11 甘く溶ける時間の先
リリナとユーヴェハイドは暖かい室内へ戻った。外の冷たい夜風が嘘のように、空気は柔らかく穏やかだった。
ユーヴェハイドは無言のままリリナを抱き寄せ、自身が座ったソファの膝の上にそっと乗せる。腕が後ろから回され、逃がさないようにぎゅうぎゅうと抱きしめられた。
頬が彼の硬く温かい胸元に押し付けられ、ユーヴェハイドの顔が耳元に近づく。近すぎる距離に、リリナは反射的に身体をこわばらせる。
「……んぅ、ユヴィ様……」
「ん?可愛いな」
指先が頬をなぞり、髪をゆっくりかき上げる。甘い仕草とは裏腹に、その声にはどこか拗ねた色が混じっていた。
「……昼間のこと、どうして俺に言わなかった?」
問いは静かだが、内に隠された怒気は容易に感じ取れる。
リリナは慌てて手を合わせ、視線を逸らす。
「そ、それは……未遂でしたし……!」
「未遂だろうと変わらない。俺は、お前が傷つく可能性があるだけで許せないんだ。……シルバーとエルドには後で話をつける」
言葉と同時に、抱きしめる力がほんの少し強まる。
リリナは胸の奥が温かくも苦しくなる感覚に戸惑った。
どうして、ここまで大事にされるのか。まだ理解できない。
「だ、駄目です!お二人には私が口止めしたんです。ユヴィ様……どうしてそんなに……?」
問いかけた彼女に、ユーヴェハイドは頭を傾け、耳元に唇が触れるほど近く囁く。
「分からない。どうしてこんなにも苦しいほど好きなのか。どうして手放したくないのか。……だが、お前が“本当の俺”を見つけたのは、確かだ」
リリナの心臓が跳ねる。
ユーヴェハイドは少し間を置いてから、探るように尋ねた。
「なあ、リリナ」
その声音は先ほどの甘さとは違い、慎重で、どこか恐れを含んでいた。
「お前がいた世界の俺――その、“俺に似た存在”について話してくれないか?」
リリナは目を瞬かせた。突然すぎて、言葉がすぐに出てこない。
「えっ……あ、その……ゲームの、ユヴィ様のこと……ですか?」
「そのゲームというものは分からない。だが――そこに俺がいるのなら」
ユーヴェハイドはリリナの腰を抱いたまま、さらに近く引き寄せる。
「知りたい。お前が俺を見るきっかけになった世界の俺を」
その声は、嫉妬と不安と、どうしようもない独占欲で濡れていた。
リリナは胸の奥がじんと温かくなる。
(……そっか。彼は知らないんだ。私がどんな気持ちで“向こうのユヴィ様”を見ていたか)
リリナはそっと彼の手に触れ、息を吸う。
「ユヴィ様は、その世界でも騎士団の団長でした。強くて冷静で……」
語り始めた途端、声は自然と明るくなり、胸の奥に眠っていた“推し語りスイッチ”が入ってしまう。
ユーヴェハイドはその変化に小さく眉を寄せた。
(……今、嬉しそうにしたな?ゲームとはいえ俺の話だろう。だが、なぜあんなに楽しそうなんだ)
そして、リリナのテンションが乗り始めた頃――
彼の嫉妬は静かに燃え始める。
「そしてね!ユヴィ様はゲームでは攻略キャラの中で一番人気で、『氷冠の騎士』って呼ばれてたの!」
手振りまでつき、完全に語りモードのリリナ。
対してユーヴェハイドの声色は温度を失い始める。
「へぇ」
しかし燃え始めたリリナは止まらない。
「ヒロインとのイベントもすごく良くて!最初は冷たいのに、だんだん心を開いて、不器用なのに優しくて!付き合ってからも――その、すごくて!」
ユーヴェハイドの目がすっと細められた。
「……俺は、その世界では違う女と結ばれる運命だったのか」
「え!?いや、まぁ……その、はい……!」
返事した瞬間――腰を抱く腕に力がこもる。
逃がさない、と沈黙が告げる。
「それで?」
耳元に落ちる声は柔らかいのに、逃げ場がない。
「お前は、その俺とその女を……羨ましいと思ったのか?」
「ち、違います!!ただ、シナリオとして……完成度が高くて……!」
「シナリオとして、ね」
笑った。しかし、その目はまったく笑っていない。
空気が凍りつく。
リリナは焦り、言葉が止められなくなる。
