イアンの推察
フィリアはイアンの後ろについて研究所の入口を潜ると、足を踏み入れた研究室を見回した。
(ああ、久し振りだわ)
書棚に囲まれ、机が整然と並ぶ見慣れた研究室の景色は、フィリアにとって落ち着くものだった。部屋を満たす古い本の匂いを懐かしく感じながら、フィリアはすうっと息を吸い込んだ。
机に鞄を下ろしたイアンを見て、フィリアは頭を下げた。
「すっかりお言葉に甘えてしまいましたが、鞄を持ってくださってありがとうございました」
「いえ、構いませんよ、フィリア。……さて、本題ですが、まずは私からお話ししても?」
「はい。お願いします、イアン様」
イアンは椅子に腰掛けると、机を挟んだ向かいにある椅子をフィリアに勧めた。フィリアが椅子に座ると、イアンは両手を机の上で組んでからゆっくりと口を開いた。
「手紙でお知らせした内容と重なりますが、メイナード様が倒したと思われていたあの竜は、恐らく生きています」
「……あのような強い呪いは、魔物の命と引き換えになされるものではないのでしょうか?」
「通常はそうなのだと思います。まあ、魔物による呪いというもの自体が、かなり稀なケースにはなりますけれどね」
フィリアがイアンの言葉に困惑した表情で続けた。
「けれど、今回の竜の呪いは違うようだと、そういうことなのですね」
「ええ。前にフィリアの元を訪ねてから、私はその足で竜が出た森へと向かったのですが、倒れたはずの竜は、地面の上で蹲るような格好になりながらも、朽ちる様子もなく、まるで静かに眠っているようでした」
「……竜が絶命していなかったなら、誰か竜にとどめを刺さなかったのでしょうか」
イアンはフィリアをじっと見つめた。
「いい質問ですね、フィリア。眠っているように見えた竜ですが、自らに特殊な魔法でも掛けているのか、攻撃魔法がどれも効かないのです。硬化した鱗が剣も弾いてしまうため、手の打ちようがないというのが現状です」
「そうなのですね……」
フィリアはしばらく思案気に口を噤んでから、再び口を開いた。
「生きながら竜がメイナード様に呪いを掛けたとすると、呪いを解くことは、より難しくなるのでしょうか。呪いを掛けた主がまだ生きている場合について、イアン様は何かご存知ですか?」
イアンは彼女の言葉に頷いた。
「まあ、厄介だとは言えるでしょうね。あれだけの強力な呪いを掛けた主が生きていれば、呪詛を破ることもさらに難しくなるとは考えられます。冷静に聞いていただきたいのですが……」
そう言って、イアンは彼の机の引き出しから一冊の古びた本を取り出すと、栞を挟んであったページを開いてフィリアに差し出した。
「あの呪詛は、呪いを受けた者から生命力を吸い取って、再び目を覚ますための力を得る目的で掛けられた可能性が高そうです」
その本は、竜に特化したものではなく、一般的な呪いについて記されたものだったけれど、開かれたページに視線を落としたフィリアの顔が、すうっと青ざめた。
「ということは、あの呪いを解けないまま放っておいたとしたら、メイナード様のお命はいずれ……」
最後は震えそうな声でそう呟いたフィリアの肩を、イアンは励ますように叩いた。
「まだ、そうと決まった訳ではありませんし、それに、呪いを解いてしまえば済む話ですからね。ただ、もう一つ厄介な事象が発生していましてね」
「厄介な事象、ですか?」
「ええ。竜が倒れた後、一時は安全になったと思われていたあの森に近い渓谷の辺りから、瘴気が漂い始めているのです。あの場に湧き出て来た有毒な空気のせいで、元々あの辺りに生息していたと思われる動物や魔物たちにも影響が出ているようでしてね。命を落として倒れたものもいれば、逆に凶暴化して力を増し、姿形まで毒々しく変化したものも見られています」
「それは、竜にも何か関係があるのでしょうか……」
フィリアの言葉に、イアンは険しい表情で続けた。
「瘴気の影響が現れ始めた時期が、ちょうど竜が倒れた時期とほぼ重なることもあり、これまでは竜の存在が何らかの形であの瘴気を防いでいたのではないかと、そのような見解も出始めています。同時に、あの有毒な空気が国に広がらないかを懸念する声も上がっています」
「……では、メイナード様に呪いを掛けたあの竜が、この国にとって必要な存在である可能性があると、そういうことなのでしょうか」
悲鳴に近い声を上げたフィリアを落ち着かせるように、イアンはゆっくりと続けた。
