10 甘い夜の庭園で
『……本当に、なんでも知ってるんだな』
ゆっくり顔を上げたリリナに、ユーヴェハイドは微かに微笑み、剣を軽く傍らへ置いた。その青い瞳には、驚くほど柔らかな光が宿っている。
「俺のことを知っているなら──ここにいるだろうと思った」
ユーヴェハイドはリリナの隣に腰を下ろすと、そっと彼女の頬に手を添え、こぼれた涙を拭った。指先が目元をなぞり、そのまま優しく瞼へ口付ける。
「ひゃうっ!?」
顔を真っ赤にして反射的に逃げようとするリリナを、ユーヴェハイドの腕が逃がさない。
「なんだ、ここが俺の領域だと分かって入ったのは、お前だろう?」
「そ、それとこれとは違う、といいますか……!」
「ん?」
リリナはそっと顔を上げる。けれどユーヴェハイドの表情は、まるで宝物でも見るように優しく、その視線に触れるだけで心臓が跳ねる。
「……さっきの呼び名だが」
(き、きた……!やっぱり怒られる……!?)
「もう一度、呼んでくれないか」
「……え?」
「お前だけには、そう呼んでほしい」
照れたように目を細める姿が、もう反則だった。
「だから、これからも俺をそう呼べ」
リリナの鼓動はさらに加速し、胸の奥でじんわり熱が広がる。
「……ユヴィ様……?」
無意識に漏れた声に、ユーヴェハイドは満足げに頷く。
「それでいい。リリナ」
リリナはその言葉を聞いた瞬間、心臓が跳ね上がった。
(だ、だめ……!名前呼ばれるだけで心臓が壊れる……!!)
なのにユーヴェハイドは、その動揺すら愉しむように目を細めて見つめ続ける。
「……本当に可愛いな、リリナ」
低く、甘く落とされる声。たったそれだけで胸が熱くなる。
リリナは視線をそらし、小さく呟いた。
「……でも……その……距離が……」
ユーヴェハイドは肩をすくめる。
「距離なら、もう十分近いだろう?……ああ、もっと近づいても良かったのか?」
そう言いながら、腕を回し、背にそっと触れる。逃げ道を消すように。
「っ……!」
触れられただけなのに呼吸が乱れる。彼はそんな反応を観察するように微笑んだ。
「名前を呼ばれるのは、悪くない」
「……そうなんですね」
「そうだ。特に」
彼はリリナの耳元に顔を寄せる。
「好きな相手に呼ばれるなら、なおさらだ」
「~~~~っ!?」
耳に触れる距離で響いた声に、リリナの体が跳ねる。眩暈がするほど熱くて、息が漏れる。
ユーヴェハイドは余裕の微笑みを崩さない。
「リリナ」
また名前。たったそれだけなのに胸が苦しい。
(どうして……呼ばれただけで……こんな……)
ぎゅっと胸元を握りしめるリリナを見て、彼は柔らかく目を細めた。
「その反応、安心する」
「反応……?」
「お前が俺から逃げたいんじゃなく……俺に、心を揺らされている証だ」
「~~~~っ!!」
否定の言葉が出ない。わかってしまうから。
ユーヴェハイドは続ける。
「お前は俺を“推し”だと言いながら、俺には応えさせない。だが――」
そっと手を包み込む。
「心臓が早くなる理由が恐怖なら、俺が安心に変える」
胸元へ落ちる声は低く、熱い。
「震える理由が不安なら、それを幸福に変える。名前を呼ばれるだけで苦しくなるほど俺を想うなら」
指先で顎をすくい、視線を絡め取る。
「その苦しさすら、お前の望む形に書き換えてやる」
息が止まる。
もう逃げられない。だけど、逃げたいと思わなくなっていた。
リリナが沈黙するのを肯定と受け取り、ユーヴェハイドは微笑む。
「言っただろ。絶対に落としてやると」
「……ゆ、ユヴィ様……」
震える声は拒絶ではなく――惹かれている証。
その瞬間、ユーヴェハイドの表情はふっと柔らかく色づく。
「……お前が、その甘い声で『好きだ』と俺に告げる日が来るのが楽しみだ」
その甘い声は、まるで契約の刻印のように、静かに胸へ刻まれた。
✼ ✼ ✼
リリナが小さく「くちゅん」とくしゃみをした。
「……やっぱり冷えてきたな。部屋に戻るか」
ユーヴェハイドが立ち上がりながら、当たり前のようにリリナの手を取る。けれど――リリナは突然、その手をぐっと引っ張った。
「っ、!リリナ……?」
ユーヴェハイドがバランスを崩しかける。リリナは返事すらできない。視線は一点、庭園の入り口へ釘付けだった。
月明かりの先に、昼間、無礼な言葉を浴びせてきた令嬢が取り巻きと共に歩いてきていた。
考えるより早く、リリナはユーヴェハイドを茂みへと引き込み、勢いのまましゃがみ込んだ。
結果、リリナは──ユーヴェハイドを抱きしめていた。両腕で。密着で。完全に覆いかぶさる形で。
「……リリナ?」
低く驚いた声。
ユーヴェハイドは彼女の震えに気づき、そっと視線を令嬢へ向けた。
「……今日、俺がいない間に何かあったのか?」
声は静か。けれど、深い水底のような冷たさを含んでいる。
リリナは小さく首を振り、囁くように答えた。
「大、大したことではないんです。ただ……殴りかかられた女性の前に、笑顔で出ていけるほど……私、強くないので……」
「…………あ゛?」
ユーヴェハイドの体がびくりと動いた。次の瞬間、声が変わる。
「殴りかかられた?」
空気が一気に凍りついた。
(し、しまった……!口が……!)