「だ、だって!!ヒロインは優しくて可愛くて!ユヴィ様とすっごくお似合……っ」
言葉の途中で、ユーヴェハイドがにこりと笑った。
――だが、その笑みは底が見えない。
「へぇ」
たった一言なのに、背中に冷たい汗が流れる。
「つまりリリナ以外の女が……俺に相応しいと?」
「ち、違うんです!あれはゲームです!作り物!」
「そうか」
穏やかに返す声は逆に恐ろしいほど静かだった。
ユーヴェハイドはリリナの頬を指先でなぞり、顎を掴む。
「俺は言ったはずだ」
逃げられない距離で囁く。
「――俺の世界で、“俺の隣に立つのはお前だけだ”と」
リリナの顔は熱くなり、声が震える。
「わ、わかってます……!だからもう許してください……!」
ユーヴェハイドは満足げに息を吐き――しかし次の一言でリリナの心臓を止めた。
「……ところで俺は、そのヒロインと、どう“すごかった”?」
「……え?」
思考が一瞬真っ白になる。
ユーヴェハイドはリリナを見つめながら、逃げ道を塞ぐ声で重ねた。
「隠すな。リリナが言ったんだ。“すごかった”と」
「ち、ちがっ……!あれは!!ファンの盛り上がりで……!!」
「盛り上がるほど……俺はその世界で、ヒロインと何をしていた?」
「ーーーッ!」
もう耐えられず、リリナは両手で顔を覆う。
その手をそっと取るように、ユーヴェハイドが頬に唇を落とした。
「リリナ」
名を呼ぶ声は甘く、そしてどこか切ない。
「……俺は知らないんだ。愛した女にどう触れればいいか。どう喜ばせればいいか。今までそんなこと、考える必要がなかった」
リリナの動きが止まる。
「だから教えてくれ。お前の知る“俺”が、どう愛したのか」
リリナは震える声で答える。
「……ゲームのユヴィ様は……ヒロインをとても大事にして……優しく触れて……でも、ときどき意地悪で……」
言葉にして気づく。
(……これ、目の前のユヴィ様そのものじゃない……?)
ユーヴェハイドが静かにリリナを抱き寄せ、耳元に息を落とす。
「……こうか?」
「ひゃっ……!」
体が跳ねた瞬間、低く笑う気配。
「なるほど。お前が惹かれたのはこういう俺か」
「ち、違……っ!」
ユーヴェハイドはリリナをじっと見つめる。
その瞳は氷の色なのに、今は熱を宿す青い炎だった。
「安心しろ、リリナ」
リリナの唇に触れながら囁く。
「――その世界の俺ではなく、今ここにいる“本物の俺”が」
言葉のひとつひとつが落ちてくるたび、心臓が跳ねる。
「お前を奪い、触れ、愛してやる」
「っ……!」
「逃げるなよ?」
そして、ゆっくりと唇の端に口づけようとした、その瞬間。
―――コン、コンッ。
「……っっ!!?」
リリナは反射的に飛び退き、ユーヴェハイドは露骨に不機嫌になり舌打ちする。
扉の向こうから、慌てた騎士の声が聞こえた。
「ユーヴェハイド殿下!緊急の報告が……!」
ユーヴェハイドは扉の外で待つ騎士に、露骨に不機嫌な声を向けた。
「……今は忙しい。後にしろ」
しかし騎士の緊張した声が続く。
「しかし殿下、本当に緊急で……!」
「チッ、すぐに行くからそこで待ってろ」
ユーヴェハイドはそう言うと、リリナの手をしっかり握り、ベッドまで運ぶ。
その手は強くもあり、けれど優しく温もりを残していた。
ベッドの端にリリナをそっと座らせると、額に軽く唇を落とす。
柔らかいキスに、リリナは思わず目を閉じる。
「……俺が戻るまで、良い子にしていろ」
その言葉に、リリナは小さく頷くしかなかった。
ユーヴェハイドはゆっくり立ち上がり、再び扉に向かう。
その背中は冷たくも熱を帯び、独占欲と安心感が入り混じった圧を放っていた。
扉が閉まると、部屋には静寂が戻り、リリナは枕に顔をうずめ、震える手を胸に当てた。
(……戻ってきたら、どうなるんだろう……)
鼓動は早く、息はまだ止まらない。
だが確かなことがひとつ――ユーヴェハイドは、確実に自分を想っている。
その思いに胸が締め付けられ、熱くなるのをリリナは感じた。




