13 甘く溶けゆく氷と噂
薄い朝の光が、カーテン越しに柔らかく差し込んでいる。
意識が浮上し始めたリリナは、胸のあたりに感じる温かな重みと、規則正しく聞こえる低い呼吸音に気づいた。
ゆっくりまばたきをし視線を落とすと、そこには眠るユーヴェハイドがいた。
昨夜と同じ腕が、まるで逃がさないと告げるかのようにリリナを抱き寄せている。
(…………あれ、夢じゃなかったんだ)
胸がどくりと高鳴る。
けれど、ひとつ確かなのは——怖くない。
この腕の中は静かで、温かくて、安心する。
そっと体を起こそうとした瞬間、腕に力がこもった。
「……動くな」
低く掠れた声。
リリナを離す気配はまったくない。
「ユ、ユヴィ様……?起きてたんですか……?」
「ん……まだ、起きたわけじゃない」
その言葉の割に、抱擁は緩むどころか強まる。
リリナは困惑しつつ見上げると、彼はいつの間にかうっすら目を開けていた。
透き通る水のような瞳が朝光を吸って淡く輝いている。
「今日は起きなくて大丈夫なのですか?」
「今日は非番だ」
一言。
それだけで全てを伝える声音。
リリナは瞬きをする。
「じゃ、じゃあ……今日はお仕事がないんですね」
「ない。だから——」
ゆっくりと腕を緩め、しかしリリナの手だけは離さず指を絡める。
「逃げる理由も、離れる口実もない」
(……ひえっ、この顔面国宝と一日一緒!?心臓は耐えれるの!?)
目の端で微かに笑うユーヴェハイドは、珍しく穏やかで、優しい雰囲気を纏っているのに……言っている内容は怖い。
「もう少し、寝てろ……まだ朝だ」
そう言いながら、少しだけ体勢を変え、リリナを胸元へ引き寄せ直す。
心臓が喧しく鳴る。
けれど拒めない。拒む理由がない。
むしろ——安心してしまっている自分に、リリナは小さく戸惑った。
(……こんなに近いのに。こんなに心臓うるさいのに。なんで落ち着くんだろ……)
ユーヴェハイドは、絡めた指に軽く力を込める。
「……昨夜のこと、」
リリナは息を止めた。
「泣くほど心配されたのは初めてだ」
淡い声音。
怒りでも、困惑でもなく——どこか誇らしげ。
「お前は泣いていても可愛いんだな」
「っ……あ、あれは! 勘違いで……ユヴィ様が怪我してると思って……!」
「知っている」
淡く笑うその表情が、あまりに柔らかくて、リリナの胸がじんと熱くなる。
次の瞬間、額にそっと唇が触れた。
触れたか触れないか——そんな繊細なキス。
「ただ、俺やこの世界のことを知っているなら、心配する必要など無いと分かっているだろ?だから心配しなくていい」
しかし、微かに自分の腕の中で、リリナがユーヴェハイドの服を摘んだ指先に力が入っていくのを感じて「リリナ?」と小さく名を呼んだ。
そうすれば、リリナは眉や目尻を下げて、また泣きそうな顔でユーヴェハイドを見上げて口を開く。
「し、心配しないわけないじゃないですかぁ!私が今まで見てきたのは、ゲームという全く別の世界のユヴィ様でした。けど、今目の前にいるのは、ちゃんと生きてるユヴィ様なんだから……」
リリナの声は震えていた。
まるで胸の奥に押し込めていた気持ちが、一度言葉になってしまったことで溢れ出してしまったように。
「ゲームの中では、ユヴィ様がどれだけ傷ついても、どれだけ苦しんでも……画面の向こうで見ているだけでした。でも、今は……違うんです。痛かったら嫌ですし……怖かったら……もっと嫌です……!」
ぽつぽつと、堪えきれない言葉が零れる。
ユーヴェハイドは黙って聞いていた。
否定もしない。
ただ腕の力が、ごく僅かに、しかし確実に強くなった。
リリナの震える手を、自分の大きな手で覆うように包み込む。
「……そうか」
低く、掠れた声音。
だがそのひと言には、どんな長台詞より重い温度があった。
「俺はずっと、“誰も心配する必要のない存在”でいるべきだと、そう思っていた」
彼は視線を伏せる。
睫毛の影が頬に落ち、朝光に淡く溶ける。
「剣を握る者は、弱さを見せるな。皇族ならば、守られる側ではなく、守る側であれ。生まれた時から、そう教え込まれてきた」
ゆっくりと、閉じたまぶたがひらく。
リリナを映した琥珀色の瞳には、ふだん見せない微かな影があった。
「だから……誰かが俺を案じるという感情を、知らなかったんだ」
「……ユヴィ様」
「だが、お前は泣いた」
リリナの頬についた涙の跡に、彼はそっと指先を添える。
触れ方は驚くほど優しいのに、その仕草には深い執着の色が潜んでいた。
「俺が傷つくかもしれないと思って。俺がいなくなるかもしれないと思って」
