不思議な夢
誤字報告をありがとうございます、修正しております。
その晩、フィリアは自室に戻ってからも、研究所から借りて来た本のページを捲り続けていた。
メイナードの部屋でもずっと古い資料を調べてはいたけれど、彼の首元に浮かぶ、探している文字の綴りに該当する意味には辿り着けてはいなかったからだ。
次第にメイナードの体調は良くなっている様子ではあったけれど、その日の朝にイアンに聞いた言葉がどうしても耳に残っていた。
『あの呪詛は、呪いを受けた者から生命力を吸い取る』
(……万が一のことが、決して起きないようにしないと)
フィリアは一刻も早く完全にメイナードの呪いを解きたい一心で、ひたすらに古い書物と向き合っていた。
イアンにフィリアが聞いた通り、メイナードの首元に呪詛に混ざって浮かび上がった文字は、神に祈りを捧げる際に、かつての神官が使っていた文字に特徴がとても良く似ていた。
借りて来た文献に答えが見付かるようにと、そう祈るような思いで調べていたフィリアだったけれど、疲労から次第に瞼が重くなってきていた。
気持ちを入れ替えるように首を振って伸びをしたフィリアは、そっと自室のドアを開けると、廊下から二つ先のメイナードの部屋のドアを眺めた。
(メイナード様は、もう休んでいらっしゃるのかしら……?)
ふとした瞬間に、彼の顔が見たい、彼に会いたいと思ってしまうのは、フィリアの側も同じだった。
夕刻までは一緒にいたのに、もう寂しく思うなんてと、ふっと小さく笑みを零したフィリアが自室に戻ろうとしていると、メイナードの部屋の辺りから突然ガタンと大きな音が聞こえた。
「……! 何が起きたの!?」
フィリアの顔がすうっと青ざめた。彼女が慌ててメイナードの部屋のドアを開けると、ベッドの外に出て床に膝を突いている彼の姿が目に映った。彼のすぐ側には、松葉杖が倒れていた。
「メイナード様、大丈夫ですか? お怪我は?」
急いでメイナードに駆け寄ったフィリアを、彼は見上げた。
「ありがとう、フィリア。すまない、心配を掛けてしまって」
やや苦笑しながら、メイナードは彼の脇に倒れている松葉杖に視線を移した。
「身体がかなり回復している感覚があったから、久し振りに歩く練習をしていたのだが、途中でバランスを崩してしまってね」
フィリアは彼を助け起こしてから、手を貸して近くのソファーに座らせると、驚いたようにその瞳を瞬いた。
「メイナード様、ご自分の足で歩けるようになったのですか……?」
「ああ、まだ杖を使いながらだし、歩けた距離もごくわずかだがね」
「凄いですね、メイナード様……!」
フィリアは嬉しそうに瞳を輝かせると、思わずメイナードの身体を両腕でぎゅっと抱き締めた。
びっくりした様子で目を瞠ったメイナードを見て、フィリアは我に返るとぱっと彼から手を放した。
「す、すみません! つい……」
かあっと頬を染めたフィリアは、メイナードを見つめてはにかみながらもにっこりと笑った。
「少しずつでもご自分の足で歩けるほどに回復なさったなんて、素晴らしいですね」
「ああ、自分でも信じられないよ。ほんの少し前までは、ベッドの上で上半身を起こすことさえ、自分だけの力では難しかったからね。それに、呪いのほかに残っていた傷も、君の回復魔法ですっかり癒えたんだ」
メイナードは彼女の瞳を覗き込むようにじっと見つめると、優しく微笑んだ。
「すべて君のお蔭だよ、フィリア」
今度は彼からフィリアの身体に柔らかく腕が回された。頬にさらに血が上るのを感じながら、フィリアはメイナードの腕の中から彼を見上げた。
「歩く練習をなさるのなら、声を掛けてくだされば、いつでもお手伝いしましたのに」
「そこまで君に負担を掛けてしまうのは、申し訳なく思ってね」
やや眉を下げたメイナードに、フィリアはくすりと笑った。
「私はもう、メイナード様の妻ですよ? お支えするのは当然ですし、遠慮はなさらないでください。それに、私も頼っていただけた方が嬉しいですから」
「ああもう、君という人は……」
メイナードは、愛しくてたまらないといった様子でフィリアの額に唇を落とすと、微笑みながら彼女を見つめた。
「それなら、君の言葉に甘えさせてもらおうかな。もう少し練習したいと思っていたんだ」
「はい、喜んで!」
ぱっと花のように明るい笑みを浮かべたフィリアを見つめて、メイナードの頬も染まっていた。
松葉杖の代わりにフィリアが横から彼に手を貸して、二人は部屋を横切る練習を何度も繰り返した。
寝たきりの状態が長かったためか、足の筋力も落ちていた様子のメイナードではあったけれど、足を数回動かしてみると、すぐに感覚を取り戻したようだった。
はじめはフィリアに体重を預けるように歩いていたメイナードだったけれど、幾度か試すうちに、次第に自分だけでバランスを取って歩けるようになってきていた。
(さすがは、英雄と呼ばれたメイナード様だわ。きっと身体の感覚が抜群に優れていらっしゃるのね)
感嘆の思いを込めて彼の隣に並んでいたフィリアは、部屋を横切る回数が増えるごとに、彼から預けられる重みが減っていくのを感じていた。
とうとう、メイナードがほぼフィリアの力を借りずに部屋を横切ることに成功すると、二人は目を見交わしてにっこりと笑い合った。
「おめでとうございます、メイナード様! 今、もうほとんどご自分の力だけで歩いていらっしゃいましたね」
