27 この平穏が続くと信じた朝
その夜。
約束通り、ユーヴェハイドはいつもより早く部屋へ戻ってきた。
扉を開けた瞬間、暖炉の灯りの前で本を読んでいたリリナが顔を上げる。
「おかえりなさい!」
その声を聞いた瞬間、ユーヴェハイドの肩から緊張がほどけた。
「ただいま、リリナ」
今日は“仕事の顔”ではない。
柔らかい、婚約者の顔だった。
⸻
夕食にはいつもの席が用意されていたが、リリナがフォークを手に取ろうとすると――
「……違う」
ユーヴェハイドが椅子を引き、リリナを膝へそっと座らせる。
「わ、私は自分で食べられますよ!?」
「食べられるかどうかじゃない。俺が食べさせたいんだ」
笑ってため息をつきながら、それでもスプーンを口へ運ぶユーヴェハイド。
慣れたはずなのに、リリナの頬はほんのり赤い。
「……ユヴィ様、見すぎです」
「リリナが可愛いのが悪い」
そんな当たり前みたいな口ぶりが、余計に恥ずかしい。
食事を終えたあと、二人はふわふわの毛布に包まれてベッドへ。
特別なことをするわけでもなく、他愛のない話をする。
最近見た夢の話や、シェフが作ってくれたイチゴスイーツの話、今日の騎士団の反応に驚いた話など。
どうでもいいことで笑い合う。
話しているうちに、ユーヴェハイドは眠そうに瞼を落としながらも、「……今日は寝ない。リリナとずっと話す」と口では強がる。
「眠いのに?」
「いや、眠くない」
言いながらあくびを噛み殺しているのが可笑しくて、リリナはくすりと笑った。
そして、ゆっくりと腕を回してユーヴェハイドを抱きしめた。
ユーヴェハイドの大きな体が、子どもみたいに収まる。
「……リリナ、やめ……」
そう言いかけた声は、既にとろんと甘く溶けている。
リリナはその額へそっと口づけ、髪を優しく撫でた。
「いつも頑張ってるんですから、眠くなるのは仕方ないですよ?」
「……撫でるな……寝てしまう」
「寝てもいいんです」
「よくない。今日は……リリナと……」
かくん、と頭が揺れて言葉が小さく途切れる。
呼吸がゆったりと深くなっていく。
リリナがもう一度優しく囁く。
「おやすみなさい、ユヴィ様」
嫌だと言うように、彼は腕をぎゅっと回してきた。
しかし――
そのまま、静かに眠りへ落ちた。
寝顔は驚くほど幼くて、安らかで。
昼間の鋭さや威厳なんて微塵もない。
リリナはそっと微笑み、小さな声で呟いた。
「……かわいい人」
そしてその夜、ユーヴェハイドは久しぶりに深く眠った。
リリナの温もりの中で。
✼ ✼ ✼
翌朝。
カーテン越しの柔らかな光が差し込み、部屋は淡い金色に染まっていた。
リリナは先に目を覚ましていたが、腕の中にいるユーヴェハイドが動く気配はない。
まるで抱え込むようにリリナを腕に閉じ込めたまま、彼は穏やかに眠っている。
その寝顔は昨夜と同じく幼くて、愛おしくて。
リリナはそっと指先で前髪を整えるように撫でた。
その瞬間――
ユーヴェハイドの眉がぴく、と動く。
「……ん」
低く掠れた声。
まだ夢の中と現実の境界にいる声。
「ユヴィ様、おはようございます」
優しく声をかけると、うっすらと目を開いた。
眠そうな青の瞳がリリナを見つけ、数秒ぼんやり。
やがてぽつりと、まるで子どもみたいに呟いた。
「……リリナ……」
「そうですよ。起きられますか?」
ユーヴェハイドは返事の代わりに、ぎゅう、と抱きしめる力を強めた。
「……まだ寝る」
「でも、騎士団のお仕事が――」
「……あと五分」
「昨日もそれ言って、結局二十分寝てましたよ?」
そう言うと、彼は目を閉じたまま不満そうに唇を尖らせる。
「リリナは寂しくないのか。リリナのせいだ。離れ難い」
その声音があまりにも素直で、リリナは胸がくすぐったくなる。
「じゃあ……五分だけですよ?」
