1 推しは推せる時に推せ
『推しは推せる時に推せ』――なんて素晴らしい言葉なのだろうか。
事故に遭った瞬間、少女はそう思った。
少女の推しは、『氷の騎士と光の君へ』という乙女ゲームに登場する、ヴァレンディエル帝国皇太子兼、王宮第一騎士団団長《ユーヴェハイド・ディア・リ・ヴァレンディエル》。
(死ぬ前にユヴィ様のグッズ、爆買いしててよかった!)
意識がふわりと揺れ、次の瞬間には見知らぬ豪華な部屋の天井が視界に映る。
(――あれ、ここは……?)
金縁の家具、煌びやかなシャンデリア。窓の外には整えられた庭園。
夢のような光景に呆然とする。
「……え、夢?いや、違う……?」
頭を押さえながら起き上がると、視界の端に鏡が映った。
そこにいたのは、自分ではない。
腰まであるふわふわの紫髪。淡い桃色の瞳。
その姿は――
《リリナ・グレイランジュ》。
どこからどう見ても、『氷の騎士と光の君へ』に登場する悪役令嬢だ。
「死亡フラグしかない悪役令嬢……私が!?リリナ!?」
震える唇を噛む。
事故で死んだはずが、推しの世界に転生なんて――ラノベではよく読む展開だが、現実味が違う。
頬を抓れば痛いし、腕も脚も普通に動く。
あの悪役令嬢リリナを、こうして自分で動かせている。
だが――問題はそこではない。
リリナ・グレイランジュの未来は、選択肢があるようで一本道。
皇太子ユーヴェハイドに媚びて失敗し、処刑。
ヒロインを殺害して闇落ちしたユーヴェハイドに処刑。
その他大抵、処刑。
回避不能の処刑END率ほぼ100%。
「死亡フラグ多すぎない!?多角形!?いやもうポリゴン!!」
頭を抱えつつも、状況整理は進む。
まだ本編は始まっていない。ヒロインとも未接触。つまり――
「まだ助かる……!生存ルート、全力で行く!」
決意したその瞬間――胸の奥のオタク魂が叫んだ。
(でも……転生記念に、一度でいいからあの冷酷対応されたい……!)
ユーヴェハイドは超がつくほどの女嫌い。
令嬢たちを次々と冷淡な言葉で切り捨てる姿は、ファンの間で伝説。
だからこそ――
「一度でいい。こっ酷く振られたい!」
思い立ったが吉日。
リリナは即座に行動し、騎士団任務中のユーヴェハイドのもとへ向かった。
石畳を踏みしめ、視界に飛び込んできたのは――
白銀の髪。冷たい青の瞳。人を拒む空気。
――本物のユーヴェハイド。
(推し……実在……?)
涙腺が崩壊寸前になるも、勢いで叫ぶ。
「皇太子殿下!」
その声に、氷のような視線が向く。
心臓が爆発しそうでも、止まらない。
「好きです!さぁどうぞ、存分に冷たく振ってくださいまし!!」
空気が凍った。
市民も騎士団員も息を呑む。
鳥すら飛ぶのをやめたかのような静寂。
肝心のユーヴェハイドは――
唖然。
言葉を失い、瞬きすら忘れたようにリリナを見つめていた。
氷の仮面に、わずかな亀裂。
だが――リリナは別の意味で理解する。
(……そ、そういうことね……!?)
手で胸を押さえ、震える声で呟く。
(言葉すらくれない……舌打ちすらしない……!?冷酷対応のさらに上……!?)
頬が赤く染まる。
(“存在として認識する価値すらない”対応……!?最高難度……!!)
震える声が漏れる。
「……推し……最高……!」
満足げにドレスの裾をつまみ、優雅に一礼。
「夢のようなひとときでした。冷たい沈黙、胸に刻みます!」
「…………は?」
ユーヴェハイドは置き去り。
騎士団員たちは口を開けたまま固まる。
リリナは達成感に満ちて背を向けた。
(推しに会えた……告白できた……冷酷対応までいただけた……もう思い残すことはない……!)
幸福度ゲージは限界突破。
推しの供給は命より重い。
歩きながら、次の計画を考える。
(リリナの財産使って国外へ。小さな家買って、モフモフ飼って……推しの尊い記憶を糧に生きる……完璧。)
その背中は、戦場を制した勇者のようだった。
✼ ✼ ✼
一方――置き去りにされたユーヴェハイド。
しばらく無言のまま、リリナの消えた方向を見つめる。
胸の奥が、不愉快とも興味ともつかない熱でざわつく。
「……何だったんだ、今のは」
副団長ルヴェインが震えながら答える。
「皇太子殿下を……その……お気に召したようで……告白かと……」
「……あれを、告白と?」
「…………」
騎士たちも震えている。
女嫌いの皇太子に「振ってください!」と言った令嬢など聞いたことがない。
ユーヴェハイドは小さく息を吐く。
「……あれが普通なのか?」
騎士団一同、目をそらすしかなかった。
それでも――ユーヴェハイドの瞳は、去っていった少女から離れない。
あれは逃げたのではない。
「目的を果たしたから帰った」そういう足取りだった。
胸に残る不可解な熱を無視できない。
「…………面白い女だ」
吐き捨てた声に宿るのは、興味か、苛立ちか、執着か――。
任務が終われば彼女に会いに行こう。
そう思ったユーヴェハイドだが――
リリナはすでに国外逃亡を計画していた。