「貴女は、メイナード様を助けることだけに集中なさい。誰が何と言おうと、私はそれが最善だと考えています。……それから、私にはもう一つ気になっていることがあるのです」
イアンは机に両肘をついて両手を組むと、思案気にその上に顎を乗せた。
「竜というのは、聖なる存在だったと記している太古の書物もあります」
フィリアも彼の言葉に頷いた。
「ええ、私も、イアン様が仰っているのと同様の記述を、ある古い文献の、イアン様が栞を挟んでくださった箇所の近くで見掛けました。竜は魔物ではなかったのかと、私も不思議に思って引っ掛かってはいたのです。まるで正反対ですからね」
「……これは、私の仮説なのですが」
イアンは一度視線を伏せた。
「竜は、あの渓谷から森にかけて充満し始めた瘴気を、確かに何らかの形で防いでいたのではないかと考えています」
「イアン様まで、そのように考えていらっしゃるなんて……。では、メイナード様に呪いを掛けたあの竜は、この国のためには必要だと?」
悲痛な表情でイアンを見つめたフィリアに、彼は続けた。
「ただ、あの竜が、遥か昔には聖なる存在であったということも、また真実ではないかと思うのです。湧き上がってくる瘴気から静かにこの国を守り続けていたのではないかと、私にはそんな気がしました。瘴気を長い間浴び続けたせいなのか、いつしか魔物のような姿への変貌が見られたとはいえ、恐らく、その本質は清らかな存在なのではないでしょうか」
「清らかな存在、ですか……」
彼の言葉に、フィリアは戸惑いを浮かべていた。
「そのような仮定を立ててから、書庫で見付けた過去の文献を遡ってみると、いくつか私の仮説に合致するような記載が見付かりました」
「竜は魔物ではなく、確かに聖なる存在だったということでしょうか?」
「ええ、そのように読み取れました。まあ、古い書物に残されていたことですし確実とは言い切れませんが、太古の昔には、竜と、竜を崇める人間が友好的に触れ合っていたことを示す描写も残されていました。……ただ、私の仮説が正しかったとしても、それが直接呪いを解く鍵にはならないというのが問題なのですがね」
イアンは微かに苦笑した。
「竜を本来の聖なる存在に戻す方法が見付かれば、もしかしたら、呪いを解くことにも繋がってくるのかもしれませんが……」
彼は軽く息を吐くと、改めてフィリアを見つめた。
「さて、フィリア。次は貴女の番です。メイナード様の状況を教えていただけますか? それに、何か私に聞きたいこともあるということでしたね」
「はい、イアン様」
フィリアは、メイナードの身体に回復の兆しが見られていること、呪詛の悪化は止まり、一見改善に向かっているようにも見えるが、呪いが解ける気配はないことなどを順を追って話した。イアンは頷きながら彼女の話を聞いていた。
「それから……」
フィリアは、イアンが運んでくれた鞄の中から、古い文献に混じって入れていた一冊のノートを取り出した。
「メイナード様の身体に現れている呪詛なのですが、私の目の前で、まるで生きているように形を変えたのです。そこで浮かび上がってきた文字らしきものには、それまでの呪詛とは趣の異なる文字もいくつか含まれていました」
彼女は、それらの文字を書き写したノートのページを開いてイアンに見せた。
「これらの文字が何を意味するのかを調べたいと思っています。このうちの幾つかは、貸していただいた古い文献にも記されてはいたのですが、詳しいことはわかりませんでした。イアン様は何かご存知ありませんか?」
イアンはしげしげとフィリアの記した文字を眺めると、ほうと小さく呟いた。
「……これは、昔の神官たちが使っていた、神に祈りを捧げる時の言葉の一部のようですね。聖なる言葉とでも呼べるでしょうか」
「呪詛とは、真逆の内容ですね。これも、本来は竜が聖なる存在だったということに関係しているのでしょうか……」
思案気に呟いたフィリアに、イアンは続けた。
「私にもこの文字の並びが意味する内容はわかりませんが、これを読み解くというのは、良いアプローチのように思えます」
フィリアはほっとしたように頷いた。
「お借りしていた文献から判断するに、過去の竜の呪いは、最終的には聖女の魔法で解けたようでした。メイナード様の呪いは、聖女の冠を拝する姉でも解けなかったというのが気掛かりではありますが、もしこの文字を読み解いて、聖女の魔法のうち何が竜の呪いを解いたかに繋がる手掛かりが掴めたなら、解決に近付くような気がするのです」