そして——静かに囁く。
「それが……悪くないと思ってしまった」
リリナは瞬きをし、言葉を失う。
ユーヴェハイドは続けた。
「誰かに必要とされる感覚も、誰かが俺の無事を願うという現実も……これほど胸に来るものだとは、知らなかった」
そして、絡めていたリリナの指を、ゆっくりと一本ずつ深く絡め直す。
逃がさない、と告げるように。
「だから心配して良い。嫌ではない」
一拍置き、低く甘い声音で付け足す。
「むしろ——お前にだけは心配されたい」
リリナの胸がじん、と温かくなる。
何かが解けて、流れ込み、満ちていくような感覚。
ユーヴェハイドはゆるく息を吐き、リリナの額に自分の額を寄せた。
触れるか触れないかの距離。
呼吸が混ざる距離。
「……だから泣くな。そんな顔をされたら、抱き締める以外、俺は何もできなくなる」
「ゆ、ユヴィ様のせいです……!」
「知っている」
即答。
そして、ほんの少しだけ——笑った。
その笑みは、騎士団が震え上がる冷徹な皇太子のものではない。
ただひとりの少女の涙で心を揺らす、ひとりの青年の顔だった。
ユーヴェハイドは腕をまわし、再び彼女を抱き寄せる。
「今日は離さない。逃げようとするな」
「に、逃げませんっ……!」
「……なら良い」
そう呟く声は満足げで、どこか安心していた。
リリナは胸元で彼の鼓動を聞きながら、そっと目を閉じる。
——もう、怖くない。
温かく、重く、確かに存在する腕の中で、彼女は静かに息を整えた。
そして。
眠りに落ちる寸前、小さな声で呟く。
「ユヴィ様が……生きてて良かった……」
その言葉に、ユーヴェハイドの腕がほんの一瞬震え、すぐに、強く締められた。
「……お前の言葉は、ずるい」
けれどその声は、誰より幸せそうだった。
カーテンの隙間から差し込む光が、次第にはっきりと部屋の輪郭を照らしはじめた頃――
静かなノックの音が響いた。
「……殿下、リリナ様。朝食のご用意が整っております」
侍女の緊張した声。
普段ならその声にユーヴェハイドは応じ、淡々と動き始める――それが習慣であり、宮廷全体に染みついた規律だった。
だが今日は違う。
ユーヴェハイドは腕の中で再び眠りに落ちているリリナを起こさないよう、ゆっくり息を吐き、低く返す。
「……後でいい」
一瞬、扉の向こうが静止する。
“皇太子が朝食を遅らせる”――それだけで十分衝撃なのだろう。
続けて短く命じる。
「二度同じことを言うつもりはない」
「……承知しました」
足音が遠ざかると同時に、ユーヴェハイドは視線をリリナへ落とした。
半分眠ったまま、彼の服を握った手が緩まない。
まるで意識の奥の奥に、離れたくないという本音が残っているように。
ユーヴェハイドはその小さな手を親指で軽く撫でた。
「……リリナ」
呼ばれた名前に、リリナはゆっくりまばたきをし、寝ぼけた声を漏らす。
「……ん……ユヴィ様……?」
「朝食に行くか?」
ほんの少しの間。
目も意識もまだ半分夢の中――その柔らかい表情のまま、彼女は小さく口を動かす。
「……もう、少しだけ……一緒に……」
その瞬間、ユーヴェハイドの喉が静かに鳴る。
表情はほとんど変わらない。
けれど――目だけがはっきりと甘くなる。
「……そうしよう」
短く、低く、満足げに答えた。
その声色は、まるで“望まれたことそのものが褒美”だと言うように。
リリナは安心したように目を閉じ、再び眠りへ沈んでいく。
ユーヴェハイドは廊下に控えている侍女に、やはり朝食を部屋に運ぶよう伝えると、リリナの姿をしばらく無言で見つめた。
呼吸が静かに整うたび、彼の胸の奥に硬い何かが解けていく。
――この腕の中にある温度が、すべてを満たす。
そう思った。
✻ ✻ ✻
王宮の朝は早い。
侍女や書記官、騎士見習いが忙しく行き交う中、その日の話題は、既に半ば出来上がった状態で空気を支配していた。
「聞いた?皇太子殿下が……最近、甘くなったらしいの」
囁きは、控えめな声色で始まる。
しかしそれが周囲の耳にとって、砂漠の水よりも価値ある話題であることは、囁く側も、聞く側も知っている。
「まさか、そんな——殿下ですよ?氷より冷たいあの……」
「でも、本当らしいの。侍女をしている従姉妹が見たって。今、皇太子宮に誰か女の子がいるって」
「……っ、誰?誰なの?どこの家門?まさか、まだ正式に発表されていないだけで、あの殿下が婚約を……?」
動揺と焦り。嫉妬。
希望と現実の落差による、歪んだ熱。
それらすべてを燃料に、噂は瞬く間に広がっていく。