「……ん。約束する」
そう答えたはずなのに、ユーヴェハイドの腕は緩む気配が一切なく、むしろリリナの首元に頬を寄せてきた。
「ゆ、ユヴィ様、首くすぐったいです……っ」
「……リリナの匂いだ」
くぐもった声でそう呟きながら、指先でリリナの背中をゆっくり撫でる。
その仕草が甘すぎて、リリナの方が顔を赤くする。
「……寝起きにそんなこと言わないでください……」
すると、ユーヴェハイドはわずかに笑った。
まだ眠気をまとった、柔らかい笑み。
「リリナだから言う」
「……ずるい」
「リリナは俺のだ。ずるくていい」
囁き声のまま、額にそっとキスが落ちる。
そのキスが終わるより先に、今度こそユーヴェハイドは眠りへ戻っていった。
腕の力も、息遣いも、全部安心しきっている。
リリナはそっと彼の髪を撫でた。
「……ほんと、かっこいいのにかわいいんだから」
そう呟きながらも、幸福を噛みしめるように微笑む。
そして五分後。
意図的に優しく揺らす声がベッドに落ちた。
「ユヴィ様、起きて。今度こそ本当に時間ですよ?」
今度はゆっくりと目を開け、眠気を残しながらも彼は起き上がる。
そして眠たそうな顔のまま、当たり前のようにリリナへ手を差し出す。
「……先に行くな。離れるな」
「もう……子どもみたいですね」
「違う。好きだから一緒にいたいんだ」
その言葉に、リリナの心臓は跳ねた。
朝から、どうしようもなく甘い。
ユーヴェハイドがようやく完全に覚醒し、身支度を整えた頃。
リリナはソファに座り、セレナが用意した紅茶を飲みながらその様子を眺めていた。
騎士団の制服を身に纏った彼は、数分前までリリナに甘えていた人物と同じとは思えないほど冷静で鋭い。
背筋は伸び、一挙一動に威厳が宿る。
「……すごい。さっきまで眠そうだったのに」
思わず呟くと、ユーヴェハイドは手袋を嵌めながら静かに答えた。
「リリナの前以外で隙など見せない」
「朝はいつも隙だらけですもんね」
小さく笑うと、彼は一瞬だけ視線を外し――耳が僅かに赤くなる。
だが次の瞬間、扉が控えめにノックされた。
「殿下、時間です!」
聞き覚えのある声。
シルバーだ。
ユーヴェハイドが扉を開けると、そこには腕を組んで待っていたシルバーと、その後ろで無言の圧を放つエルドの姿。
「殿下、……今日は遅れず行かせますよ。逃げ道は塞ぎました」
「俺は逃げていない」
「否定が早いです。……まあ、リリナ様に甘えて寝坊しかけた件は団員には黙っときます」
ユーヴェハイドの眉がわずかに動く。
「言ったら殺す」
「だから言いませんってばぁ!」
(シルバーってば、言う気満々の顔してる……)とリリナは心の中で突っ込む。
その間にエルドがユーヴェハイドの背を押す――いや、ほぼ押し倒す勢いで外へ誘導した。
「エルド、押すな。歩いている」
「押さないとリリナ様の所に戻る気配がするので」
「……煩い」
「事実ですので」
押されながら退室していくユーヴェハイド。
去り際、彼はリリナにだけ柔らかな目を向けた。
「いってくる」
その声音があまりにも甘くて、リリナは思わず笑う。
「いってらっしゃい。怪我だけしないでくださいね」
ユーヴェハイドは、音のない小さな口動きで返した。
――愛してる。
そして、バタン、と扉が閉じられた瞬間。
廊下中に響く、
「シルバー、離せ。俺は歩けると言っている」
「はいはーい、存じ上げております~~。でも団員が待ってますんで!」
「今日もよろしくお願いします」
「お前ら、覚悟しておけよ」
という声に、リリナはくすくす笑い、紅茶をもう一口飲んだ。
「……今日も、がんばってるなぁ」
胸が温かくなる。
けれどその奥で――
小さく、不穏な気配も動き始めていた。
王都のどこかで、風が低く唸る。
大魔道武闘会まで、あと七日。




