アンジェリカの苛立ち
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フィリアは必要な書物を研究室で数冊見繕うと、ちょうど出勤してきた同僚たちとしばらく振りに言葉を交わしてから、イアンの机の前に向かい彼に頭を下げた。
「イアン様、今日はありがとうございました。また何か進展があったらご報告します」
「ええ、待っていますよ、フィリア。良い方向に進むように祈っています。困ったことがあれば、遠慮なく相談してくださいね。私の方でも何かわかったらご連絡します」
「そう言っていただけると、とても心強いです。よろしくお願いします」
ひらひらと手を振るイアンに笑顔で答えてから、フィリアは研究所を後にした。
研究所に来た時と同じく、王宮の中庭を横切って外門の方へと向かおうとしていると、フィリアの目に、ちょうど王宮から出て来た二人の人影が目に入った。
肩を並べて歩く男女の姿を前にして、フィリアは思わず足を止めた。
見覚えのある鮮やかな蜂蜜色の髪を靡かせた女性が、フィリアの存在に気付いて振り返った。
「フィリア? あなた、どうしてここに?」
フィリアに向かって眉を顰めたアンジェリカは、隣に並ぶ赤銅色の髪をした青年の腕に自らの腕を絡めていた。
青年は、アンジェリカと同じ蜂蜜色の髪をしたフィリアを眺めてから、アンジェリカに視線を戻した。
「彼女は、君の妹かい?」
「ええ、ダグラス様。……私と違って魔力も弱いですし、ご紹介するほどの妹ではありませんけれど」
アンジェリカは、ダグラスにさらに身体をぴったりと寄せるとフィリアを見つめた。
「今日は、ダグラス様との婚約を陛下にご報告しに来たの。忙しい魔物討伐の合間を縫ってね。陛下も、私たちの婚約を喜んでいらっしゃったわ」
「それはおめでとうございます、お姉様、ダグラス様」
満足気に頷いたアンジェリカは、フィリアの左手薬指に嵌められた結婚指輪を眺めて勝ち誇ったように口角を上げた。
「後はメイナード様のお世話をよろしくね、フィリア」
フィリアは思わずぎゅっと拳を握り締めると、真っ直ぐにアンジェリカを見つめた。
「ええ、お姉様。メイナード様は必ず回復なさいます。私はそれまで、何があろうと彼をお支えしますから」
今まではアンジェリカに言われるがまま、口答えすることもなく彼女の言葉に俯いていたフィリアが、はっきりとした口調で彼女に言い返したことに、アンジェリカは苛立ちを隠せずにいた。
(……何なのよ、この子。今まで、私に逆らうようなことはなかったのに)
アンジェリカの横から、ダグラスがフィリアに向かって口を開いた。
「君はメイナード様に嫁いだのだったね、結婚おめでとう。彼の具合はどうだい?」
「メイナード様は少しずつ快方に向かっています」
「……何ですって?」
アンジェリカは訝しげな表情でフィリアを見つめた。
「それは、あなたがそう思い込んでいるだけではなくて? 酷い怪我を負って、あれほど気味の悪い呪いにまで掛かって、急坂を転げ落ちるように衰弱していっていたのに……」
「けれど、このところは随分顔色もよくなっていらっしゃいますよ」
アンジェリカはフィリアの言葉に不服そうに眉を寄せてから、ダグラスの顔を見上げた。
「……そろそろ行きましょうか、ダグラス様。また次の魔物討伐も控えていますし」
「ああ、わかった」
ダグラスはちらりとフィリアを振り返ったけれど、アンジェリカに腕を引かれながら立ち去って行った。
背を向けて去って行く二人の後ろ姿を、フィリアは静かに見送った。
***
ダグラスと並んで歩きながら、アンジェリカは今しがた別れたばかりのフィリアのことを思い返していた。
(どうしたっていうのかしら。フィリアはなぜ、あれほど瞳の輝きが強くなったの?)
アンジェリカは、纏う雰囲気が変わったフィリアの姿に、胸の中をもやもやとしたものが揺蕩うのを感じていた。
(いつも目障りだったあの子をメイナード様の元にやってしまえば、もうあの子の顔を見ることもなくなるだろうと、そう思っていたのに)
メイナードの首元に現れていた禍々しい呪詛を思い出すだけで、アンジェリカは背筋がぞわりと粟立つようだった。
獰猛に牙を剥いてくるような激しさを感じる強い呪いに、アンジェリカは自分の力では太刀打ちできないと悟ると、厄介払いも兼ねて、フィリアを自分の身代わりにメイナードの元へ送ろうと決めたのだった。
メイナードに掛けられた竜の呪いは、まるで彼の首元にとぐろを巻いて巣食いながら、彼の力を搾り取った後は、自分にまでも狙いを定めて襲って来るのではないかと思われるほどに、得体の知れない怖ろしさがあった。
メイナードに嫁がせたフィリアの魔力は、アンジェリカの足元にも及ばない。
呪いに蝕まれたメイナードのいる家から、フィリアは生きて戻っては来ないのではないかと、アンジェリカはそう予想していたのだ。
幼い頃から今に至るまで、アンジェリカはフィリアをあからさまに疎んじてきた。
それは、家族や周囲の人々が考えているように、フィリアの外見や、魔力が弱いと判明したことも理由には数えられたけれど、それだけではなかった。
アンジェリカは、フィリアの不思議な能力を昔から警戒していたのだ。
人目を惹く美貌と、突出した魔力を兼ね備えたアンジェリカは、世間一般で評価の対象となる、目に見えて測れるものは誰より備えていると自負していた。
けれど、フィリアには幼少期から、アンジェリカが窺い知ることのできない、一風変わった勘の鋭さがあった。
