フィリアの左目
(……これは、何かしら?)
フィリアがよく見ると、メイナードの首元で呪いの紋が一つずつ揺らぐように動いていた。以前に触れた時にも、それは微かに動いているようにフィリアは感じていたけれど、今は彼女の前で、それぞれの紋がゆっくりと形を変化させているようだった。
小さく息を呑んだフィリアが、表情を変えて首に目を凝らしていることに気付いたメイナードは、彼女に尋ねた。
「どうしたんだい、フィリア?」
「メイナード様。お首に現れている呪いの紋が、少しずつ動いて形を変えているようなのです」
「……そうか」
メイナードは、自らの首元に指先で触れた。
「これは、まるで生きているような感覚があるんだ。呪いというものがいったい何なのか、僕には詳しくはわからないが、自らの意思を持って僕の身体に巣食っているように感じられる」
(メイナード様も、そのように思っていらしたのね)
メイナードは指を首から離すと、フィリアを見つめた。
「この部分は、鏡で見ない限りは死角になるから、自分の目で見ることはあまりなかった。朝起きた時に、指先でどの程度悪化したのかを確認するくらいだったんだ。だが、ちょうど今のような、何かが蠢いているような違和感は、痛みの他に時々感じていた」
「そうだったのですね……」
フィリアは、目の前の呪詛に不思議な感覚を覚えていた。メイナードの言葉の通り、彼の首に巻き付くように現れた呪いは、それ自体がどこか生きているように思われてはいた。
けれど、彼を苦しめているはずの呪詛が、まるでそれ自体の一部が苦痛にのたうち回っているかのように、悲鳴を上げて助けを求める苦しげな色が重なって見えたように、フィリアには感じられたのだった。
(何というか……メイナード様を苦しめているこの呪いには、彼を蝕もうとしている純粋な暗い力のほかに、何か別のものも混じっているような、そんな気がするわ)
メイナードの首元に視線を落としていたフィリアの瞳を、彼が静かに覗き込んでいることに気付いて、フィリアは小さく首を傾げた。
「メイナード様?」
「君の、その左目……」
メイナードは、フィリアの左目にかかっていた長い前髪をさらりと持ち上げた。
彼のアメジストのように澄んだ両目でじっと見つめられ、頬に血が上るのを感じていたフィリアの前で、彼はその瞳をさらに輝かせていた。
「今、君の左目が淡い光を帯びていたように見えたんだ」
「私の、左目がですか?」
メイナードの意外な言葉に、フィリアは瞳を瞬いた。両目ともに碧眼をした両親とも姉とも違う、片側だけ緑がかった自分の左目に、フィリアはずっと劣等感を抱えて隠すように過ごして来たし、そのような言葉を言われたこともなかった。
「私も、自分の目は鏡で見ない限りは見えないので、よくはわからないのですが。そのように仰った方は、メイナード様が初めてです」
「前にも、君といる時に、君の左目が温かく輝いていたように感じたことがあったのだが、光の加減かと思っていた。でも、薄暗いこの部屋でもそう見えたんだ」
「そうですか、なぜなのでしょうね……?」
戸惑い気味にそう答え、隠し慣れていた左目を見つめられることに気恥ずかしさを覚えていたフィリアの気持ちを汲んだかのように、メイナードはゆっくりと口を開いた。
「フィリア。前にも言ったが、君のその左目もとても美しいと僕は思うよ。まるで、深い森の中に佇む静謐な湖のような色合いで、いつまででも眺めていたくなる」
瞳を愛おしげに細めたメイナードの言葉に嘘がないことは、フィリアにも伝わって来た。ますます頬を染めたフィリアの頭を、彼は優しく撫でた。
「……そろそろ、休もうか?」
「あの、あともう少しだけ確認させていただいても?」
「ああ、もちろん構わないよ」
フィリアはメイナードの首元にそっと触れると、たった今目の前で形を変えていく呪詛に混ざるようにして浮かび上がってきた、他の呪いの文字とは大分趣の異なる文字の一つに顔を近付けて眺めた。
(ああ、この字には、見覚えがあるわ)
何かに気付いた様子のフィリアに、メイナードは尋ねた。
「何か、気になったことでも?」
「はい。今までは、竜の呪いというところに焦点を当てて、その解き方を中心に調べていましたが、呪詛も一種の文字の連なりです。これらはどれも見たことのない文字のようだと思っていましたが、ちょうど今形を変えて現れたように見えるこの文字は、以前に古い書物で見た記憶があります」
フィリアは、その文字の部分にそっと触れてから続けた。
「これは、古代語と呼ばれるよりも、さらに古い時代に使われていた文字だと思いますが、これが表す内容を読み解けるかを調べてみたいと思います。直接呪いを解くことに繋がるかはわかりませんが、何かしらの手掛かりが得られるかもしれません」
「ありがとう、フィリア。頼りにしているよ」
穏やかな笑みを浮かべたメイナードを、フィリアは温かな瞳で見つめた。
「メイナード様、お疲れのところ、たくさんお時間をいただいてしまいましたね。では、私はこれで……」
彼に向かって微笑み掛けてから、彼に背を向けてベッドから出ようとしたフィリアのことを、メイナードがそっと優しく後ろから抱きすくめた。
「……!?」
メイナードの大きな身体にすっぽりと包まれるような形になって、フィリアは息が止まりそうになった。
「……このまま僕と一緒に休むのは、嫌かな?」
緊張の滲む、少し掠れたメイナードの声が耳元で響いて、フィリアは真っ赤な顔でふるふると首を横に振った。
「い、いえ……!」
頭が真っ白になりそうになりながらそう答えたフィリアは、メイナードがほっとしたように笑う気配を背後から感じた。そろそろと彼を振り返って、その胸の中に収まったフィリアのことを、彼は大切そうに抱き締めた。
「フィリア。君に触れていると、何より癒されるよ」
メイナードはフィリアの額に優しくキスを落とすと、彼女を再び腕の中に包み込んだ。
「おやすみ、フィリア」
「お、おやすみなさい、メイナード様……」
もう一度フィリアを見つめてから、安心したように、幸せそうに閉じられたメイナードの瞳を見ながら、彼女は自分の心臓が信じられないような音を立てるのを感じていた。
(メイナード様、私に甘過ぎるような……? これでは、私の心臓の方が持たない気がするわ……)
呪詛に蝕まれてやつれてはいても、それでもフィリアから見たメイナードはとても美しかった。
彼の整った顔と長い睫毛を間近から見上げて、フィリアは跳ねる胸を落ち着かせるように静かに深呼吸をしてから、彼の体温に包まれるようにして、そっとその瞳を閉じた。




