20 痛む心は誰のせい
ルークの言葉が空気に沈んだあと、リリナはぎゅっと唇を噛んだ。
ユーヴェハイドの手はまだ離れず、まるで「答えを待つ」ように温もりだけを彼女に伝えてくる。
ルークは淡く息を吐き、遠くを見るような目をした。
「……少し話そう。俺が何をしてきたかを」
リリナが顔を上げると、ルークは静かに語り始めた。
✼ ✼ ✼
夜空に浮かぶ赤い月。
世界の端が崩れる音。
その中心に――アリアがいた。
それは笑っていた。
枯れた黒い花の冠をつけ、真っ赤な血のようなドレスを纏い、「自分こそがヒロインだ」と言うような圧。
けれどその瞳は底なしの闇。
そして背後には――巨大な影。
角と牙を持ち、世界を喰らう存在。
悪魔。
「――やっぱり、世界は歪めば歪むほど綺麗ね」
アリアはそう呟いた。
その声は、聖なる少女ではなく、裏返った祈りと狂気の愛に沈んだ“別の何か”だった。
「私に相応しいのは魔王。魔王となったユーヴェハイドこそが私に相応しい。世界崩壊の後に、闇の世界で幸せになるのよ」
ルークはその前に立ち塞がる。
魔塔主として、世界の核に最も近い存在として。
「アリア・ローゼンベルグ。世界の均衡を乱す契約は禁忌だ」
アリアはくすりと笑う。
「あなたがいなくなれば、禁忌だとしても誰も止められないわ」
その瞬間、世界が裂けた。
魔塔の力がアリアへ吸われ、悪魔の影が世界に根を伸ばしていく。
世界が壊れる音がした。
その崩壊の中で、ルークはただひとり立ち向かった。
(俺が止めなければ、このままではユーヴェハイドとリリナが……)
魔力を燃やし、存在そのものを削り、ただひたすら抑え込んだ。
世界に亀裂が走り、時空が歪み、記憶が書き換わり――
その果てで、本来選ばれていたヒロインの存在が消えた。
リリナ・グレイランジュという名も、幼き日の笑顔も、ユーヴェハイドが愛した彼女の記憶さえ、すべてがこの世界から跡形もなく消えていった。
アリアは消耗した闇に近い魔力を取り戻すため、深い眠りに落ちていく。
ただ、アリアは一つだけミスを犯していた。
アリアはリリナに関する記憶を世界から消したつもりでいたが――
ただ一人、ルークだけは自身の魂に傷を負ってまで、リリナの記憶を守り抜いた。
(――忘れられていいはずがない)
世界が滅びても守る。
たとえ自分が消えても、この歪みを正す。
それがルークが縛られた、ただひとつの誓いだった。
✼ ✼ ✼
そして現在。
抑え続けた悪魔の契約は――もう限界に近い。
ルークは微かに笑った。
「俺の存在はいずれ消えるが、アリアはもう止まらない。そのとき、この世界で彼女に対抗できるのは――君とユーヴェハイドだけだ」
リリナの手が震える。
わかってしまった。
ユーヴェハイドの手は温かい。
けれど――その温もりの先には、血と悲劇と戦いがある。
ルークの声が重く落ちる。
「君がユーヴェハイドを選べば、彼は運命から逃げられない。魔王になる素質を持つ者が愛を得たとき――世界が彼を試し始める。しかしこのままリリナがユーヴェハイドから手を引いたとして、アリアの元で彼が幸せになれるかは分からない」
(……運命……試練……)
胸が痛い。
でも――その痛みより強い何かが胸の奥にある。
(ユーヴェハイド様は、魔王なんかになったりしない。私が、させない……)
ルークは静かに問いかける。
「――どうする? リリナ一人なら、俺の残りの力でもアリアの手が届かない世界に飛ばせる。俺は君が大事だからね。どうしても守りたい。だが君が戦うことを決めるなら、俺は君のために戦う」
リリナはゆっくりとルークを見つめた。
長い睫毛。
苦しげで、それでも静かに佇む姿。
(ルーク様は、ずっと一人で戦ってたんだ……)
胸の奥が熱くなる。
涙がこぼれそうになるのを堪えて、リリナはそっとユーヴェハイドの髪を撫でた。
そして――迷いなく答えた。
「……ユヴィ様が苦しむ未来なんて、絶対いやです。ルーク様がいなくなる未来も、絶対いや」
声は震えていた。
でも、逃げる言葉ではなかった。
「怖い未来でもいい。逃げたくなる運命でもいい。……それでも私は、ユヴィ様の傍にいたいんです」
眠ったままのユーヴェハイドの手が、ぎゅっと握り返した。
ルークは目を細め、微かに笑う。
それは――祝福とも、諦めともつかない笑み。
