15 甘くきつく縛られる
庭園の奥へと進むほど、人の気配は薄れ、風の音と花の香りだけが残った。
まるで世界から切り離されたような静寂の中、ユーヴェハイドは歩みを緩め、リリナの横顔を見た。
「……だが、どうして散歩に?」
問いはふと零れたもので、疑いではない。
ただ――彼女の意図を知りたかった。
「俺はリリナの望むことなら、どこへだって行く。たとえ……うるさい女が多い街に降りるのだって構わない」
さらりと口にしたが、その言葉に含まれた本音は重い。
もしリリナが望むなら、彼はこの国の規則を曲げ、街でも市場でも護衛を引き連れて行くだろう。
もちろん、彼女が望むなら護衛さえ連れず、二人きりでも良い。
それがどれほど面倒でも、煩雑でも。
だが――
リリナは、ぽかんとしたようにユーヴェハイドを見上げて言った。
「それだと……ユヴィ様が疲れちゃうでしょう?」
「…………俺が?」
完全に予想外の言葉だった。
リリナは困ったように微笑み、続ける。
「ここ数日、ユヴィ様、ずっとお仕事忙しそうでしたから……。少しでも外に出たらいい気分転換になるかなって思って」
ユーヴェハイドはしばらく言葉を失った。
心臓を不意に掴まれたような、妙に息苦しい感覚。
――違う。
ユーヴェハイドが聞いたのは「リリナの望み」だ。
なのに返ってきたのは「ユーヴェハイドのため」。
その事実が、胸の中に熱いものを落とした。
(……まただ)
リリナと出会ってから、この短期間で何度目だろう。
計算も取り繕いもなく向けられる好意に、こんなにも簡単に心が揺れるのは。
悔しい。
“落とす”と言ったのはユーヴェハイド。
余裕を持って彼女を翻弄するつもりだった。
――なのに。
気づけば振り回されているのはユーヴェハイドばかり。
リリナが口にする、あの理解不能な言葉――『推し』。
分かっているようで分からない。
「好き」とは違うらしい。
崇拝に近いようで、でも距離感は近い。
なのに、彼女はそれをユーヴェハイドに向けるたび、悪びれもなく笑って言う。
『ユヴィ様は……わたしの推しなんです』
(……本当に意味が分からない)
推しなら抱き締めたい。
推しなら手を繋ぎたい。
推しなら俺だけを見てくれなければ嫌だ。
だがそれを口にしたら、きっと彼女は困った顔をする。
――それが、ユーヴェハイドにとって、なおさら腹立たしい。
✼ ✼ ✼
黙り込んだユーヴェハイドに、リリナは不安そうに瞬く。
「……だ、だめでしたか……?」
「いや」
ユーヴェハイドは短く答え、リリナの肩を抱き寄せた。
近すぎる距離。
けれど離すつもりなど最初からなかった。
「……嬉しい」
その言葉は、息より小さく、けれど確かに。
リリナの目がわずかに丸くなる。
「ユヴィ様が……?」
「ああ」
ユーヴェハイドはリリナの頬に指を添え、目を離さず告げた。
「俺のために望んでくれることが――こんなにも心地いいとは思わなかった」
そして、わずかに息を吐く。
「……だが同時に腹立たしい」
「えっ……な、なんで……!?」
リリナが慌てるのを見て、ユーヴェハイドは微かに笑った。
氷の皇太子のはずのその表情は、柔らかく、熱を帯びている。
「俺だけが、お前を追いかけているようだ」
「……え?」
リリナは理解できず瞬く。
だがユーヴェハイドは視線を逸らさない。
「次は――お前がお前の望みを言え」
指先が、リリナの指を絡め、強く繋ぎ直す。
「俺ばかり好きになるのは、不公平だろう?」
リリナの心臓が跳ねた。
その声音は――挑むようで、恋を乞うようで。
そして、独占欲に満ちていた。
「私も、ユヴィ様は大好きな推しですよ!」
