16 二人だけの場所
皇太子宮の外周を歩きながら、リリナはそわそわと視線を泳がせていた。
ユーヴェハイドはその横で、珍しく機嫌の良い笑みを浮かべている。
――他人が見たら幻覚かと思うほどの柔らかい表情。
すれ違った従者たちは、皆固まり、息をするのを忘れたように立ち尽くす。
(……あれ、わたし何か世界を壊してる……?)
リリナは心の中で冷や汗を滲ませた。
だが当の本人はご機嫌だ。
理由はひとつ。
――“リリナが自分のために望んだ散歩”だったから。
その単純な事実だけで、ユーヴェハイドの表情はゆるみっぱなしだった。
✼ ✼ ✼
ふと、視界の先にガラス張りの建物が見える。
丸い天井、淡く反射する光。
――温室。
リリナは瞬間、弾かれたように目を見開いた。
(あっ……あれ……!)
ゲーム画面のCGが脳裏にフラッシュバックする。
ユーヴェハイドが静かに微笑み、ヒロインの手を取って花畑の中を歩くシーン。
水色の花で埋め尽くされた空間。
二人だけの秘密の場所。
推しカップルの名シーン。
(うそ……!実物……!)
胸が跳ね上がり、テンションが爆速で天井を突き抜けていく。
しかし、ユーヴェハイドがすぐ隣にいる。
――つまり。
あの場所は、彼が原作ヒロインのために作った舞台。
(……興奮してる顔、絶対見られちゃ駄目!!)
リリナは慌てて視線を逸らし、何事もなかった顔を装う。
――だが。
「リリナ」
「っ……!?はい!?な、なんでしょう!?!?」
声が裏返った。
ユーヴェハイドは細めた瞳でリリナを見つめる。
「温室を見てから、急に耳の先まで赤いが?」
「き……気のせいだと思いま……す」
目を逸らして言った瞬間――
ユーヴェハイドの笑みが深くなる。
ゆっくり、確実に、逃げ道を塞ぐ捕食者の笑み。
「へぇ」
その一言だけで背中にぞわりと走るものがある。
「……温室に行きたいのか?」
「えっ!?い、いや!別に!?全然!?そんなこと!」
「ふむ」
なにも信じていない声。
リリナはぶんぶん首を振った。
(言えるわけない……!)
“そこ原作でユヴィ様とヒロインがいちゃいちゃした場所なんです!”
なんて言ったら――
今の穏やかな表情は消え、
たぶん――嫉妬で機嫌が地面にめり込む。
だから誤魔化すしかない。
「いや、……あの、あれです……!」
「どれだ」
「ほら……ガラスが……きれいで……!」
「ガラスが?」
「す、好きなんです!ガラス!」
(何言ってんの私!?!?)
ユーヴェハイドは無言でリリナを見つめた。
長い沈黙。冷静な観察。
そして――
「……嘘が下手だな、リリナ」
「ひぃっ」
完全に見抜かれた。
ユーヴェハイドはゆっくりとリリナの顎に触れ、逃げられないように視線を固定する。
「隠す理由は?」
声音は穏やかなのに。
まるで逃げ込んだ嘘ごと、心の奥を暴くような響き。
リリナは唇を噛む。
言えない。言ったら機嫌が――
「……言いたくない、です」
ようやく絞り出すと、
ユーヴェハイドの指が頬を撫でた。
「ならいい」
「……え?」
「理由はあとで聞く。逃げなければな」
その低い声は、甘くて、恐ろしくて。
ユーヴェハイドは指を絡め、そのまま温室へ歩き出す。
「行くぞ、リリナ」
「っ……!?」
抵抗の余地なく引かれながら、リリナの胸の中で、期待と不安がごちゃ混ぜになる。
(……やばい)
“原作でヒロインとユーヴェハイドが踏み入れた場所”へ。
今、自分が連れて行かれている。
――その意味に気づいた瞬間。
リリナの心臓は、もう逃げられないほど深く鳴り始めていた。
温室の扉が静かに開くと、ふわりと甘い香りが広がった。
色とりどりの花々が重なるように咲き誇り、薄く差し込む光が花弁に反射して宝石のように煌めいている。
リリナは一歩足を踏み入れた瞬間、息を飲んだ。
(わ……ほんとに……そのまま……!)
