24 繰り返された選択の先で
王都北区は静まり返っていた。
魔物の残骸と焦げた匂いだけが残る通り。
鎮圧は終わったはずなのに、空気のざわつきは収まらない。
ユーヴェハイドは抉れた石畳を見下ろす。
そこには、不完全な魔法陣の焦げ跡――いや、自然に刻まれたかのような痕跡が残っている。
「ルヴェインはここで倒れたのか」
シルバーが頷いた。
「魔物を倒した直後、何者かの気配。次の瞬間、吹き飛ばされたと。誰も攻撃を“視認”していません」
「……見えなかった、か」
「はい。斬撃痕、魔力痕、どれも残っていない。ですが――」
シルバーの声に緊張が走る。
「副団長は、『女が笑っていた』と言っていました 」
ユーヴェハイドの目が細くなる。
その瞬間――
すう……と風が吹いた。
方向は説明できない。
建物の隙間でも、天空でもない場所から吹き込む、異様な風。
そして――ほんの一瞬、鼻歌。
ぞくり、と空気が震える。
全員が振り返った先に――少女が立っていた。
年齢は十七ほど。
黒髪は肩で揺れ、瞳は夜を溶かしたような深い赤。
服装は古い儀式服のような黒いドレス。
だがそれ以上に異様なのは――
彼女にだけ、光も影も触れていないこと。
「こんにちは!」
声は澄んで無邪気。
しかし、その奥は底なしの虚無。
エルドが警戒し、一歩前に出た。
「名を名乗れ。どこから来た」
少女はくすりと笑う。
「まだ名乗っちゃだめなの、怒られちゃう」
「誰がそう言った」
少女は答えず、空のどこかを見つめた。
まるで――見えない誰かに確認するように。
そして視線を戻し、ユーヴェハイドだけを見る。
その瞳は無垢――なのに残酷だった。
ユーヴェハイドに微笑みかけながら口を開く。
「ねぇ、貴方はこのままで幸せになれる?貴方の望みはもっと深い、深淵にあるんじゃないの?」
「何が言いたい?」
ユーヴェハイドの声には答えず、言葉遊びのように少女は続ける。
「もうすぐ、私を“止めてる人”がいなくなるよ」
――ユーヴェハイドの眉がわずかに動く。
少女はまっすぐに彼の目を見た。
「そうしたら――王都は“正しい形”に戻るよ。私と貴方が望んだ、本当にあるべき姿に」
シルバーが息を呑む。
ユーヴェハイドは声色を変えず問う。
「俺が望んだ?お前は、一体何をしようとしている」
少女は答えない。
代わりに――愉しげに続けた。
「あなた、まだ知らないんだね。自分の運命を」
「何をだ」
「あなたはまたあの子を選んだ。だけどもう止めてる人がいなくなる。全部、底に沈めちゃえば楽だよ」
言葉の意味が理解できないはずなのに、その響きだけで、空気に亀裂が入るような圧が走る。
少女はゆっくりとユーヴェハイドの横を通り過ぎる。
歩くのではない。滑るように。
そして囁いた。
「壊れる前って綺麗だよ。まだ形を保ってるときが、いちばん脆い」
ユーヴェハイドは間髪入れずに剣を振り翳すが、少女は影と共に消えていた。
風だけが残る。
沈黙のあと、ユーヴェハイドは低く命じた。
「城の防衛を上げて、全区画に警戒。それと……」
ほんの一瞬だけ、視線が遠くを見た。
「本人には気付かれないように、リリナの周囲の警備を倍にしろ。必ずだ」
シルバーとエルドが頷く。
ユーヴェハイドの声だけが残る。
「正体の分からぬ“敵”ほど厄介なものはない」
そして夜は、静かに、しかし確実に崩れ始めていた。
✼ ✼ ✼
「ルーク様。こちら魔塔に届いた、西方の国々から飢饉を救って欲しいという嘆願書でございます、ご確認ください」
ヴァレンディエル帝国の上空に聳え立つ魔塔の最上階、魔塔主ルークの一室に、側仕えの魔導師の声が響いた。
ルークはその声を聞きながら、北区方面で揺らいだ魔力の歪みに意識を集中させる。
瞼を閉じたまま、遠く――王都の魔力の流れに意識を沈めていた。
北区の一点、黒く濁った魔力。
そこには――あの少女と、封じられていた存在の影が蠢いている。
「……動き始めたか」
低く、吐き捨てるような声。
廊下の向こうでは、まだ先程の魔導師が呼び掛けている。
「ルーク様?お返事を……」
ルークの苛立ちは限界に達していた。
「煩い」
短く鋭い声が空気を切る。
だが魔導師は諦めず、遠慮がちに扉を開く。
「失礼いた――」
次の瞬間、彼は息を飲んだ。
天井から床まで流れ落ちる膨大な魔力の糸。
その中心で、ルークは片手を額に当て、まるで誰かを押し返すように魔力を放っていた。
「……、………れ、……る」
聞き取れない程複雑な言葉で紡がれる呪文だが、並大抵の魔導師ではそれがどんな呪文かさえ理解できない。
ぼた、と赤い滴がルークの鼻から口を伝い落ちる。
鼻血。
しかしその色は――人の血より深く、黒に近い。
魔導師が慌てて駆け寄ろうとする。
「る、ルーク様!?魔力過負荷です!もう限界――!」
「触るな」
冷たい声音に、魔導師の足が止まる。
ルークの瞳がゆっくりと開かれる。
その虹彩は燃え盛る炎の色。
だが奥に燃えているのは、焦りとも恐怖ともつかない濁った感情。
「今、手を離したら――あいつが目を覚ます」
魔導師は震えた。
「“あいつ”とは……?ルーク様程の魔導師様がそこまでして、一体なにを封じているのですか!?」
「相変わらず、どの世界線でも煩いなお前は」
息を荒くしながら、ルークは苦笑する。
「俺が抑えているうちはいい。だが……」
塔全体が低く唸る。
床石に刻まれた魔法陣が、自律的に動くかのように淡く脈動する。
「もう時間がない」
魔導師は恐る恐る問う。
「……止めねば、どうなるのですか」
ルークは視線を北へ向けたまま、答える。
「壊れる」
その声は希望もためらいもなかった。
「城も、王都も、この国も。そして――今回こそは……完全に壊れるぞ、リリナ」
魔導師の顔が凍り付く。
ルークは血の付いた指先で鼻血を拭い、険しい目のまま呟いた。
「……ユーヴェハイド。間に合うか。お前は――また同じ結末を選ぶのか」
魔法陣の光が強くなる。
空気が軋む。
そしてルークは静かに、しかし必死に詠唱を深めた。
「まだだ。まだ終わらせない――」
彼の声はかすれ、震え、しかし確固としていた。
「封印は、俺が保つ。リリナが……力に目覚めるまでは」
風が塔を揺らした。
まるで、外側から誰かが――扉を叩いているかのように。




