17 声にならない答え
リリナの胸は高鳴り続ける。
『さて、次は俺の機嫌をとってもらおうか』
二人きりの温室の中、リリナは自分の心臓の鼓動が耳にまで響く。
膝の上に抱き上げられ、ユーヴェハイドの腕に包まれると、体温と柔らかさに思わず息を詰めた。
視線を逸らしても逃げられない距離。
唇のすぐ近くに感じるその温度に、リリナは焦りと恥ずかしさで顔を赤くする。
「……な、なにすれば……いいんですか……?」
ユーヴェハイドは微笑み、指先でリリナの顎を軽く押し上げ、顔を自分の方に向ける。
「さぁ、どうだろうな」
リリナは必死に頭を回転させる。
リリナは自分が温室に行きたかった理由がバレた時点で、ユーヴェハイドの機嫌がジェットコースターのように急降下するだろうと頭を抱えたのだが、よほどリリナがユーヴェハイドのためは二人きりでの散歩を選んだ事実が嬉しかったようで、機嫌は依然として上機嫌なままだった。
何を言えば、何をすれば、こんなにご機嫌な彼がさらに喜ぶのか。
「えっと……ユヴィ様……その……今日の……あの、温室……本当に……綺麗です……!連れてきてくださってありがとうございます!」
言葉を絞り出す度に、膝の上で抱きしめられる重みが増す。
頬が熱く、耳まで赤くなり、視界がかすむ。
しかし、ユーヴェハイドは笑うだけだ。
それも、全く満足していない、意地悪な笑み。
「まだ」
「えっ……まだですか……!?」
「まだだ。ほら、頑張れ」
リリナは必死に褒める。
頑張って、必死に機嫌を直そうとする。
「ユヴィ様、ほんとにすごいです……あの……あのっ、いつもかっこいいです……!」
ユーヴェハイドは指先でリリナの髪を撫で、頬に軽く触れる。
その距離の近さに、リリナは胸が苦しくなる。
「……うっ……あ、あの……ユヴィ様……本当に、大好きです!これからも、ずっと推します……!」
「はは、そうか。だが、まだだな」
甘く囁き、意地悪く笑いながらも、決して彼女を離さない。
リリナは目が回りそうになり、頬を手で覆う。
「い、意地悪です……!もう……耐えられません……!」
しかしユーヴェハイドの笑みは崩れない。
その瞳は、彼女のすべてを知っているようで、逃げ場を許さない。
リリナは必死に何かを探すように考え込んだ。
言葉を探す。褒める?お願いする?感謝する?
ユーヴェハイドの機嫌が良くなるような、何か使える情報はないだろうか。
リリナだからこそ分かる、原作知識を振り返ろうとするのだが、どんどん甘さを増すユーヴェハイドを前に、集中することが出来ずに頭が沸騰しそうになる。
そんな時、頭の中に、ふと原作ゲームに登場する一人の男の姿がよぎった。
リリナは咄嗟に口を開いていた。
「あっっ、ルーク様に会いたいです!!」
言った瞬間、「あ゛ぁ?」という今まで聞いたことも無いような低い声がして、リリナは機嫌を取るどころか今度こそ急降下させてしまったと理解する。
どうしてこうも失言が多いのか、などと考える暇はない。
「俺の機嫌を悪くさせたかったなら、大成功だな」
リリナがなにか口を開く前に、リリナを抱いたまま椅子から立ち上がったユーヴェハイドの足元に現れた魔法陣の光に包まれたかと思えば、次の瞬間にはもうユーヴェハイドの部屋の中に戻っていた。
「……ルーク、か」
低い声だった。
先ほどまで甘さと余裕を纏っていた声音とは違い、嫉妬で熱を孕んだ響き。
リリナは慌てて手を振る。
「ち、違うんです!!ユヴィ様が嫌とかじゃなくて!その、えっと……!」
「嫌じゃないなら、なぜ名前が出る」
「……っそれは……言えません……!」
(だって……原作だと……最後に……ルーク様が……)
このヴァレンディエル王国の上空に存在する、魔導師なら一度は憧れるであろう魔塔。
その頂点に立つ魔塔主であり、ユーヴェハイドの魔法の師でもある《ルーク・エルデュース》。
彼は、まだ先のことではあるが、原作ゲームの中で主要キャラの中で唯一の死亡キャラクター。
その未来を知っているから。
だから、会っておきたかっただけなのに。
でもそんなこと言えるわけがない。
沈黙が落ちる。
そしてユーヴェハイドはゆっくり、リリナをソファへ降ろす……のではなく。
そのまま膝の上に座らせたまま、後ろから抱き寄せた。
腕が、逃げられないように絡む。
囁き声は耳元で震えを誘うほど近い。
「なぁ、リリナ」
「……はい」
「ルークも、お前の『推し』なのか?」
リリナは息を呑む。
彼の指先が、リリナの手の甲をなぞる。
その触れ方は優しいのに――声はどこか苦しげだった。
「俺だけでは……足りないのか?」
「……!」
胸が締め付けられる。
今度は、甘い威圧でも怒りでもない。
ただ、ひとりの青年の、不安が滲んだ声。
「地位も、権力も、称号も……全部いらない」
リリナの肩に額を落とすようにもたれかかり、低く続ける。
「お前が……俺だけを見てくれるなら。それでいい」
リリナの心臓が跳ねた。
(……そんな声、反則……)
思考が沸騰して、言葉にならない。
