竜の変化
フィリアが夜明け前に幻のような白い竜を目にしたのと時を同じくして、アンジェリカは野営のテントから一人早く起き出していた。
前日の夕刻から、魔物討伐のために、竜の眠る森をダグラスたち魔術師団の一行と訪れていたアンジェリカだったけれど、彼女は早朝から不機嫌だった。
(さっさと魔物たちを片付けて帰りたいわ。……野営は嫌いよ)
魔術師団に女性は数少なかったけれど、その中でも聖女のアンジェリカだけは特別扱いをされており、彼女が夜を過ごしたテントも彼女専用に誂えられたものだった。
けれど、それでもアンジェリカは不満そのものといった表情を浮かべていた。
(ダグラス様も、王命でとはいえ私との婚約が調ったのだから、もう少し私を気遣ってくださればいいのに。この夜だって、私をテントに一人にしておくなんて……)
アンジェリカにとって、元婚約者だったメイナードは、あまりに清廉過ぎるように思われるところがあった。
彼女に対して常に優しくはあったものの、王命による婚約後も彼からは彼女に指一本触れようとはしなかったし、どこか一定の距離を保っているように感じられたからだ。
それに対してダグラスは、アンジェリカがぴったりと身体を寄せて腕を絡めても、美しい彼女の姿に満更ではなさそうな様子に見えたし、一緒に魔物討伐に赴くこの機会に、彼女はもっと彼との距離を縮めたいと思っていた。
(以前のお元気だった時のメイナード様には劣るけれど、ダグラス様も凛々しく美しいお顔立ちをしていらっしゃるし。それに、平民だったメイナード様とは違って、侯爵家の出というのも素晴らしいわ。……まあ、彼が私に夢中になるのも、時間の問題でしょうけれど)
気を取り直したアンジェリカは、自らに掛けていた防御魔法を強化してから、そっと一人テントを抜け出した。
森に漂う瘴気は、彼女が聞いていたよりも濃くなっていた。空気が重く淀んでいることは、彼女も昨夕に森に一歩足を踏み入れただけですぐにわかった。
アンジェリカはまだ薄暗い周囲を見回した。
(魔術師団が昨日かなり片付けたから、この近くには魔物の気配はなさそうね)
昨日出くわした魔物たちの様子を、彼女は思い返していた。
狂ったように獰猛に牙を剥いてきた魔物たちは、その身体の主な特徴から、恐らくはその森に棲んでいた魔物であろうと思われた。けれど、外皮や顔の一部が変色したり、硬化したりしていて、従前の魔物たちの様子とは随分と趣を異にしていた。
魔物たちの瞳に宿っていた、常軌を逸した狂気を孕んだ色に、アンジェリカですら背筋が冷える思いがした。森に生息していたただの動物ですら、一部は発狂したようになって強い力で襲い掛かって来ていた。
(あの魔物や動物たちがもし、この森に漂い始めた瘴気のせいであのように変化したのだとしたら。このままこの瘴気を放っておいたら、まずいことになりそうだわ……)
アンジェリカの足は、迷いなくある方向に向かっていた。それは、竜が眠るように蹲っている場所だった。
森に来た彼女は、昨日もまず一番始めにダグラスと竜の様子を見に来ていたけれど、竜は眠ったように目を閉じたまま、一見したところ特に変わった様子はなさそうだった。
ただ、アンジェリカには竜について気になった点があり、どうしてもそれを一人のうちに確認しておきたかったのだった。
竜の側まで来たアンジェリカは、漆黒の鱗で覆われた竜の様子を慎重に眺めると、その感覚を研ぎ澄ませた。
(昨日、確かに感じたのは……)
薄闇に沈むように黒々とした竜からアンジェリカが感じ取ったのは、メイナードの魔力だった。
帯びている魔力が誰の者かを見分けることができる者は、この王国でも片手で数えられるほどしかいない。そして、彼女やダグラスは、その数少ないうちの一人だった。特に、アンジェリカはその感覚に優れていた。
(メイナード様に掛けた呪いによって、この竜が彼から力を奪っているというのは、どうやら本当のようね。メイナード様の力を取り込むことで、この竜が目を覚まし、もし瘴気が収まることに繋がるのなら、その方が国にとってはいいのかもしれないわ)
けれど、アンジェリカが最も気になっていたのは、そのことではなかった。
彼女がわざわざ早朝に一人で竜を見に来たのは、竜の内側から、彼女がよく知っている、けれど想像だにしていなかった魔力を感じたような気がしたからだった。
(あれはフィリアの魔力に思えたわ。どうしてあの子の魔力を竜から感じるの? それに、あの子はほんのちょっぴりの魔力しかないはずなのに)
警戒しながら、彼女はそろそろと竜に近付いた。そこで竜の奥の方から感じられたのは、ほんの微かではあったけれど、やはりフィリアの魔力だった。
「……フィリアは魔術師団には所属していないし、これがあの子の魔力だとわかるのは、きっと私だけでしょうけれど。いったい、あの子は何をしているというの?」
怪訝な顔でそう呟いたアンジェリカの目を、仄かな光が捉えた。
「……?」
次第に白み始めていた空から差した光が、竜の鱗に反射したのかとも思った彼女だったけれど、目を凝らすと、その光は竜の内側から放たれていた。
よく注意して見なければ見落としてしまいそうな、消え入りそうなほどの弱々しい光ではあったものの、それは確かに竜の中に存在しているのが感じられた。
(竜に何かが起きているのかしら。フィリアは、もしかしたら呪いが掛かったメイナード様を通じて、竜に働き掛けている……?)
