098 迷惑な来訪者#
from a viewpoint of エヴァ
待って。なんで膝に乗せられてるの、私。
気づいたらこの状態だった。腰と首のうしろにある手のせいで抜け出せない。
魔力供給がすぐにでも必要なのは分かってる。でもだからって、血を流すよりも精神ショックが大きい方法をとる必要性は分からないのよ……!
すぐ目の前にある深く濃い青の瞳に、心臓がちぎれそう――。
「――っま」
まって、と叫ぼうと思ったとき。
近付いてきた顔が、ぴたりと動きを止めた。
「……嘘だろ」
強ばった声で、それだけ言って。
私を椅子に座り直させると、ルシファーは席を立った。
「? ルシファー?」
バクバクした胸を押さえて、ホッとしたような、とまどうような気持ちでその姿を追う。
なに? どうしたの?
「エヴァ、そこから動くな。絶対、俺の後ろにいろよ」
「えっ?」
緊張した声色に、何事かとルシファーの向く方を見た。
ドアの向こうに、近付いてくる大きな気配がひとつ。
視線の先でドアノブがガチャリと音を立てて、ゆっくり引かれた。
開いた入口からは、背の高い女の人がひとり現れた。
「――こんにちは、お邪魔するわね」
妖艶な弧を描いた赤い唇。人を惑わすような、甘い声。
重苦しく全身を覆う黒いロングコートに、すき間から見えるタイトなドレスをまとったのは、艶やかな若い女の人だった。
かかとの高い靴を響かせながら、店の中に入ってくる。
その内にある魔力の激しさをみれば、魔女だということは一目瞭然だった。
「……ホテルにいなければここだって聞いてたのよ。フェル、久しぶりね。ようやく会えてうれしいわ」
女の人は熱のこもった目でルシファーを見つめると、ほぅ、とため息をもらした。
ウェーブを描いた長い黒髪に、黒い瞳。その顔立ちから誰なのか、尋ねずとも分かる気がしたけれど。
次のルシファーの一言で、はっきりした。
「どうして、姉さんがここに……?」
やっぱり。どう見ても身内よね。
ルシファーを女性にすると、こんな感じのすごい美人になりそうだもの……。
「おつかいに決まってるじゃない。シュルガットがあなたにこれを送ろうとしてたから、奪い取って来たの」
お姉さんはそう言って、胸元から取り出した薄い紙のようなシートをヒラヒラさせた。おつかいって、奪い取るものだったかしら。
「全部教えてもらったわ……フェルのことは放っておけって母さんに言われて黙ってたけど……私ばかり蚊帳の外でなにも知らされてなかっただけみたい。失礼しちゃうわよね」
怒気が含まれた声色なのに、それでも楽しそうな口調が怖い。
綺麗すぎる顔立ちが、よりいっそうその怖さを引き立てていた。
「えーと……念のために聞くけど、シュガー兄さん、生きてる……?」
おそるおそる尋ねたルシファーに、女の人はにっこり笑って答えた。
「もちろんよ。いくら無能な弟だからって殺したりしないわ。禁忌だもの」
「じゃあもうひとつ聞くけど、今怒ってるのは母さんたちに対して? それとも……俺?」
「そうねぇ」
ルシファーが動くよりも、お姉さんのほうが速かった。
目視できない動きで、ルシファーの右腕がよく分からない方向にひねりあげられる。
「両方かしら」
涼しい顔で関節技らしきものをきめながら、お姉さんは言った。
「ちょ……っ待った。これ、ちょっと動いたら折れるヤツ……!」
「かわいいフェル……いっそ両手両足が折れて動けなければ家出なんてしなかったのかしら……それでも翼があるから結局は飛んでいってしまったのかしら。なんにせよ、発信器くらい体に埋め込んでおくのだったわ……そんな風に何度も反省したの」
「反省の方向性がおかしい!」
「シュルガットを刺して家出したって聞いたときは、感心したのよ。昔だったら、気の優しいあなたは兄弟を刺すなんてできなかった。成長したわね、フェル」
「そこを感慨深げに言わないでくれ……」
「そのまま立派な暗殺者として育ってくれれば言うことなかったのに……家業を継がないだなんて……私に断りもなく家出だなんて……姉さん、悲しくて……」
「ぐ……ちょい、待て。本当に折れるから、それ。力入れないで」
姉弟喧嘩……なのかしら。
ルシファーが家出して、きっとすごく心配していたから、怒ってる、のよね……?
