「幸せに、なってほしいです」
即答。あまりにも迷いのない声に、ユーヴェハイドは思わず笑ってしまった。
「……リリナがいるならもう幸せだ」
そう言って、彼はリリナの額にそっと口づける。
短く、優しいキス。
「今日はここまでだ。これ以上は……俺がもたない」
「え、えっと……はい」
リリナは頷きながらも、名残惜しそうに彼の服をきゅっと掴んだ。
その仕草を見て、ユーヴェハイドの目が一瞬だけ危うくなる。
「……離れないのか」
「だめ、ですか?」
「だめなわけがない」
ため息混じりに言って、彼はその手を包む。
「今夜は、こうしていろ」
ソファに並んで座り、肩を寄せ合う。
何もしない。ただ、温もりを分け合うだけ。
それだけで、ユーヴェハイドは十分だった。
(……守る)
心の中で、静かに誓う。
この無自覚で、優しくて、愛おしい存在を。
――好きすぎて、どうしようもない。
そんな夜だった。