原作の画面で何度もスクリーンショットした景色。
イベントCGとして公開された瞬間にSNSが大炎上した「神回」。
推したちの恋が動き始め、ファンが狂喜乱舞した象徴の場所。
その光景が、今、現実として目の前に広がっている。
「……すごい……」
リリナの声は震えていた。
「好きなんだろう?」
ユーヴェハイドの問いに、リリナは慌てて顔を背ける。
「べ、別に!?ただ……綺麗だなって……!あっ、あと、ガラスが……すごく、透明で……!」
(またガラス……!語彙力が死んでる……!)
そんなリリナを見て、ユーヴェハイドは薄く笑った。
その笑みは柔らかく、しかし――底に何か含んでいる。
「リリナ」
呼ばれた名前にびくりと肩が跳ねる。
ユーヴェハイドは花の中から一本、白く淡い光を宿す花を摘み取った。
それはどこか神秘的で、触れたら壊れてしまいそうに繊細な花。
「……似合うな」
ユーヴェハイドは迷いなくその花をリリナに手渡した。リリナは嬉しさで顔が綻びそうになる。
だが、次の瞬間。
ユーヴェハイドが意味ありげに目を細めた。
「――その花、知ってるか?」
「え、えっと……綺麗なお花……です?」
「半分正解だな」
リリナが花を手にした瞬間、花弁が淡く光り始めた。
その光に包まれるようにして、胸の奥が妙にざわつく。
(……これ……何……?)
ユーヴェハイドは楽しそうに言う。
「その花は“嘘を暴く花”だ」
「……へ?」
「手にした者は――心に隠していることを口にしたくなる」
リリナは固まった。
(……あ……)
(え、待って)
(…………それ、今……?)
リリナの脳内が大混乱する間もなく。
胸の奥にある感情が勝手に浮上し、喉元まで押し上げてくる。
止められない。
必死に口を押さえた瞬間――
「リリナ、」
ユーヴェハイドが顔を近づける。
指先で唇に触れるように止める仕草。
低く囁く声。
「言ってみろ」
「っ……だ、だめっ……!」
「隠す必要はない。お前が話す言葉は全部、俺だけが聞く」
距離が近い。逃げ道がない。
花の光が強くなり、胸の内側から言葉がこぼれる。
「わ、わたし……!」
ユーヴェハイドはリリナの目を深く覗き込む。
「――温室に来たかった理由を言え。リリナ」
心臓が喉まで跳ね上がる。
止めたいのに、止まらない。
そして――
「原作のユヴィ様とヒロインがラブラブする場所だったからです……!」
言ってしまった。
温室の中に、静寂が落ちる。
ユーヴェハイドは瞬きもせずリリナを見つめ――ゆっくり、深く息を吐いた。
「……なるほど」
その声は低く、冷たく、
――嫉妬で色づいていた。
リリナは震える声で言い訳をする。
「ち、違うんです!推しカップルだからお似合いでしたけどっ、ただ!あの景色が!すごく良くて!尊くて!特に花とか光とか構図とか――!」
必死すぎる早口。
もう取り繕う余裕なんてない。
ユーヴェハイドは黙って聞き、その後。
とてもゆっくり、危険なほど甘く笑った。
「……そうか」
リリナは息を呑む。
その笑みは――静かに火が灯るような、決意の色を帯びていた。
「なら、その記憶を上書きしよう」
「……え?」
ユーヴェハイドはリリナの腰に手を添え、逃げられない距離まで引き寄せる。
「ここが“誰か”との場所ではなく――」
その声は温室の静寂に溶け、甘く響いた。
「お前と俺の思い出になる場所だと、分からせてやる」
花弁が舞う。光が揺れる。
そして――
ユーヴェハイドの唇が、鼻先に触れるほど近く降りてきた。
「覚悟しろ、リリナ」
囁きは甘い呪い。
「今この瞬間から――ここは“俺たちの場所”だ」
温室の花々が、静かにその誓いを見守っていた。