アンジェリカは、薄らとした白い光を見つめながら、どこか胸騒ぎを覚えていた。
(まさか、あの子、本当に竜の呪いを解こうとしているのかしら? 私には見えない何かに勘付いているの?)
フィリアの目には何が映っているのだろうと、彼女はもどかしく思いながら顔を歪めた。
(まだよくはわからないけれど、この竜からは目を離さないでおいた方がよさそうね)
監視用の魔法を竜に掛けたアンジェリカは、明けて来た空を木々の間から見上げながら、急ぎ足で野営のテントへと戻って行った。
***
自室に戻ったフィリアが手に取ったのは、まだ詳細には目を通していなかった、研究所から借りてきた中では最も薄い一冊だった。
手にした本のくすんだ臙脂色をした表紙を捲り、その裏表紙を眺めると、フィリアは小さく呟いた。
「似ているわ……」
そこには、神の御前で跪いて祈る神官の姿が描かれていた。そして、その絵の中で神のすぐ脇に描き出されていたのは、一匹の白銀の竜だった。
研究所で借りる本を見繕う際、ぱらぱらとページを捲った時に目にしたその挿絵を、フィリアは覚えていたのだった。
メイナードの部屋に小走りに戻ったフィリアは、ベッドサイドに腰掛けていた彼に向かって、手元に開いていたページを差し出した。
「メイナード様、これを」
開かれていたページに視線を落とした彼は、静かに目を瞠っていた。
「……さっき夢の中で見た竜に、そっくりだな。君が見たのもこの竜だったのかい?」
「はい、そうです」
フィリアとメイナードは目を見合わせると、彼女は微かに震える手でページを捲った。何かが見付かるような予感を覚えたフィリアは、書き記された文字に慎重に目を走らせていった。
ベッドサイドに並んで腰掛けながら、フィリアが本のページを一枚一枚捲っていく様子を、メイナードは隣から静かに眺めていた。
しばらくすると、メイナードの部屋のドアがノックされた。ゆっくりと立ち上がったメイナードが歩いて行ってドアを開けると、その向こう側に明るいサムの顔が覗いた。
「おはようございます、旦那さ……えっ!?」
サムの瞳は、目の前に立つメイナードを見つめて驚きに見開かれていた。彼の両目には、みるみるうちに溢れんばかりの涙が滲んでいった。
「ご自分の足で、歩けるように……なられたのですか。いつの間に……」
感極まったように声を詰まらせたサムに、メイナードは穏やかに微笑み掛けた。
「ああ。まだ以前通りにとはいかないが、昨夜、フィリアに歩く練習に付き合ってもらったお蔭だよ」
フィリアを振り返ったメイナードの視線を追うようにして、サムも感謝を込めた瞳で彼女を見つめた。
「フィリア様。いつも旦那様を支えてくださって、本当にありがとうございます」
「いえ。メイナード様の努力の結果ですから」
微笑んだフィリアにサムも笑みを返してから、彼は瞳に浮かんでいた涙を手の甲で拭うと二人に向かって尋ねた。
「これから、ルディ様の分も含めて、三人分の朝食をお持ちしてもよろしいですか?」
「ありがとう、サム。よろしく頼むよ」
サムは嬉しそうに頷くと、弾むような足取りでキッチンへと向かって行った。
そんな彼の様子に、メイナードとフィリアは幸せそうに見つめ合うと明るい笑みを浮かべた。