ユーヴェハイドはリリナの肩越しに視線を合わせるよう顔を傾ける。
その瞳はまっすぐで、迷いがなくて。
そして――儚いほどに恋をしていた。
「だから……言うな」
熱を帯びた囁き。
「俺以外を推すなんて――俺は、許さない」
強い言葉なのに、震えていた。
不安で、怖くて、必死で。
リリナの胸に、何かが刺さる。
甘くて、苦しくて、息ができない感情。
こんな風に求められたら。
こんな風に名前を呼ばれ、心を向けられたら。
――好きになってしまう。
でも。
(駄目。わたしは……)
原作の未来を知っている。
ユーヴェハイドは、この先――壊れてしまう。
救えるのはまだ出会っていない、あのヒロインだけ。
だから、恋してしまえば、きっと悲しい思いをするだけだ。
リリナはぎゅっと指を握り、震える声で笑った。
「……ユヴィ様」
「なんだ」
「……わたしの推しは」
心が叫んでいる。
もう、ユーヴェハイドのことが恋愛として好きになっているのかもしれない。
そう言え、と。
でも――言わない。
言ってしまえば、もう戻れない。
だからリリナは、誤魔化す微笑みを浮かべた。
「……私の推しはユヴィ様だけです」
一瞬、ユーヴェハイドの腕が止まる。
そして。
静かに、諦めたように、彼はリリナを抱きしめ直した。
「……そうか」
その声は甘くて、苦しくて。
触れた体温が、心臓に焼き付く。
――リリナは気づいてしまった。
今、自分の心に蓋をしているのは。
恋が、もうすぐ溢れると分かってしまったからだ。
✼ ✼ ✼
沈黙のまま抱きしめられていた時間は、ほんの数十秒。
それでもリリナにとっては息ができなくなるほど長かった。
ユーヴェハイドの胸に顔を寄せたまま、リリナはそっと瞬きを繰り返す。
彼の腕は、先ほどよりも強く――けれど、どこか不安を抱く幼子のように縋るような力になっていた。
「……ユヴィ様」
震える声で呼ぶと、彼は小さく応える。
「……ああ」
「苦しくないですか?」
「……苦しいのはお前の方だろう」
そう言って、ユーヴェハイドはようやく抱きしめる強さを緩めた。
けれど離すわけではない。
腕の中に閉じ込めたまま、彼はゆっくりとリリナの耳元へ顔を寄せ――囁いた。
「俺は、信じたい」
低く、真っ直ぐな声音。
「お前が俺だけを見ていると言ったその言葉を――何百回でも思い返して、縛り付けたい」
背筋が震える。
「……でもな」
彼の指が、リリナの手を絡め取る。
まるで鎖のように。
「俺が欲しいのは、“義務”でも“嘘”でもない」
「…………」
「お前の本音だ」
心臓が瞬間、跳ね上がった。
だって――それは一番言われたくなかった言葉だから。
リリナは唇を噛む。
胸の奥で、嘘が疼く。
(……ダメ。だってわたしは、この世界の未来を知ってる。このままじゃユヴィ様は――)
「リリナ」
思考を奪うような声で名前を呼ばれる。
続く言葉に、息が止まる。
「――俺を選べ」
優しく、だけど逃げ道を塞ぐように。
「この世界のことを知っているのなら、この先のことも知っているのだろうが、この未来がどうだとか、誰が決めた結末だとか、そんなものに縛られるつもりはない」
リリナは目を見開く。
口を開く前に、ユーヴェハイドは静かに微笑んだ。
その笑みは、甘くて哀しくて――壊れるほどの執着を孕んでいる。
「お前が知っている未来なんて、俺は興味がない」
指先が頬をなぞり、顎をそっと持ち上げられる。
「運命なんかより――俺が気にするのはただひとつ」
距離が、ゼロに近づく。
「お前が隣に誰を望むか。それだけだ」
吸い寄せられるように目が合ったまま、リリナは言葉を失う。
「リリナ。俺は――お前が欲しい」
呼吸が止まる。
「未来じゃなく、今の俺を見ろ」
触れたら崩れる。
逃げたら壊れる。
でも――動けない。
リリナは震える唇で、掠れる声を零す。
「……選べません」
ユーヴェハイドの瞳に、ひどく深い影が落ちた。
「……そうか」
拒絶――
そう思った瞬間、リリナは驚いた。
彼は怒らなかった。
彼は責めなかった。
ただ――抱き寄せた。
「……ならいい」
「……え?」
「焦らせるつもりはない」
髪に触れ、額に優しく口づける。
「どうせ――お前の答えは俺に辿り着く」
囁き声は静かで、確信に満ちていた。
「逃げてもいい。拒んでもいい。誤魔化してもいい」
「…………」
「それでも、最後は俺を選ぶ。――俺は、それを知っている」
まるで未来を見てきたかのように。
「だからゆっくりでいい。いつか言え」
時間を預けるような、穏やかな声音。
「“俺が好きだ”って」
そして――
「その日、すべてをお前に誓う」
リリナの胸がぎゅっと締め付けられた。
怖い。
苦しい。
でも――嬉しい。
涙が零れそうになるのを誤魔化すように、リリナは小さく笑った。
「……そんな日、来るんでしょうか」
「来る」
迷いなく返された声は、未来の宣告のようで。
抱きしめられたまま、リリナは思った。
――この人を愛してしまったら。
きっと、もう逃げられない。




