22 氷がほどける夜
ユーヴェハイドは、静かにベッドの傍に座り込んだ。
リリナはまだ、熱に魘されて眠ったまま。背中には深く刻まれた傷跡が残り、毒の影響で体は小さく震えている。医師により包帯が巻かれてはいるが、痛々しいほどの傷はすぐに包帯に滲み出る。
ユーヴェハイドはリリナの手を握る。
ただそれだけ。だけれど、一度も離さなかった。
二週間──正確には十四日間、彼女は目を覚まさない。
ユーヴェハイドがリリナを避けていた期間と同じだけ、リリナはユーヴェハイドの世界から消えていた。
だが今、ユーヴェハイドの心にあるのはただ一つ。
リリナが傍にいてくれること。
それ以上でも、それ以下でもない。
幼い頃から抱えてきた孤独と恐怖が、胸の奥でざわめく。
誰も自分を恐れず、笑いかけてくれたのは両親とルーク、シルバー、エルドだけだった。
唯一信じた侍女に裏切られ、母を失い、怒りと悲しみの中で氷の魔法が覚醒した日。
あの時の恐怖は、誰かを守れなかった痛みは、今ここで再び重くのしかかる。
しかしユーヴェハイドは、感情を声にすることも、体で示すこともなかった。
ただひたすら、リリナの小さな手を握り、冷たい手のぬくもりを伝える。
(……離れない)
心の中でそう誓う。
彼女が眠るその瞬間も、熱に魘されるその瞬間も、手を握り、そばにいる。
何もできないことへの苛立ちと無力感が胸を締めつけるが、ユーヴェハイドはそれを表に出さない。
シルバーとエルドが「寝たほうがいい」と言った日も、彼は無言で追い返した。
今は皇太子宮にユーヴェハイド以外、誰もいない。
守るべき者のために、ただ一人、静かに、永遠に続くような夜の中で手を握り続けている。
氷の魔法を操る者として、冷静沈着であることが常だったユーヴェハイド。
だが今、彼の心は熱く、痛く、そしてただ――リリナを想い続けている。
目を閉じたまま、脈打つ手のぬくもりを感じながら、ユーヴェハイドは静かに涙をこぼした。
声は出さず、ただひたすら、リリナの傍にいる。
幼き日の孤独を抱え、誰にも見せなかった弱さを抱えたまま。
✼ ✼ ✼
リリナは、ずっと誰かに呼ばれているような気がしていた。
そうしてゆっくりと意識を取り戻した。
ずっと誰かに手を握られていた感覚――その温もりが、夢の中ではなく現実だと気づく。
そっと目を開けると、ユーヴェハイドがリリナの手をしっかり握っている姿があった。
その瞳には、眠れぬ日々の疲れと、胸に秘めた痛みが映っている。
「……リリナ……?」
ユーヴェハイドの声はかすかに震えていた。
まるで、リリナが目を覚ました姿が、現実ではなく自分の願望なのではと疑うように。
「ユヴィ、さま…………」
しかしリリナがユーヴェハイドの名を呼べば、彼は初めてリリナの前でぽろぽろと美しい涙を流した。
その涙は頬を伝ってリリナの手に流れ落ちる。
声は出さず、ただ目に涙を浮かべながら、手のひらで彼女の小さな手を握るだけ。
「……いなくならないで……」
ユーヴェハイドが漏らした、らしくない言葉に、リリナはは瞬きも忘れ、胸の奥で何かが張り裂けそうになる。
「……もう、俺は推しじゃない?」
その問いは、優しさや傲慢さではなく、深く切実な想いの裏返しだった。
ユーヴェハイドは、これ以上ここにいればリリナに無理をさせてしまう――そう思い、そっと手を離そうと体を少し引いた。
リリナは、その動きに心を締めつけられた。
また拒絶されてしまう、嫌われてしまうと勘違いが加速する。
(いや、離れていかないで……)
熱と痛みでぼんやりしていながらも、必死に手を伸ばす。
だが、ユーヴェハイドは気づかない。
彼女の小さな手は、空をかすめるだけだった。
リリナは、それでもユーヴェハイドを追いかけようとした。
必死に体を起こしてベッドを降り、ユーヴェハイドに手を伸ばす――その瞬間、背中に鋭い痛みが走った。
「うっ……!」
そのまま力尽き、リリナの体はは床に崩れ落ちる。
「!?ッリリナ!」
ユーヴェハイドの声が、夜の静寂を破った。
彼は一瞬で駆け寄り、彼女を抱き上げる。
背中の傷跡を目にし、熱と痛に顔をしかめながらも、抱きしめる腕を一瞬も緩めない。
リリナは熱に浮かされる心の内に秘めた想いに蓋をしていたが、ユーヴェハイドがリリナを見る必死な表情を見た時、ついに蓋が外れる。
「リリナ……?」
リリナの手が頬に触れて、ユーヴェハイドは戸惑ったような声を出す。
しかしそれに返ってきたのは、言葉ではなく口付けだった。
それも、今まではユーヴェハイドから贈られる、唇以外の頬や額への口付けだったのが、今日初めてリリナに唇を奪われた。
ユーヴェハイドが瞳を見開き固まる前で、リリナは泣きながら、熱に浮かされる心の内に秘めた想いを吐き出した。
「いかないで、ずっと私のそばにいて」
そして続けられた言葉。
「ユヴィ様が好き、ただの推しなんかじゃない……っ、ユヴィ様が好きなの……っ!」
まだ、伝え足りない言葉がたくさんある。
リリナは溢れ出す思いをどれから言葉にするべきか、どうしたら受け取ってもらえるか考えながら次の言葉を紡ごうとしたが、それらは声にはならなかった。
リリナの告白を受け止め、ユーヴェハイドは戸惑いも躊躇も一切なく、そっと唇を重ねる。
この二週間、ろくに手入れがされていなかったユーヴェハイドの唇は少しかさついていた。
「ん、ふ……っ」
最初はそっと、しかし次第に深く――。
彼の手はリリナの小さな背中に回り、傷跡を労るように抱きしめる。
リリナの手も自然とユーヴェハイドの背や胸に触れ、互いの体温を確かめ合う。
「……リリナ……」
ユーヴェハイドの息混じりの声が、唇を離した瞬間にかすかに漏れる。
その声は切なく、温かく、そして紛れもなく彼女のものを求めるものだった。
リリナは小さな声で、しかし確かに応える。
「ユヴィ様……んっ、もっと……」
その一言で、ユーヴェハイドは再び唇を重ねる。
ためらいなく、彼女の想いを受け止めるため、全身で伝えるために――。
口付けは深く、何度も重ねられ、二人の間にあった不安や孤独、恐怖が静かに溶けていく。
夜の静寂は、二人だけの世界に変わった。
窓の外の風の音も、遠くの灯火も、すべては消え、ユーヴェハイドとリリナだけが存在する。
繰り返される唇の重なりが、互いの心に温もりと安心を刻み込む。
「好き。好きだ……」
ユーヴェハイドの言葉は口付けの間にもこぼれ、リリナのそばで囁かれる。
その声にリリナは小さく頷き、胸の奥に溢れた涙をぬぐいながら、再び唇を重ね返す。
互いの息遣い、鼓動、温もりが混ざり合い、まるで時間さえも止まったかのようだった。
ユーヴェハイドは、伝えきれなかった切なさをすべて詰め込み、リリナに何度も何度も唇を重ねる。
そしてリリナも、今まで気付かぬふりをして抑え続けていた想いをすべてぶつけるように、彼の口付けに応え続けた。
二人だけの夜は、愛と安堵に包まれ、永遠に続くかのように感じられた。