ユーヴェハイドの言葉の意味や、リリナに対する好意に気付いていないのか、そう言ってのけるリリナに、頭を抱えるユーヴェハイド。
彼女の壁を壊すことが出来る日は、いつかやってくるだろうか。
「婚約者という地位にいて、欲のひとつも言って貰えないとはな」
リリナはぽかんとしたまま瞬きを繰り返した。
対してユーヴェハイドは片手で額を押さえ、深く長い息を吐く。
「……俺は、何をしているんだろうな」
低く漏らされた声は、自嘲に近い。
リリナは恐る恐る問いかける。
「ゆ、ユヴィ様……?」
ユーヴェハイドはゆっくりと手を下ろし、そのままリリナを真正面から見た。
視線は真っ直ぐで、逃げ場がない。
「……誰にも触れさせたくなくて、有無を言わさず皇太子である俺の婚約者にしたのは、自分の意思だというのにな」
淡々とした声音。
だがそこには、抑え込んだ熱が潜んでいる。
「お前が、まだ俺を“推し”としてしか見ていないのが――腹立たしい」
リリナの肩がびくっと跳ねる。
「……えっ……そ、そんな……!推しって、とっても大事で……尊くて……人生に必要で……!!」
慌てて言葉を並べるリリナに、ユーヴェハイドは目を細めた。
「知っている。嫌というほど聞いた」
(あれほど真剣な顔で語れる人間は初めて見た)
そんな表情。
彼は一歩リリナに近づき、絡めた指をさらに深く結ぶ。
「だが――俺は“遠くから眺める存在”になる気はない」
囁くような声。
風に溶けるのではなく、リリナの胸に吸い込まれるような言葉。
「お前が言う“推し”ではなく、今お前の目の前にいる俺自身を見ろ」
リリナの息が止まる。
ユーヴェハイドの指先が、そっと彼女の頬に触れた。
熱い。
そして優しい。
「俺は、お前を得るために動いた」
「……」
「奪ったし、囲ったし、逃げられないよう立場さえ縛った」
言葉は冷たいのに。
瞳は、ひどく苦しそうだった。
「――それでも、お前はまだ俺に恋をくれないのか?」
静寂が落ちる。
庭園の花が風に揺れる音だけが響く。
リリナは胸の奥で何かがきゅっと締め付けられるのを感じた。
逃げたいわけではない。
嫌なわけでもない。
ただ――怖かった。
「……わたし」
言葉が震える。
「恋なんて、したことないんです」
ユーヴェハイドの目がわずかに揺れる。
リリナは続けた。
「推しは……失っても、その人が幸せなら良いって思える存在なんです。でも恋は……違うって」
目を伏せ、小さく息を吸う。
「恋は、欲張りで……怖くて……届かないと苦しくて……」
そして――
「もし……ユヴィ様に恋をしてしまったら――わたし、きっと壊れちゃう」
その言葉を聞いた瞬間。
ユーヴェハイドの表情が変わった。
ゆっくりと微笑む。
冷たく、美しく、獲物を追い詰めた捕食者のように。
「――それでいい」
リリナは目を見開く。
ユーヴェハイドはリリナの頬を包み込み、落とすように囁いた。
「壊れるなら、俺の手の中で壊れろ」
逃げられない距離。
息すら奪う声音。
「それなら――どれほどでも甘くしてやる」
唇が、触れそうで触れない距離まで近づく。
「お前が恋を理解するその瞬間まで、俺が全部奪う」
指先に力がこもる。
「――推しじゃなく、この俺を好きにさせる」
それは宣告だった。
契約より強く、逃げ道のない未来。
リリナは言葉を失い、ただ見つめ返すことしかできなかった。
ユーヴェハイドは満足げに微笑み、そっと額に触れた唇を落とす。
「覚悟しておけ、リリナ」
氷の皇太子の声が、甘く響く。
「次は、お前の番だ」
そして――
「俺に恋をしろ」
その言葉は、命令であり、願いであり――
ふたりを縛る、甘い運命の始まりだった。