「なるほど。ここに並ぶ本のうち、昔の神官による祈りの言葉を扱っているものは、正面右の書棚の上の段に並んでいます。必要なものを、好きに選んで持って行って構いませんよ」
「ありがとうございます、イアン様。お借りできると助かります」
フィリアが微笑むと、イアンも彼女に笑みを返した。
「少なくとも、メイナード様のお身体に回復の兆候が見られたというのは素晴らしいことですね。……何か、メイナード様にフィリアの魔法を掛けたのですか?」
彼の言葉にこくりと頷くと、フィリアは続けた。
「私がメイナード様に掛けたのは、回復魔法です。お身体が弱っていらっしゃるご様子でしたので。ただ、私の魔力はごく弱いので、どの程度お役に立てたのかはわかりませんが」
「そうでしたか。それから、ほかに何か気付いたことはありましたか? メイナード様に関することでも、古い文献から読み取れたことでも、何でも構いませんが」
「そうですね……」
フィリアは、ふとルディの言葉を思い出していた。
「私ではなく、これは幼い義弟が気付いたことなのですが。……単なる物語に過ぎないのかもしれませんが、イアン様が貸してくださった本の挿絵を見ながら、彼が言っていたのです。呪いを解く鍵として古い本に記されていたのは、誰もが知る御伽噺と同じように、真実の愛や口付けのようだったと」
「ほう。それはなかなか面白い発見ですね」
イアンは楽しげに口角を上げた。
「子供の目は純粋ですね。大人なら、どうせ作り話だろうと見逃してしまうようなところまで拾い上げるのですから」
「そうですね。竜の呪いを解くためには、魔法などの要素も必要になるように思われますが、興味深い記載だと思いました」
「……私は、貴女の義弟が気付いたことは、ある意味で正しいのではないかと思いますよ。少なくとも、フィリア、貴女の呪いは解けたように見えますから」
「私の、呪いですか?」
驚いたように瞳を瞬いたフィリアに、イアンは頷いた。
「ええ、そうです」
イアンはじっとフィリアを見つめた。
「貴女は聡明で心根の優しい努力家なのに、いつもその瞳を隠すようにして、所在なさげに俯いていましたね。貴女はもっと自信を持って輝けるはずなのに、私には、まるで自分で自分に呪いを掛けてしまっているように見えていました」
(私が私に、呪いを……?)
フィリアは、家でも存在を顧みられることなく、蔑まれながら息を潜めるように過ごしてきた、今までの長い時間を思い出していた。
聖女の姉しか見ようとしない両親と、出来損ないだと妹の自分を見下し毛嫌いしていた姉の間で、できる限り自分の存在が邪魔にならないように、目立たないようにと、気味悪がられるオッドアイを隠しながら密やかに生活していた時間は、自分を受け入れることすらも難しい、息苦しく辛いものだった。
彼女を見つめるイアンの瞳に、労わるような優しい色が宿った。
「それも今までの境遇に端を発していたのかもしれませんが、もっと自分を認めて愛せるようになれば、また何かが変わってくるのではないかと、私はずっとそう思っていたのです。余計なお世話かもしれませんがね」
イアンは彼女に微笑み掛けた。
「貴女も知っての通り、心の持ちようによって呪いの進行が変わってくるのと同様に、心の在り方は魔力などの力にも影響を与えますから。……今の貴女は、変わりましたね」
フィリアは、はっとしてイアンを見つめ返した。
彼女がメイナードの側で過ごすようになってからというもの、彼から認められ、温かな愛情を溢れんばかりに注がれて、いつの間にか、自分のことが嫌ではなくなり、顔を上げて前を向くことができるようになっていたことに気付いたのだった。
(私の方が、メイナード様に救われていたのだわ)
イアンは、ほんのりと頬を染めたフィリアの左手薬指に輝く金の指輪を見つめてから、彼女の顔に視線を戻して朗らかに笑った。
「申し遅れましたが、メイナード様とのご結婚、おめでとうございます。以前は控えめに伏せられていた貴女の瞳は、今は強さを秘めた輝きを放っていますよ。きっと、メイナード様に大切に愛されているのでしょうね」
「はい。……ありがとうございます、イアン様」
「まあ、姫の呪いは、愛のある王子の口付けで解けると、そう相場が決まっていますから。今度は、貴女がメイナード様の呪いを解く番ですね」
フィリアに向かって小さなウインクを飛ばしたイアンに、彼女は力強く頷いた。
「はい、イアン様」
「きっと貴女にならできますよ、フィリア」
イアンはフィリアに向かって、温かくその瞳を細めた。




