澄んだ瞳
フィリアは自分の部屋に戻ると、古い資料の中から数冊の文献を選び出し、両手に抱えてメイナードの部屋へと向かった。
メイナードの部屋に入ったフィリアが、手にしていた古い文献をテーブルの上に重ねていると、ルディは興味津々といった様子で、早速彼女の横に近付いて来た。メイナードは、温かな笑みを浮かべながらルディに呼び掛けた。
「それは、フィリアの大切な仕事の資料だよ。彼女の邪魔はしないようにな、ルディ」
「わかってるよ、兄さん。僕だって、フィリア姉さんに早く兄さんの呪いを解く方法を見付けて欲しいからね」
そう言いながらも、好奇心を抑えられない様子で、見たこともないような古い文献に瞳を輝かせているルディの姿に、フィリアはにっこりと笑い掛けた。
「ルディは、本が好きなの?」
「うん! 新しいことを学ぶのも好きだよ」
二人の会話に耳を傾けていたメイナードが、フィリアに向かって微笑んだ。
「ルディは聡いよ。興味の幅も広いし、覚えもいいんだ。よく物事を見ていて、時々僕も驚かされるようなことを言うよ。……少し前に、彼の家庭教師が職を辞してしまったが、できることならもっと彼に学ばせてやりたかったのだがね」
「サムからも、ちょうどそのお話を聞きました。ルディのことを、とても賢いと褒めていましたよ」
少し気恥ずかしそうに鼻の下を擦ったルディは、テーブルの脇にある椅子の一つに腰掛けながらフィリアに尋ねた。
「邪魔しないようにするから、フィリア姉さんが本を読んでるのをここから見ていてもいいかな? もし気が散るようだったら、やめておくよ」
「ふふ、大丈夫よ。古代語で書かれた文献が大半だから、見てもよくわからないかもしれないけれど……」
「うん、構わないよ」
すっかりわだかまりも解けてにこやかに話す二人の姿を、メイナードは嬉しそうに見つめていた。
ルディは、メイナードの視線に気付いて口を開いた。
「ちゃんと、フィリア姉さんの邪魔はしないようにするから、兄さんはしっかり休んでてね?」
「ああ、わかったよ」
ベッドに身体を横たえたメイナードが瞳を閉じるのを見届けてから、フィリアは手元の資料の中から一冊の本を取り出した。
それは、イアンが持って来た文献の中でも特に古いものの一つで、古代語よりもさらに時代を遡った文字で記載されているページが含まれていた。
ぱらぱらとフィリアがページを捲っていると、メイナードの首元に現れていた文字のうち幾つかの文字の記載があった。けれど、その文字が意味するところまでは読み取れなかった。
他にフィリアが選んで持って来た古い資料からも、今のところ満足な情報を得られてはいなかった。
(やっぱり、一度研究所に行って、あの文字に関する書物を改めて探した方がよさそうね。イアン様にも近いうちにご相談したいし)
メイナードの身体に回復の兆しが見られたこと、呪いの悪化はいったんは食い止められたように見えること、そして、まだ呪いを解く方法は見付かってはいないものの、呪詛の文字自体を読み解こうと考えていることなど、フィリアは今までの経過をイアンに報告して、彼の助言も聞きたいと思っていた。
フィリアは、テーブルの向かいに座るルディに視線を移した。
粛々と調べものを続けるフィリアと、彼女が手元に広げている資料を、ルディは飽きずに眺めている様子ではあったけれど、彼女はいったん手を止めると思案気にルディに尋ねた。
「ごめんなさいね、ルディ。つまらなくはないかしら?」
「ううん、そんなことはないよ。兄さんの呪いを解く方法が見付かるといいなって、そうお祈りしながら見てたんだ」
兄を心配するルディのひたむきな思いに、フィリアはきゅっと胸が締め付けられるような思いがした。ルディはフィリアを見て、嬉しそうに笑った。
「こうしてフィリア姉さんを見ていると、心から兄さんのことを想って、兄さんのために真剣に調べてくれてるんだなってことがよくわかるよ。フィリア姉さんが兄さんと結婚して、僕たちの家族になってくれて、本当によかった」
ベッドに横たわるメイナードに、ルディはちらりと視線を向けた。穏やかな表情で瞳を閉じた彼からは、微かな寝息が聞こえ始めていた。
ルディは少し口を噤んでから、申し訳なさそうに俯いて、メイナードを起こさないようにさらに落とした声で続けた。
「フィリア姉さんは、あの兄さんの前の婚約者とは、姉妹とはいっても全然違ったのに。初めて会った時には、あんなに酷いことを言っちゃって、ごめんなさい」
改めて彼女に謝ったルディに向かって、フィリアは微笑むと首を横に振った。