「フィリア、ありがとう。君が僕の練習に手を貸してくれたからだよ」
「いえ、私はたいしたことはしていませんが。でも、本当によかった……」
メイナードの回復を確かに感じて、フィリアは胸がじわりと温まるのを感じていた。
「ルディもサムも、大喜びするでしょうね」
「ああ、きっとそうだろうな」
しみじみと感慨深げにそう答えたメイナードに、フィリアはふわりと微笑み掛けた。
「こんなに遅くまで練習なさって、お疲れでしょう。……そろそろお休みになりませんか?」
「ああ、そうするよ。本当に感謝しているよ、フィリア」
フィリアは、メイナードの身体に軽く手を添えるようにして一緒にベッド際まで行くと、ベッドに身体を沈めようとしていたメイナードを温かな瞳で見つめた。
「どうぞ、ごゆっくりお休みくださいね。よい夢が見られますように」
「ねえ、フィリア」
メイナードはベッドの上からフィリアの手を取ると、彼女の顔を見上げた。
「今夜は、このまま僕の側にいてくれないか?」
彼の宝石のように澄んだ瞳には、切なげな色と仄かな熱が宿っていた。
彼の美しい瞳に思わず息を呑んだフィリアは、頬に熱が集まるのを感じながら小さく頷いた。
「……はい、メイナード様」
メイナードから伸ばされた両腕に抱き留められるようにして、フィリアは彼の隣に身体を横たえた。
ふっと微笑みを浮かべたメイナードの唇が、優しくフィリアの唇に重ねられる。蕩けそうなほど甘い口付けにふわふわとしていたフィリアを、嬉しそうに笑った彼はそのまま柔らかく抱き締めた。
「君は、いつも僕に希望の光を見せてくれる。君が腕の中にいたら、よい夢が見られそうだよ。……おやすみ、フィリア」
「……おやすみなさい、メイナード様」
美しい彼の顔をすぐ近くに感じながら、フィリアは胸が甘く跳ねるのを感じていた。
彼が瞳を閉じたのを感じながらも、フィリアは高鳴りの収まらない胸を抱えていた。そっと身体をメイナードに預けながら、彼女は惚けた頭で考えていた。
(私、このままちゃんと眠れるかしら……)
けれど、このところ毎日のように深夜まで古い文献を調べていたために、知らず知らずのうちに疲れ切っていた彼女は、彼の温かな体温に誘われるようにして、とろとろと眠りの中へと落ちていった。
***
フィリアはその夜、不思議な夢を見た。
彼女の目の前には、闇の中を白銀に輝く美しい竜が揺蕩っていた。けれど、透き通るようなその竜には、そのまま周囲に溶け込むようにして消えてしまいそうな儚さも感じられた。
彼女を見つめる竜の金色の瞳に映る色がどこか悲しげで、助けを求めているようで、フィリアは竜に向かってそろそろと手を伸ばした。
その時、白銀の竜に纏わりつくように、漆黒の竜が影のように現れてその周囲を舞った。フィリアの伸ばし掛けた手が、びくりと止まる。
白銀の竜とは正反対の、邪悪さが感じられる黒々とした竜から必死に身を躱しながら、白銀の竜は、その輝く瞳でフィリアのことをじっと見つめていた。
まるでそのまま手を伸ばして触れて欲しいと言っているような、そんな竜の切実さの籠った瞳から、フィリアは目を離すことができなかった。
(この竜は、いったい……?)
止まりかけた手を再び伸ばそうとしたところで、はっと目覚めたフィリアの身体は、じんわりと全身が汗ばんでいた。
まだ時刻は明け方のようで、窓の外は仄暗かった。メイナードの穏やかな寝息がすぐ側から聞こえ、ほっと安心した彼女だったけれど、驚くほどの鮮明な夢に、まだ心臓が早鐘のように打っていた。
(変わった夢だったわ。あんな夢、初めて見た……)
メイナードの腕の中から彼の顔を見上げようとしたフィリアの瞳を、彼の首元で揺らめく白い光が捉えた。昨日よりも輝きを増したように見える光に、彼女はじっと目を凝らした。
呪詛に混じる聖なる文字からすうっと浮き上がってきた淡く白い光が、夢の中で見たのと同じ竜の姿を次第に形作っていくのを、フィリアは信じられないような思いで見つめていた。
(私、まだ夢を見ているのかしら……)
夢現のまま、フィリアは二人の頭上に浮かび上がった幻のように美しい白銀の竜を、目を瞠りながら眺めていた。
だんだんと空が白み、朝陽が部屋に差し始めると、光に溶けるようにして竜はその姿を消してしまった。
まだぼんやりとした頭で、竜が姿を消した辺りを見上げていたフィリアの耳に、澄んだ低い声が心地よく響いた。
「フィリア、おはよう」
優しい笑顔でメイナードに見つめられ、フィリアははにかみながら笑みを返した。
「おはようございます、メイナード様」
「早くから目が覚めていたようだね?」
「はい。実は、今……」
フィリアは、見たばかりの不思議な夢と、現実に姿を見せたように感じられた淡く光る白い竜のことをメイナードに伝えた。メイナードは頷きながら、静かにフィリアの話に耳を傾けていた。
「……不思議なこともあるものだね。僕の夢の中にも、フィリアが見たのと同じような、白銀に輝く竜が出て来たんだ。それに、その竜を飲み込もうとしているような漆黒の竜も。偶然にしては出来過ぎているような気がする。何か意味があるのかな……」
思案気に瞳を瞬いたフィリアは、どことなく虫の知らせを感じてメイナードを見つめた。
「あの、部屋から一冊、本を取って来てもよろしいでしょうか?」
「ああ、もちろんだよ」
フィリアはベッドから滑り出ると、急ぎ足で自室へと戻った。