焦ったリリナは慌てて彼の腕を掴む。
「大丈夫です!騎士さんたちが止めてくださったので……ね?だから、落ち着いて……?」
必死に甘えるように袖を引き、腕を抱き、懇願する。
ユーヴェハイドはしばらくリリナを見つめ──静かに息を吐いた。
「……お前がそう言うなら、今は我慢しよう」
リリナの手を包み込むその仕草は優しい。けれどその目は、氷の刃のように研ぎ澄まされていた。
その時だった。令嬢の声が風に乗って届く。
「殿下は、あんな女のどこがいいのかしら。……やっぱり身体でも売ったのかしら?」
「ホントよ、侯爵令嬢だからと調子に乗って──」
バキッ、と。
ユーヴェハイドの手の中で、無意識に握られた小枝が音を立てて折れた。
リリナは息を飲む。
ユーヴェハイドの表情は、もう先ほどまでの甘いものではなかった。静かで、冷徹で、怒りが底から静かに沸騰している。
「……リリナ」
名前を呼ぶ声は低く、震えるほど冷たい。
「今のは、我慢しろという範囲を越えた」
ゆっくり立ち上がる彼の背に、月の光が鋭い影を落とす。
「お前を傷つける者に、明日の朝日は拝ませない」
その声は凍るほど静かで。けれどリリナに向ける表情だけは、ひどく優しかった。
「ここで待っていろ。俺の可愛いリリナ」
そしてユーヴェハイドは、迷いもなく令嬢たちの方へ歩き出した。
✼ ✼ ✼
ユーヴェハイドが足を踏み出すたび、空気が冷えた。庭園に吹く夜風までも、まるで彼に怯えているようだった。
令嬢と取り巻きたちは、背後から掛けられた低い声に振り向く。
「随分と楽しそうだな」
その声は笑っていない。けれど、逃げ場も反論も許さない重みがあった。
令嬢たちの顔色が、一瞬で変わる。
「で、殿下……!?こ、これは……」
「言い訳は必要ない」
ユーヴェハイドの視線が、氷のように冷たく令嬢を射抜く。動いたのは口元だけ。しかし声は鋭く、刺さる。
「今、聞こえた言葉、“体を売った”だったな?」
「っ……そ、それは……!その……冗談、で……」
令嬢は青ざめ、震え、口を開けたり閉じたりするだけ。だがユーヴェハイドは容赦しない。
「俺の婚約者を侮辱することが冗談になる世界があるなら、今すぐ案内しろ」
声に温度はなく、ただ事実を突きつけるだけ。
令嬢の膝が崩れ落ちる。
構うことなく彼は淡々と続けた。
「昼間は、俺の婚約者に手を上げようとしたみたいだな」
取り巻きたちの顔色が完全に抜け落ちた。
ユーヴェハイドは首をわずかに傾けた。
「俺の婚約者に暴力を振るおうとした罪。侮辱による名誉毀損。虚偽発言。圧力行為」
感情が欠片もない声。
「最低でも、貴族ではいられなくなるな」
令嬢が顔を上げる。
「ま、待ってください殿下!つ、つい……!ほんの、出来心で……!!」
ユーヴェハイドは笑った。だがそれは、人の心を凍らせる笑み。
「“出来心”で罪が軽くなるのなら、誰も苦労しない」
踏み潰すような冷笑。
「覚えておけ。俺の前でリリナを侮辱した時点で、お前の未来は終わった」
令嬢は震えながら崩れる。
取り巻きが泣きながらすがりつこうとすると、ユーヴェハイドの目が鋭く光った。
「触れるな。虫が触れた汚れなど、洗っても不快だ」
その一言だけで、取り巻きは悲鳴のような声を漏らし、離れていく。
そして最後に、冷ややかに宣告した。
「明朝、正式な通知が届くだろう。覚悟しておけ」
そう言い捨て、ユーヴェハイドは振り向かず歩き去る。
倒れ込む令嬢たちの泣き声だけが、庭園に残った。
✼ ✼ ✼
茂みの影からリリナが顔を出すと、ユーヴェハイドはこちらを見てふっと表情を緩めた。
先ほどまでの冷酷な皇太子ではない。
ただ、彼女のために怒った、一人の男の顔。
「……終わった。怖がらせたなら、すまない」
リリナは首を振る。そして小さく、けれど確かに言った。
「……ユヴィ様が怒ってくれて、少し……安心しました」
ユーヴェハイドの目が柔らかく揺れる。
「ならいい」
彼はそっと手を差し伸べる。
「もう庭園は寒い。行こう、リリナ」