「何も気にすることはないわ、ルディ」
ルディはふっと遠い瞳をしてぽつりぽつりと続けた。
「兄さんがあんな身体になるまでは、たくさんの人たちが、兄さんを英雄だって祭り上げて、兄さんの周りに集まっていたのに。大怪我をして、呪いに掛かって、もう魔物と戦えないって噂が広まったら、ほとんど皆、兄さんに背を向けていなくなったんだ。……兄さんの本質は、何も変わっていないのにね」
ルディは小さな手をぎゅっと握り締めると、ベッドの上のメイナードを見つめた。
「優しくて、気高くて、強くて、誰より格好いい兄さんなのに。僕、皆が急に掌を返して離れていくのが、凄く悔しかったんだ」
フィリアは、傷付いたルディの心を思って、そっと彼の頭を優しく撫でた。
「辛かったわね、ルディ。よく我慢していたわね」
「……言い訳にはならないけれど、そんな燻っていた気持ちも、あの時フィリア姉さんにぶつけちゃったんだ。前の婚約者の代わりに来ただけで、きっとすぐにいなくなっちゃうんだろうと思って。でも、フィリア姉さんは他の人たちとは違ったね」
ルディはじっとフィリアを見つめた。
「あれから、フィリア姉さんが兄さんと話すところを、何度かそっと陰から見ていたんだ。フィリア姉さんには、兄さんの本質が見えているみたいだった。やつれて呪いに蝕まれている兄さんでも、以前の兄さんと何も変わらないように接してくれた。さりげなく、いつも優しい気遣いもしてくれたし。それを見て、僕、安心したんだ」
彼はにこっとフィリアに笑い掛けた。
「フィリア姉さんの目には、ちゃんと兄さんの真実の姿が映っているんだね」
フィリアは少し躊躇ってからルディに尋ねた。
「……私の目、左右の色が違うでしょう。見ていて気持ちが悪くはないかしら?」
「ううん、僕はそうは思わないよ。僕、フィリア姉さんの瞳、好きだもの」
ルディはフィリアの瞳を覗き込むように見上げた。
「それにね、時々、左の目がきらきらするの。とっても綺麗だよ」
「えっ?」
メイナードに言われたのと同じ言葉を耳にして、フィリアは目を瞬いた。
「フィリア姉さんの目は澄んでいるから、他の人には見えないものまでお見通しなんじゃないかって、何だかそんな気がするんだ」
フィリアを見つめて、ルディはふふっと笑った。
「僕が兄さんの元から去って行った人たちに怒っていた時、兄さんは僕に言ったんだ。誰もが皆、それぞれの色眼鏡を掛けている。皆が同じものを見ているようで、それぞれの考え方を通してしか物事を見ることはできないんだから、それに腹を立てても仕方ないんだって。……でもね、きっと、フィリア姉さんの目は、そんな歪んだ色眼鏡なしに、他の人なら見えない本当のことまで見えているんじゃないかな」
「そんなことを言われたのは、初めてよ……」
子供の純粋な感情から発せられた、けれど年の割には随分大人びて聞こえる言葉に、フィリアは目を瞠っていた。
「……だって、今の兄さんだって、フィリア姉さんには誰より格好良く見えているでしょう?」
フィリアはルディの言葉にくすりと笑みを零すと、大きく頷いた。
「ええ、その通りよ。ルディこそ、私の考えをお見通しのようね」
フィリアの返答に、今度はルディも年相応のあどけない笑みを浮かべていた。
「あ、そうだわ……」
フィリアは、手元に開いていた書物のうち、挿絵の多い一冊を手に取ると、くるりとルディの方向に向けた。
「この本には絵が多くて、古い物語も幾つか載っているの。この大昔の文字は、私にも全部はわからないのだけれど、絵本のように絵だけを追っても面白いかもしれないわ」
「えっ、いいの? こんなに貴重な本を見せてもらっても」
瞳を輝かせたルディに、フィリアは頷いた。
「ええ。ルディなら大事に見てくれると思うから」
「うん。絶対に破いたりしないように、そうっと気を付けて読むね。……僕にも、何か兄さんを助ける手掛かりが見付けられたらいいんだけどなあ」
「そうね、私もそう思うわ」
兄想いの優しいルディの言葉にフィリアが微笑んだ時、部屋のドアが控えめにノックされた。フィリアが返事をすると、ドアの向こう側からサムの顔が覗いた。
「フィリア様に、こちらのお手紙が来ています。イアン様からです」
「まあ、イアン様から? ……私もちょうど、イアン様にご連絡しようと思っていたところだったのです」
(竜に関して、何かわかったのかしら?)
メイナードが倒した竜を研究対象にすると言っていたイアンの言葉を思い返しながら、サムから手紙を受け取ったフィリアは、期待と緊張の混ざった面持ちでその封を切った。




