21 また、届かない
噂は最初、ひそやかな囁きだった。
けれど、ユーヴェハイドが皇太子宮に戻らない日が続くほど、囁きは確信めいた声へと変わっていく。
『喧嘩したんですって』
『もう飽きられたのかしら』
『いい気味。もうすぐ破談になるわ』
笑い声と侮蔑。
そして――陰に隠れているつもりの視線。
リリナは何も聞こえないふりをした。
聞かなければ傷つかない、と信じたかったから。
けれど――
夜になり部屋に一人になると、張り詰めていた心はあっけなく崩れる。
枕を握り、小さく震えながら声を押し殺して泣いた。
――ユーヴェハイドに会いたい。
――謝りたい。
――話したい。
けれど、彼は部屋に戻ってこない。
毎日寝る前に交わした軽い会話も。
朝起きたときの優しい撫で方も。
抱き寄せられる温度も。
――もう、どこにもない。
リリナは、それがたまらなく苦しくて、胸が裂けそうだった。
✼ ✼ ✼
シルバーとエルドは護衛として常にリリナの側にいた。
だが令嬢たちの陰湿なやり口は、彼らの目の届かないところを狙ってくる。
紅茶に混ぜられた下剤。
ドレスに塗られた溶剤。
盗まれるアクセサリー。
リリナは何も言わなかった。
――言ってしまえば、もっとユーヴェハイドを縛ってしまう。
その思いが、彼女の口を閉ざさせた。
✼ ✼ ✼
二週間が過ぎた頃。
リリナは昼間、温室で過ごすことが増えていた。
そこだけが、心が静かになる場所だった。
温室に満ちる花の香りの中、シルバーとエルドが少し離れて見張る。
リリナは静かに息を吸った。
(……会いたい。ユヴィ様に……)
胸が痛む。
そのとき――
カツン、と何かが外れる音がした。
「……?」
見上げた照明が、ぐらりと揺れる。
エルドが叫んだ。
「リリナ様!!」
次の瞬間、巨大な照明がリリナへと落下した。
ガラスが砕け、破片の音が温室に響き渡る。
シルバーとエルドが身体を投げ出し、リリナを守ろうと覆いかぶさった。
だが――遅かった。
鋭い破片が雨のように降り注ぎ、リリナの背中に容赦なく突き刺さる。
「う……ッ……!」
息が詰まり、声も出ない。
ガラスに塗られていた毒が肌に触れた瞬間、血管を走るような焼け付く痛みが広がった。
熱い。熱くてたまらない。
自分が自分でなくなるような熱が思考を奪う。
視界が歪む。
熱が引いた次は、急速に身体が冷えていく。
意識が霞み、手足から力が抜け落ちていく。
ただ、遠くでシルバーとエルドの叫ぶ声だけが、耳の端をかすめた。
「誰か!!医師を――急げ!!」
エルドの手は震えていた。
「リリナ様!!駄目ですッ、目を……開けてください!!」
(……困ってる……ごめんなさい……わたしは……大丈夫……)
リリナは意識を失いかけながらも、薄く笑みを浮かべて二人を見る。
そして、苦しげに、泣きそうに――ユーヴェハイドの姿を思い浮かべた。
「…………ユヴィ……さま…………ごめん、なさ……」
その言葉を最後に、瞳から光がふっと消えた。
身体の力が完全に抜け、エルドの腕の中で崩れ落ちる。
「リリナ様!?おいッ、リリナ様!!」
「目を開けろッ!リリナ様!……医者はまだか!急げ!!」
エルドとシルバーの叫びだけが温室に響いた。
そこは血の匂いと花の香りで満たされていた。
風が吹き、花弁が揺れる。
まるで――悲しんでいるように。
そしてその知らせは、騎士団本部で訓練中のユーヴェハイドの耳へ届く。
彼の運命を狂わせる知らせとして――。
✼ ✼ ✼
「ユーヴェハイド殿下ッ、リリナ様が――!!」
従者が伝えたのは、何者かが仕掛けた細工で照明が落下し、破片と毒によってリリナが重傷を負い意識不明だという凶報だった。
ユーヴェハイドは持っていた剣を思わず取り落とした。
目の前が真っ青に染まり、全身から血の気が引いていく。
従者の声が遠ざかり、何も認識できない。
「……は、……ぁ……?は、ッ……ぁ?……リリナ……?」
息が乱れたまま、彼は騎士団本部を飛び出した。
部屋へ駆け戻ると、そこにはベッドに横たわるリリナの姿があった。
――眠ったままの、か弱く、美しい彼女。
シルバーとエルドが控えている。
ユーヴェハイドは何も言わず、二人の胸ぐらを掴んだ。
「ッッ!お前たちが付いていながら……どうしてこんなことになった!!」
声は怒りと焦燥で震えていた。
「殿下!!もし我々がいなければ、グレイランジュ様は即死でした!」
医者の説明に、ユーヴェハイドの苛立ちと混乱がさらに複雑に絡み合う。
「――ッ、くそ……!」
叫びながらも、掴んだ手は徐々に力を失っていく。
誰も責められない。
責めるべきなのは――リリナを避けていた自分だ。
医者が出ていこうとした瞬間、ユーヴェハイドは縋るように問い詰めた。
「待て……!まだ何かできるはずだろう!?」
医者は首を振る。
「……これ以上はできません。後はリリナ様ご自身の体力と精神に委ねるしかありません。背中の傷は……恐らく一生消えません」
その言葉に、ユーヴェハイドの胸が音を立てて軋む。
(――俺は……また何もできない……)
焦燥。無力感。怒り。
全てが胸の奥で渦巻いた。
しばらくその場に立ち尽くし、ただリリナの寝顔を見つめるしかできない。
「……くそ……」
声にならない声を押し殺し、拳が震える。
静かに人払いをし、シルバーとエルドを退かせる。
部屋には二人きり。
傷だらけの背中。微かに上下する呼吸。
ユーヴェハイドはベッドの端に座り、彼女の手にそっと触れた。
あの日、自分が拒絶したときの、彼女の傷ついた顔が何度も頭によみがえる。
涙が込み上げる。
だが、抑え込む。
今は泣くことすら許されない気がした。
(――どうすれば……守れる……?)
触れているのが奇跡のようで、指先は震えていた。
沈黙の中で、二人きりの時間だけが流れる。
外の噂も、悪意も、この部屋には届かない。
ユーヴェハイドは幼いころの記憶を思い出した。
誰も自分を恐れず受け入れてくれる者など、ほとんどいなかった。
才能を恐れ、嫌悪する視線。
唯一、優しくしてくれた侍女。
けれど――その優しさは裏切りだった。
「こんな化け物が生きていたら、世界が壊れる」
彼女は炎の魔法具を手に、幼いユーヴェハイドへと襲いかかった。
――その瞬間、王妃であった母が庇って命を落とした。
その悲痛な記憶が、今の状況と重なる。
(……また、守れなかった……)
リリナの手を握る指先に、無意識に力が入る。
(――もう誰も失いたくない。俺が守る……)
だが現実は無情で、答えは出ない。
ユーヴェハイドはリリナに寄り添い、額に手を当てて震える呼吸を整えようとした。
(――どうして……俺は……守れない……)
夜の静寂の中、彼は初めて心の底から弱さを晒し――
リリナが目を覚ますその瞬間まで、決して離れないと固く誓った。