以前に、アーチヴァル伯爵家において、夫人である母の宝石が盗まれたことがあった。その際にも、濡れ衣を着せられていた使用人に代わって、真犯人であったメイドと宝石の在処を見付けたのがフィリアだった。
たまたま犯行の現場を見ていたのだろうと、家の皆はそう思っていたようだったけれど、アンジェリカはそうは思わなかった。
遠縁の親戚から突然届いた来訪を告げる旨の手紙を目にして、その目的が金の無心にあることをなぜかフィリアが見抜いた時にも、アンジェリカは不気味な思いでフィリアのことを眺めていた。
(この子の目には、いったい何が見えているのかしら)
フィリアが珍しいオッドアイで何かを見つめる様子を目にする度、アンジェリカには、誰もが目にしている人や物の先にある何かまでもが、フィリアの瞳には映っているような気がしていた。
けれど、フィリア自身には、特にそのような自覚はないようだったし、家族の誰も、彼女の変わった才能に気付いている様子はなさそうだった。フィリアは頭の回転は速かったから、鋭く察しがよいのだろうと片付けられていたのだ。
アンジェリカは、聖女と呼ばれるほどの魔力を誇り、高度な回復系の魔法を難なく使いこなす自分と、魔力が弱く魔術師を目指すことすらできなかった妹のフィリアとでは比べるべくもないと自信を持っていたし、周囲もそう思っていることは明らかだった。
けれど、過去の聖女のうち、歴史に名を残す偉大な聖女には、いわゆる通常の魔法とは一括りにできない異能を授かっていた者もいた。アンジェリカは、フィリアの不思議な才能は、本来自分が授かるべき能力だったのではないかと、そうすれば自分の聖女の地位はさらに不動のものになっていたのではないかと、そんな嫉みも密かにフィリアに抱いていたのだった。
誰よりも自らを愛するアンジェリカは、フィリアの力をどこか本能的に危惧していた。
――この子の存在に、いつか私は足元を掬われるかもしれない。
フィリアに注目が集まらないように、光が当たらないように、アンジェリカは家の中でも外でも、あえてフィリアを軽んじた。
そして、自分の代わりに呪われたメイナードに嫁ぎ、彼と運命を共にしてくれるなら、一石二鳥のようにアンジェリカには思われたのだ。
例え小さな障害であっても、自分にとって邪魔になる可能性のあるものは、少し残らず排除しておきたいと彼女は考えていた。
「あの子もすぐに、メイナード様の道連れになると思ったのに……」
アンジェリカは、知らず知らず小さな声でそう呟いていた。
無意識のうちに険しい表情をしていたアンジェリカに、ダグラスが眉を顰めた。
「何か言ったか、アンジェリカ?」
ダグラスの声にはっと我に返ったアンジェリカは、首を横に振ると彼に微笑み掛けた。
「いえ、特には」
ダグラスは思案気にアンジェリカに尋ねた。
「……さっき、君の妹が言っていた話だが。アンジェリカは、メイナード様は助かると思うかい?」
「いいえ」
アンジェリカは淡々と答えた。
「難しいと思いますわ。妹が言っていたのは、単なる強がりでしょう」
「まあ、そうだろうな。聖女の君にすら解けなかった竜の呪いが、彼女に解けるはずもないだろうしな」
「……ええ、そうですわね」
アンジェリカは小さく唇を噛んだ。自分に解けない呪いがあったということが、彼女のプライドを酷く傷付けていた。
(あれは私の人生の汚点だわ。それに……)
メイナードが快方に向かっているというフィリアの知らせに、アンジェリカは自らの言葉とは裏腹に、胸の奥から湧き上がってくるような不安を感じていた。
(あの子は、嘘を吐けるほど器用じゃない。もしも、メイナード様が確かに快方に向かっていて、フィリアが本当にメイナード様の呪いを解いたとしたら……)
仮にそんなことが起きたなら、聖女と呼ばれるアンジェリカの名声が失墜するのは明らかなように、彼女には思えた。
ダグラスは、アンジェリカが微かに眉を寄せたことには気付かぬままに続けた。
「これから向かう、あの竜が眠る森の魔物討伐だが。今まで、竜以外にはたいした魔物は出ていなかったあの森で、それらの変種のような、非常に凶暴化した魔物たちが多く見られているそうだな。面倒だが、瘴気も森の中に充満していると聞いている」
「私の防御魔法で、瘴気は防げますわ。ダグラス様をはじめとして、魔物討伐に向かう隊の皆に防御魔法を掛けますから、その点はご安心を」
「ああ、助かるよ。あの竜の様子も確認する必要があるな」
「ええ、そうですわね」
アンジェリカの頭の中を、輝きを増したフィリアの意志の強い瞳がふとよぎった。
(もし、万が一にも、フィリアがメイナード様の呪いを解くことができたなら。その時、あの竜はどうなるのかしら? あのまま死んでしまうのかしら、それとも……?)
竜の様子を注意深く観察しようと改めて思ったアンジェリカに、ダグラスは溜息混じりに言った。
「メイナード様も、災難だったな。竜の呪いか……。もう魔物と戦うどころか、あとどれほど命が持つかもわからないと君は言っていたね」
「今から思えば、触らぬ神に祟りなし、だったのかもしれませんわね。下手に竜に手を出していなければ、あんな瘴気だって湧き出してはいなかったかもしれませんし」
自らもメイナードと一緒に竜と戦ったはずのアンジェリカからの辛辣な言葉に、さすがにダグラスも苦笑した。
「……まあ、とにかくあの森に行って状況を確認しよう。君の力を頼りにしているよ」
「ええ、お任せください」
アンジェリカはふっと口角を上げると、ダグラスに絡めた腕に力を込めた。




