姉からの手紙
自室に戻ったフィリアは、腕いっぱいに抱えていた資料をテーブルに下ろすと、その横の椅子にふらふらと腰を下ろした。
フィリアは、メイナードの唇が触れた右手の甲を、そっと左手で包み込んだ。彼の柔らかな唇の感触を思い出すだけで、フィリアは頬に血が上り、くらくらと眩暈がするようだった。
(メイナード様に急遽姉の代わりに嫁ぐことになったとはいえ、いつか、彼に愛していただける日が来たらいいなと思ってはいたけれど……)
フィリアは、彼の嬉しそうな笑顔を思い返しながら、ぼんやりと夕陽に染まる窓の外を見つめた。
(まだ彼のお屋敷に来たばかりだというのに、メイナード様、想像以上に私にお優しいのだもの。何だか、勘違いしてしまいそうだわ。うっかりご迷惑をお掛けしないようにしなくっちゃ)
夢見心地でいた自分を現実に引き戻すように、フィリアは両頬を両手で軽く叩くと、まだ目を通していない資料の山を見つめた。
気持ちを新たにして、フィリアは山の一番上にあった書物に手を伸ばすと、イアンが挟んでくれた栞が覗いているページを開いた。
「あら、これは……」
フィリアの表情がみるみるうちに引き締まった。そこには、まさに彼女が探していた、竜による呪いを解くことに関する記載があったからだった。
真剣な表情で、フィリアは手元の文献を慎重に読み進めていった。
途中でサムが夕食の声掛けをしてくれたけれど、フィリアがメイナードの呪詛を解くために懸命に書物に向き合っている様子を見て、彼女のために食べやすい軽食を用意して部屋に運んでくれた。
フィリアはサムにお礼を言って、引き続き文書に目を走らせた。
一通り関連する記述に目を通し終えて、彼女は落胆の溜息を吐いた。なぜなら、そこには、竜によって掛けられた呪いが聖女の魔法により解かれたことは書かれていたものの、それ以上の具体的で有用な情報は得られなかったからだった。
(聖女と呼ばれるほど癒しの魔法に優れ、魔力の高いお姉様でも、メイナード様のあの呪詛は解けなかったのよね……)
フィリアには、竜の呪いを解く鍵は、たった今目にしたばかりの文献にも残されていたように、やはり聖女の力にあるように感じられていた。
にもかかわらず、メイナードの呪詛は、聖女と認められて、高度な魔法を使い慣れている姉にも解けなかった呪いだということが、彼女の胸を重くしていた。
(だとすると、いったいどうしたらいいのかしら……?)
フィリアは、姉のアンジェリカと同じく、回復魔法をはじめとして、防御や身体強化、解毒や浄化、さらには眠りや覚醒といった、アーチヴァル伯爵家の血筋に伝わる魔法は一応一通り学んではいた。ただ、その魔力は姉とは雲泥の差で、非常に弱いものだったために、取り立てて光が当たる機会はなかったのだ。
姉よりも力の劣る同種の魔法で、メイナードに掛けられた呪いを解くことができるとも考えづらかったけれど、フィリアは自分を奮い立たせるように、その手をぎゅっと握り締めた。
「絶対にメイナード様をお助けするのだから、私がここで途方に暮れている訳にはいかないわ。それに……」
聖女が使うとされる魔法の中でも、何が呪いに有効かといったはっきりとした解呪の手掛かりが見付かれば、改めて姉に力を貸してくれるよう依頼できないだろうかともフィリアは考えていた。
自己中心的で、他人の感情をあまり省みることのない姉ではあったけれど、同時に非常に勝ち気でプライドが高かった。聖女である自分に解けない呪いがあることは、きっと姉にとって屈辱的だったのではないかと、そして、難解な竜の呪いを解いたという名声は、名誉欲の強い彼女が切望するものなのではないかと、フィリアはそう予想していたのだ。
「まだ、目を通せていない書物もたくさん残っているし」
フィリアは自らに言い聞かせるようにそう呟くと、未読の資料の山に手を伸ばした。
引き続き、端から文献を読んでいたフィリアの耳に、ドアをノックする音が響いた。
彼女がドアを開けると、そこには少し困惑した表情のサムがいた。
「どうしたのですか、サム?」
「フィリア様に、お手紙が届いています」
サムは手にしていた一通の手紙をフィリアに差し出した。見覚えのある筆致で書かれた封筒を裏返すと、そこには差出人として姉の名前が記されていた。
「お姉様から? どんな用件かしら」
昨日話したばかりの姉からの手紙を受け取って、フィリアは不思議そうに首を傾げると、その封を切った。
(もしかして、何かメイナード様の呪いを解く手掛かりが見付かったとか……?)
少しでもメイナードの助けになる中身であってくれれば何だって構わないと、そう祈るような気持ちで便箋を開いたフィリアは、姉の字に目を走らせると小さく肩を落とした。
そこには、新たに魔術師団長に就任したダグラスとアンジェリカが婚約するためには、平民たちの不興を買わないためにも、彼女の元婚約者となったメイナードとフィリアがすぐにでも婚姻を結ぶ必要があるのだと、そしてこれは王の意向でもあるのだからと、可能な限り早くメイナードと式を挙げて入籍するようフィリアに促す、短い言葉が淡々と綴られていた。
(ご自分の都合しか考えない、お姉様らしい言葉ではあるけれど……)
フィリアが微かに苦笑していると、サムが不安気にフィリアに尋ねた。
「あの、差し支えなければ、どのような内容だったか教えていただいても?」
「ええ」
フィリアは頷くと、手にした便箋をサムに手渡しながら申し訳なさそうに彼を見つめた。
「身勝手な姉で、すみません。メイナード様が立ち上がることも難しいお身体でいらっしゃるというのに、すぐに挙式をなどと……」
サムはアンジェリカの書いた文面に視線を落としてから、遠慮がちにフィリアに尋ねた。
「フィリア様は、今の旦那様のお身体の状態では式を挙げて結婚なさるのがお嫌だと、そういう訳ではないのでしょうか?」
フィリアは慌てて首を横に振った。
「いえ、私はメイナード様に嫁ぐためにここにまいりましたし、結婚してお側にいられるのなら嬉しいと、そう思っていますから。メイナード様のご負担にならないなら、それにすぐに私と挙式していただくことがお嫌でなければ、私はいつでも構いません」
恥ずかしそうに頬を染めながらそう答えたフィリアに向かって、サムは明るく笑った。
「それなら、後で旦那様にご相談してみます。むしろ、フィリア様と早くにご結婚なさる方が、旦那様を元気付けることに繋がるのではないかと、俺はそんな気がしますので」
「そうだといいのですが……」
さらに顔を赤くした彼女に、サムは嬉しそうに言った。
「もしそうと決まれば、式はどうにでもできると思いますので、どうぞ俺にお任せください。善は急げとも言いますし、ね」
顔中でくしゃりと愛嬌のある笑みを浮かべたサムが、軽い足取りで部屋を出て行く様子を、フィリアは抑え切れず胸を跳ねさせながら見送っていた。