「……ああ。やはり君は――」
静かに、崇拝するように。
「この世界の“選ばれた少女”だ」
その瞬間、空気が震え、遠くで――鐘が鳴った。
世界が動き始めた合図のように。
✼ ✼ ✼
夜霧はさらに濃くなり、石畳の空気はひんやりとしていた。
ユーヴェハイドの髪が夜の光を受け、冷たい水面のように光っている。
「――俺はそろそろ戻るよ」
ルークは肩をすくめ、冗談めかした声音で言ったが、瞳の奥には深い疲労が滲んでいた。
「アリアと悪魔を抑える結界は、俺の力が前提で成立している。もう無茶はできない。……彼女が完全に覚醒する前に備えないと」
「……ルーク様」
思わず声が震えた。
ルークは強がるように笑う。
「心配するな。俺はすぐに死んだりしない。世界が作り替えられようとする中で、リリナはもう一度ユーヴェハイドに出会った。本来、二人はもう出会うことすらなかったはずなのに。――だから、俺の未来も変えてみせるさ」
「ルーク様……でも、」
言いかけた瞬間、ルークがそっと人差し指をリリナの唇に置いた。
「それ以上は言わなくていい。未来を知ることは、時に枷になる。俺は俺の意思で動きたい」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃない。君が伝えようとしてくれた気持ちは、ちゃんと受け取った」
そう言って、ルークは眠るユーヴェハイドを一瞥する。
「君は……本当に変えたいんだね。彼を」
リリナは迷わず頷いた。
その答えに、ルークは何かを確認したようにわずかに目を細めた。
「わかった。じゃあ――君は君の選んだ未来を進め。俺も俺の役割を果たす」
足元に青白い魔法陣が浮かび上がる。転移魔法だ。
「リリナ。気をつけて。アリアは……君が思うより“執着深い”」
「……はい」
淡い光が満ち、ルークの姿が霧に溶けていく。
最後に声だけが残った。
「――俺の弟子は幸せ者だな」
光が消え、静寂が戻る。
リリナは膝を折り、ユーヴェハイドの頬に触れた。温かい。息も穏やか。
「……絶対に、死なせない」
その呟きは小さくても、揺るぎはなかった。
✼ ✼ ✼
ユーヴェハイドが瞼を開いたのは、それからしばらくしてからだった。
青い瞳が焦点を結ぶと同時に、彼はベッド横に座るリリナを見つける。
「ユヴィ様! 良かった、起きたんですね。よかっ――」
言い終える前に、ユーヴェハイドの表情が冷えきった。
「――触るな」
伸ばした手を、彼は強く払い落とした。
「え……?」
ユーヴェハイドはゆっくりと上体を起こし、冷たい声音で告げる。
「ルークと話したかったんだろ。邪魔するなと言わんばかりに眠らせた。……お前の意志で」
「それは違――」
「違わない」
鋭く返された声は、怒りより苦しみに近かった。
「……俺より、あいつを選んだ」
その言葉には諦めが混じっている。
失うことに慣れた者の、防衛の言葉。
リリナは何か言おうとして喉が詰まった。
否定も説明もしたい。
でも言えば言うほど、彼の傷を抉る気がした。
ユーヴェハイドは皮肉に笑う。
「……なるほど。俺は替えのきく駒か。お前の信じるべき相手は俺じゃなかった」
「違う、私は――」
「聞きたくない」
ユーヴェハイドは立ち上がり、騎士団のマントを掴む。
そのまま部屋を出ようとして、扉の前で一瞬だけ振り返った。
リリナは泣きそうな顔で彼を見つめていた。
その表情を見た瞬間、ユーヴェハイドの胸が掴まれたように痛む。
(……なんで、そんな顔をする? 拒絶したのは俺だろう。なのに……なんで俺が、苦しい)
俯き、吐き捨てるように呟く。
「……勝手に傷つくな」
それが誰に向けた言葉なのか――彼にもわからなかった。
扉が勢いよく閉まる。
残されたのは、沈黙と震えるリリナの呼吸だけ。
「……ユヴィ様……」
震える声で名前を呼ぶ。
返事はない。
その日から、ユーヴェハイドは皇太子宮に戻らなかった。
翌日も、その翌日も。
彼は騎士団本部で寝泊まりし、朝から夜まで剣を振り続けた。
まるで自分自身を罰するように。
一方リリナは広い皇太子宮でただひとり、彼の帰りを待つ日々を過ごすしかなかった。
会えば壊れる。会わなくても壊れていく。
見えない距離が、ふたりの間に深く静かに落ちていく。




