14 共に過ごす時間
皇太子宮の外、中庭と王宮を繋ぐ長い回廊。その向こう側、白亜の壁に囲まれた庭園や王宮の入口付近には今日も着飾った令嬢たちが集い、なにやら談笑していた。
色とりどりのドレス、宝石、扇子、香水。
そのどれもが「偶然通りかかったふり」をするための武装だ。
「最近、ユーヴェハイド様のご様子が変わられたって本当?」
「ええ……“冷たい氷の殿下” が、侍女から受け取ったお茶をわざわざ返しに戻った、と」
「まぁ……!理由は?」
「『もう少し甘いものに変えてくれ。彼女はこういう味を好まない』って」
ざわり、と小さな悲鳴とため息が混ざり合う。
扇子で口元を隠しながら、誰かが呟く。
「……彼女?“彼女”って、どなた?」
その問いに、誰も即答できない。
だが噂はもう形を帯び始めている。
――あの冷酷な氷の皇太子が、心を許した女性がいるらしい。
「でもおかしいわ、陛下も知らぬ存ぜぬで――」
その会話を遠くから聞きながら、控えの間にいたシルバーとエルドは、同じタイミングでため息を吐いた。
「……始まったか〜。まぁリリナ様の素性は一応国家機密扱いだしなぁ」
エルドが肩を竦める。
「令嬢たちからすれば、殿下が甘い顔するなんて前代未聞だ。蜂蜜に群がる虫みたいに寄ってくるだろうな」
「いやいや、エルド。言い方よ」
シルバーが苦笑するが、その表情はどこか楽しそうだ。
「でも、殿下の視線がリリナ嬢に向いた瞬間に、あの庭園に並んでる令嬢全員、息止めるだろうな」
「いや、むしろ倒れる」
二人は声を押し殺して笑った。
✼ ✼ ✼
朝食のワゴンが下がり、扉が静かに閉じられると、静けさが戻る。
ユーヴェハイドは椅子に座るリリナを見つめ、何の前触れもなく、フォークに小さく切った卵を刺し、そっとリリナの唇へ差し出した。
リリナは瞬きをし、視線を揺らす。
「……あの、ユ……ユヴィ様……自分で食べられます……」
「知っている」
即答。感情の揺れもない。
だが――次の瞬間、また食べ物が唇の前に持ってこられる。
「口を」
拒否権のない声音。
リリナは観念したように、そっと口を開けた。
ぱく。
ユーヴェハイドの指先が唇に触れたか触れないかの距離まで近づき、リリナの肩がまた跳ねる。
「……良い子だ」
低く小さく、しかし確かに満足の響きを含んだ声。
ユーヴェハイドがこうして食べさせるのは、リリナが皇太子宮へ来てからもずっとだ。
初めての食事のとき、慣れない空気に緊張で動きがぎこちなかった彼女に、自然とフォークを差し出したのが最初だった。
あの日から――彼は自ら止める理由を持たなかった。
ゆっくり、静かで、逃げ場のない朝食。
食べ終わる頃には、リリナの顔はまだ熱を帯びていた。
「……ごちそうさまでした」
「ちゃんと全部食べたな」
ユーヴェハイドは満足げに目を細め、指先でリリナの唇についた欠片をそっと拭う。
その触れ方は――危ういほど優しい。
そして、静かに言った。
「今日一日は、お前の時間に使う」
リリナは戸惑ったように瞬きし、視線を落とす。
「わ、私の……?」
「そうだ。望むことを言え。可能か不可能かは俺が判断する」
(いや、それ自由って言わない……!)
心の声を飲み込みながら、リリナは小さく考え――勇気を出して口を開いた。
「……その……外に……少しだけ……」
言い切る前に、ユーヴェハイドがゆるく顎を傾ける。
外――皇太子宮の庭園、長い回廊、その先にある王宮。
そこには視線、噂、格付け、思惑、嫉妬がある。
しかし。
「いこう」
答えは一瞬。
彼はリリナの手を強く握り直し――ふ、と息を落とす。
「お前が望むなら、どこへでも行く」
言い終えたあと、ユーヴェハイドはリリナの額にそっと唇を押し当てた。
「俺がそばにいる。恐れる必要はない」
その声音は、約束の形をしていた。
✼ ✼ ✼
そして――二人は歩き出す。
皇太子宮の回廊を抜けた先。
柔らかい陽光を受けた庭園の白砂が広がり、季節の花々が静かに風を揺らしている。
だが――その景色の奥には、予想外の光景があった。
色とりどりのドレス、宝石、扇子。
皇族のいる区域への立ち入り許可を得ている、それなりの家柄を持つ令嬢たちが並び、息を潜め、じっとこちらを見ている。
(……え?な、なに?なんで……こんな……)
リリナの呼吸が揺れる。
見られるなんて思っていなかった。
ただ外を歩くつもりだった。ただ、空気を吸いたかった。
視線が刺さる。
評価、好奇、嫉妬、探るような光――全部が肌に張り付いてくるようだ。
リリナは反射的にユーヴェハイドの手を強く握った。
その指先の震えに気づいた瞬間、ユーヴェハイドの表情がゆっくりと変わる。
熱も感情も削ぎ落としたような――静かで、致命的な冷たさ。
彼は立ち止まり、令嬢たちへ視線を向けた。
一言も発さない。
なのに――空気が、凍った。
令嬢たちの背筋が、一斉に震える。
笑みを作っていた口元が引きつき、扇子で顔を隠す手が止まり、視線が逸れる。
誰も声を出さない。
誰も近寄らない。
誰も目を合わせようとしない。
ただ、静かに――退く。
その沈黙こそ、皇太子ユーヴェハイドの影響力であり、警告だった。
リリナは呆然とその光景を見ていた。
「……もう大丈夫だ」
低く落とされた声。
リリナが顔を上げると、ユーヴェハイドは先ほどの氷の表情ではなく、穏やかな視線で彼女を見つめていた。
「お前はただ歩けばいい。周りは俺が処理する」
「……ユヴィ様……」
「恐れる必要はない」
絡めた手に、ユーヴェハイドはゆっくりと力を込める。
その握り方は――支配ではなく、確かに「守る者」のものだった。
リリナの肩の強張りが、ゆっくりほどけていく。
そしてふと、リリナは小さく息を吸い、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……じゃあ……歩きたいです。ゆっくり……」
ユーヴェハイドは短く頷く。
「望み通りに」
二人は再び歩き出す。
背後で、令嬢たちのざわめきが震えるように揺れたが――
リリナの世界には、もう届かなかった。