ルシファーのお姉さんは、実の弟を身動きできない状態で押さえたまま、私に視線を移した。
ただならぬ殺気を感じて、びくりと身がすくむ。
「この子が、例の魔女……?」
冷えた声に、ルシファーが「待てよ」と焦りを帯びた声で牽制する。
「姉さん、エヴァは戦えないからな。なんにもするなよ」
「聞いてるわ。不死のくせに、魔力無しの人間どもと同程度のひ弱さなのですって? 本当に白くて弱々しい……フェルと真逆ね」
「ねえ」と、少し抑えたトーンで、話しかけられる。
「……はい」
「弟がどことも知れない魔女の使い魔になったと聞かされたときの、私のショックがあなたに分かる?」
「いや、聞かされたって……みんなが黙ってたのに、どうせ自分でシュガー兄さんを締め上げて吐かせたんだろ……」
「少し黙ってなさい、フェル」
ルシファーはいつの間にか反対の腕も掴まれていて、「ぐぇ」とうめき声をあげた。本気で痛そう。
「フェルの魔力は深淵の綺麗な黒だったのに……色が混ざってしまってるじゃない……かわいそうだと思わない? 不死の魔女さん」
そう問われて、二重の意味で気づいた。
私が不死の魔女だってこと、ルシファーの家族はもう知っているのね……
それに、大切な家族が誰かの所有物みたいにされたら、普通は怒るわよね。
「あの、謝っても仕方ないかもしれないけれど……勝手なことをして、本当にごめんなさい……」
元より罪悪感はあった。
だから、心から謝罪した。
「あなたが不死じゃなかったらこの場で八つ裂きにしてあげたのに。そうしたら、契約解除できたのに……残念」
「姉さん、やめろよ。エヴァは俺を助けるために仕方なく契約したんだ。エヴァがいなかったら俺は死んでたんだぞ」
「なに言ってるの。最初から関わらなければ、あなたがそんな目に遭うこともなかったのでしょう?」
「それも俺の意思だ。誰に言われたわけじゃない。俺がやりたくてやったことなんだから、俺以外を責めるのはおかしい」
「それでも腹は立つのよ、馬鹿ね」
そう言うと、お姉さんは愁いを含んだため息を吐いた。
「お婆さまが――フェルが嫁を見つけたって、言うのよ」
またその話なのね……どうしてそうなったのかしら。
私の心情と同じらしい、ルシファーが答える。
「いや、それは誤解だって……」
「それがこの子なんでしょう……? もう、色々言いたいことだらけなの。この怒りをどこにぶつけていいのか……!」
「分かった! 分かったから……全面的に俺が悪いってことでいいから! 頼むからここでは暴れないでくれ!」
精神が不安定になると、魔力も揺らぐ。
噴火前の火山のような雰囲気で震えるお姉さんを、ルシファーは必死になだめた。もしかして、いつもこんななのかしら。
「フェル」
「……な、なに」
「とりあえず、充電が必要だわ」
「いや……俺にもここ最近、人目を気にする神経が普通にできてだな――」
お姉さんはルシファーの腕を放すと、がっしりとその頭を抱え込んだ。
もともと長身だし、ハイヒールを履いているせいでルシファーより身長の高いお姉さんが彼の頭を抱えると、ちょっと視線をそらしたい構図になる。
というより、あれ、息できるのかしら。
貧相とまではいかないけど、ボリュームに欠ける自分の胸を少しだけ見下ろす。
なにを食べたらあんなになるの……
「姉さんがどれだけ心配したと思ってるの! もう二度と、私に断り無しに消えたりしないって約束しなさい!!」
「ね、さ……ギブ……落ちる」
「フェル、返事は?」
「……うぇい……」
「やり直しね」
「わがりました……!」
なんだかよく分からないうちに、姉弟喧嘩は収束したらしい。
解放されたルシファーは、本気でゲホゲホむせて肩で息をしていた。
お姉さんは笑顔でその頭を撫で回している。
「フェル、それであなた、なんでそんなに魔力が薄いの?」
「……今……ちょっと、腹減ってる時期で」
「まさか、この子からちゃんと対価をもらってないの?」
「いや、それは色々問題があってだな……」
魔力供給のことをよく分かっているだろうお姉さんは、忌々しそうに舌打ちすると私をにらんだ。
本当、色々ごめんなさい。
「供給主が満足な分をくれないなら、あなたが奪えばいいのよ」
「どうやって?」
「切り裂いて血から奪うか、動けなくして口から吸い取ればいいじゃない」
「あ、やっぱりそうなんだな」
「血液も体液も魔力を含んでるのは同じでしょう。どこからでも搾り取れるだけ搾り取ってやればいいのよ。使い魔が暴走したときに制御もできない魔女なんて無能なだけだわ。いっそ殺して契約解除してしまえばいいのよ」
待って。色々すごいこと言われてる気がするわ。
魔女と使い魔って、そういうものだったの?
「いや、エヴァはくれる気あるんだけど、魔力の移動が下手すぎてできないだけなんだよ」
ルシファーはそう弁護してくれたけれど、お姉さんは不機嫌な顔のままだ。
「あなた、ちょっと私に魔力を流してみなさい」
「え?」
「下手すぎて、の意味が分からないわ。実際にやってみなさい。あなたが使い物にならないと、うちの弟が飢えるでしょう。早くして」
「あ、は、はい」
なんだかよく分からないけれど、逆らわないほうがよさそう。
私は差し出された手に手のひらを重ねて、魔力を流そうと試みた。
相変わらず、魔力は思い通りに動いてくれず外に流れていかない。
「……変ね」
しばらくしてそう呟くと、お姉さんは手を伸ばして私のシャツの襟を掴んだ。
綺麗な指で一番上のボタンを外すと、そのまま流れるようにふたつめ、みっつめと外していく。
「え、あの……」
なにをされてるの、私。
はだけた胸元に人指し指をおいて、お姉さんは「ああ」と分かったように呟いた。
「なにをしたらここまでになるの? かなりひどい、澱ね」




