2 いざ、国外逃亡ですわ!
リリナは屋敷に戻ると、早々に国外逃亡の準備に取り掛かった。
行き当たりばったりだが、なんとかなるだろう――まるで雑草のようにしぶとい精神を持っているのは、幸福か災か。
転生以前の記憶は、原作ゲームの知識を除けば霞んでおり、今はよく思い出せない。
だが、それもリリナ・グレイランジュとして生きていく上では、ちょうど良かったのかもしれない。
リリナは原作知識を頼りに、使えそうな魔法や道具をピックアップする。
「魔法の呪文は覚えてるから、転移魔法が使えるかも。国境を越えたあたりまでは転移して、そこからは歩いて永住の地を探せばいいわ!」
荷物を最低限に絞り、屋敷の地下通路を抜けて街のほとりの川まで出ると、小舟の手配も完了。
目的地は、原作では名前しか出てこなかった隣国メルモンド。
ユーヴェハイドがいるヴァレンディエル帝国を離れ、死亡フラグを避けるためだ。
星明かりの下、ひとり移動を続けるリリナ。
川を渡り、森を抜け、まるで物語の一部になったかのように道中を進む。
山道から王都の夜景を見渡すと、宝石のようにキラキラと輝いていた。
「さよなら、大好きです。ユヴィ様」
リリナは、原作で使われていた転移魔法の呪文を紡ぐ。
『風の行く先に我を導き、扉を開け』
こうしてリリナは、ユーヴェハイドのいるヴァレンディエル帝国から姿を消し、隣国の国境を越えた先へ転移した。
✼ ✼ ✼
同じ頃――
「リリナ嬢と話がしたい」
そう告げて訪れた皇太子ユーヴェハイドの前で、グレイランジュ侯爵夫妻は蒼白になりながら頭を下げた。
「そ、そ、それが……っ……!」
言葉が喉でつかえ、震えながら続ける。
「リ、リリナは……屋敷から……忽然と、姿を……」
言い終えた瞬間、空気が変わった。
ユーヴェハイドの表情が、音もなく――しかし確実に、冷たい歪みへと変わる。
室内の全員が息を呑む。
「……いなくなった、だと?」
低く、押し殺した声。
温度が一瞬で氷点下まで落ちたかのようだった。
侯爵夫妻は返す言葉を持たず、ただ肩を震わせる。
ユーヴェハイドは、まるで愉快な玩具を見つけた子供のように、薄く笑んだ。
「面白いな。……俺を弄んで、逃げたつもりか?」
靴音がゆっくりと石床に響く。
その声音は穏やかで――同時に恐ろしく無慈悲だった。
「ふ……はは。そうか。いい」
蒼い瞳が爛々と光る。
そこにあるのは怒りではなく、執着と狩人の愉悦。
「追う理由ができた」
侯爵夫人は恐怖のあまり、膝から崩れ落ちる。
「娘が何かしたのでしょうか……!?」
しかしユーヴェハイドは一瞥すらせず、低く言い放つ。
『――この俺から逃げたのだ。このままにしておくつもりはない』
その瞬間、屋敷の者たちは悟った。
皇太子の機嫌を損ねたのではない――獲物として認定されてしまったのだ、と。
そんな現実を、リリナはまだ知らない。
自由を得た気分で、遠い地の夜空を見上げるだけだった。
✼ ✼ ✼
転移魔法が成功したのか失敗したのか――
リリナはしばらく地面に倒れたまま、空を見つめていた。
「生きてる……!?転移魔法、天才……!?私……天才だったの……!?」
空は先ほどより澄み、星々は手が届きそうなほど近く輝く。
森の音、夜風、そしてほんのり湿った草の香り――ここは間違いなく、ヴァレンディエル帝国ではない。
「ついに……ついに死亡フラグとユヴィ様から自由の身!!」
転げ回りたいような解放感に浸るが、すぐに現実が刺さる。
「……つまりここから全部自力かぁ……」
自由とは、自分で生きること。
悪役令嬢としてこの世界で散財していた記憶が痛い。
財布は軽く、未来は不安定。
リリナは立ち上がり、草を払いながら歩き始める。
「とりあえず王都メルモンドまで行けばなんとかなる。住み込みで働けるカフェとかあるかも。乙女ゲームの世界だって、努力すれば生活は安定する……!」
根拠はないが、気力はある。
その雑草精神こそが、今の彼女の最大の武器だった。
✼ ✼ ✼
森を抜ける途中、草木が揺れる。
カサ…ゴソ…。
「まさか……小動物?キツネ?ウサギ?可愛いモフモフ?」
期待を込めて振り返った――
出てきたのは。
牙。
黒い体毛。
赤く光る瞳。
明らかにモフモフ界の住民ではなく、食べる側の魔物。
「先程ぶりだね、死亡フラグ!!」
そんなことを言っていると、魔物が吠え、突進してくる。
「ぎゃーーーー!!!」
逃げながら記憶を漁る。
(この魔物イベント見覚えある!序盤のチュートリアルで死ぬやつ!殺意100%!!)
震える指先に魔法陣が生まれる。
「《アイス・ウォール!!》」
氷の壁が一本、ぎこちなく出現し、魔物は足を滑らせて転ぶ。
「やった!!私まだ死にたくない!推しのグッズ買い直すまでは死ねない!!」
しかし魔物はすぐに立ち上がる。
――その瞬間。
空気が震え、光が降り注いだ。
眩い剣の軌跡が魔物を切り裂き、次の瞬間、魔物は地面に崩れ落ちた。
『危ないところでしたね』
振り返ったリリナの視界に映ったのは――
光を帯びた剣を手にした青年と、その背後で手を組み祈る少女。
恐らく隣国にいるという設定の勇者と聖女だろう。
金髪碧眼、絵に描いたような善性。剣には「勇者補正」が乗っているのが分かるほど光り輝く。
リリナからすれば、それよりもユーヴェハイドの顔の方がギラついて見えたが。
青年の隣には、淡い桃色の髪の、穏やかな微笑みを浮かべた少女。
原作には姿も名前も出ていない二人だ。
青年は剣の血を軽く払うと、安心させるように微笑み、手を差し伸べた。
「怪我はありませんか?随分と危険な場所にいましたね」
「うわぁ……勇者の声だ……イケボ……」
「え?」
「あ、いや、ありがとうございます!!助かりました!!ほんと死ぬところでした!!!」
勢いよく立ち上がるリリナに、青年は少し驚いた笑みを浮かべる。
「それならよかった。僕はセオドア・アストレイア。メルモンド王国騎士団所属……分かりやすく言えば勇者です」
「ゆ、勇者……!!」
――イベントだ。
完全にイベントシーンだ。
(原作にはない細かい部分まできちんと存在するなんて、素晴らしい!パラダイス!)
後ろの少女にも視線を向ける。
少女は微笑み、控えめに頭を下げた。
「私はレティシアと申します。この国で“聖女”として役目を果たしています。あなた、魔力が乱れていましたね。怖かったでしょう?」
聖女らしい慈愛の声。
包み込むような空気が、リリナの胸にじんわり染みる。
(……優しい……!!)
緊張が解け、涙がつっとこぼれた。
「は、初日から魔物と戦う世界ハードモードすぎません!?会社でひたすらPCと向き合ってた社畜生活から、突然魔物と戦うためにレベル上げしなきゃなんて聞いてないんですけど!!」
「……カイシャ?」
セオドアが首を傾げたが、リリナはすぐに誤魔化す。
「そ、その!旅の準備の話です!文化の違いです!!ハハハッ!!」
テンションは迷子だったが、セオドアは気にせず続けた。
「君はひとりですか?」
「はい!一人です!自由です!解放されました!故郷には戻りません!今日から私はメルモンドの大地の民です!!」
「……なるほど。色々とお疲れのようですね」
セオドアは妙に優しく頷いた。
レティシアは微笑を浮かべる。
「でしたら、王都までご一緒しましょう。ここは魔物が多い地域です。一人では危険です」
「え……いいの……!?」
「もちろんです。困っている人を助けることも勇者の役目です」
――慈悲。
――善良。
――好青年テンプレここに極まれり。
リリナは両手を握り、震えた。
(この国……平和に住める……!!!)
希望が天まで伸びる。
セオドアは手を差し伸べ、柔らかく言った。
「最初は不安でしょうから、王都に着いたら住まいも仕事も手配します。安心してください」
「えっ……そこまで……!?神ですか!?勇者って神職なんですか!?」
「はは、そんな大層なものじゃないですよ」
リリナは勢いよく頭を下げた。
「よろしくお願いします!!生き延びたいので!!」
「ええ。必ず守ります」
――そのとき。
セオドアの背後で、レティシアの笑みがわずかに形を変えていたことに、リリナは気づかない。
優しさの仮面のまま、無機質な笑み。
まるでこう言っているようだった。
『逃がさないわ。あなたは必要なの』
夜風が吹く。
その気配に似つかわしくない温度の視線が、リリナの背中に絡みつく。
しかし当の本人は――
「やったーーー!!文明だ!人だ!ベッドだ!!」
未来への希望しか見ていなかった。
この後、リリナはメルモンドの王宮へ招かれ、運命の歯車が静かに回り始める。




