095 懐かしい音楽#
from a viewpoint of セオドア
アスカたちを見送り、千鳥亭に戻ればマスターがコーヒーを淹れて待っていた。
「コーヒーより、あっちにこもった方が良かったかな?」
店の奥にある扉を指して、マスターが言った。
あそこには防音室がある。自宅には置けないピアノを弾ける、唯一とも言える場所。父から「筋がいい」と褒められ習った楽器は、大人になった今も手放すことができない。
掃除屋には似合わない、大切な心の拠り所のひとつ。
「いや……コーヒーでいい。今日は、弾く気にならないから」
「そうか。フラれちゃったもんな」
「いちいち誤解を生むような発言はやめてくれ」
「うん。セオが一生懸命なのも分かるよ。いい子だな」
「……ああ、いい子すぎて、少し困る」
子どもとはもっとわがままで、寄りすがることに慣れたものだ。
無自覚な依存心で、大人を頼るのが常だからこそ、子どもでいられるのだ。
アスカはできることが多すぎて、なにかあったときに大人を頼らなくてもいいと思っているのかもしれない。
そう思うと「子どもらしくない」とか、「手がかからない」とかだけで片付けてしまえない、複雑な気持ちになる。
「血のつながりもないのに、かまいすぎな自覚はあるんだ……馬鹿だと思うだろう?」
「僕はいいと思うよ」
マスターは穏やかな声で返した。
「もうずっと仕事のことしか考えてこなかったセオが、自分の意思で引き取りたいとまで思った子だろう。どんないきさつでそうなったかはさておき、馬鹿になんて思うわけがない」
この人のこういうところには、いつも救われる。
誰かに認めてもらいたいわけでなくても、承認の言葉というのは不安な心を落ち着かせてくれるものだ。
「あの子はセオに懐いているし、信頼しているように見えたよ。だからこそ、隠しておきたいことがあるのかもしれないな」
「そうだな……複雑な事情があるんだろうとは思っていた。今までは、話してくれるのを待とうと思っていたんだ……どうにも普通じゃないからな、アスカは」
俺はマスターに、今日あったことを話した。
憲兵のこと。小屋のような家の下にあった、不可思議な地下室のこと。
そしてそれを手ずから燃やした、アスカの行動。
「それはちょっと……どころじゃなく、普通じゃないね」
その通りだ。誰もが分かる異常性を理解した上で、まだ関わろうと思う俺もおかしいのだろう。
きっとタブレットの件だけでは、ここまで心を占めることはなかった。
俺の中でアスカの存在が膨れあがったのは、間違いなくあのことがきっかけだ。
3回目の訪問のときだった。
持って行った菓子に手をつけないアスカに、この子は花以外になにが好きなんだろうと考えて。
壁際のウクレレが目に留まった。
「アスカ、なにか聴かせてくれないか」
唐突な提案だったのに、俺の視線を目で追ったアスカは、振り返ってうれしそうに言った。
「ウクレレですか? いいですよ」
手に取った楽器は、小さな手にぴったりで。
温かで素朴な単音から始まったメロディは、俺が子どもの頃に聴いた懐かしいポップスだった。
ウクレレといえば和音をつま弾くだけの単純な楽器、というイメージだったのに。アスカのよく回る指からは、普通に伴奏のついたメロディが奏でられて。
こんなに色んな音が出る楽器だったのかと、素直に感心した。
「いい音だ。上手だな」
演奏が終わって足りない感想を述べれば、アスカははにかんだ。
「人前で弾くの、久しぶりです。セオさん、他になにかリクエストありませんか?」
「そうだな……」
試しにいくつか曲名を挙げてみたら、アスカは全てをなんなく演奏してみせた。どう考えても、この子が生まれる前に流行った曲なのに。
「一体どこでこれだけ覚えたんだ?」
「この年代の曲はみんな好きなので、結構覚えました。これより古いものでも大丈夫ですよ。他に聴きたい曲はありませんか?」
あまりに楽しそうなので、もう少し付き合ってあげたいと思った。
なにより、俺自身が楽しかったから。
より古い曲で聴きたいもの……と考えて、ある曲を思い出した。
「ああ、ひとつだけ……でも曲名が分からないし、これはないな」
「歌えますか? メロディを聴けばなんの曲か分かるかもしれません」
分かるわけがない。
郷愁を誘うような音色につられて、記憶の底からこぼれ出たに過ぎない曲だ。
亡くなった母がよく歌っていた。本人に尋ねることができなくなったあと、俺自身でも調べて、結局見つけることのできなかった音楽。
大崩壊前にどこかの国で歌われた、マイナー曲だったのだろう。
「絶対に知らない曲だと思うが……」
「ダメ元で歌ってみてください」
意気込むアスカに、やはりいいとは言えなかった。
特徴的なサビのワンフレーズを、歌詞付きで口ずさんでみる。
分かりませんね、と言われたら、知らないのも無理はないと話してやらなければ。
そう思ったのに。
「セオさん、音程ピッタリですね」
アスカは微笑むと、俺が口ずさんだままのワンフレーズを奏でてみせた。
「知ってます、この曲。私も大好きです」
俺も忘れていたような冒頭から『再生』された曲。
小さな楽器が奏でるメロディが衝撃的で、瞬きするのも忘れていた。
さらに驚いたのは、アスカの歌だった。
温かな音色に添えられた、高く透き通るソプラノの声。
今までどこを探しても見つからなかった音楽。
それを、こんなに小さな子どもが歌っている。
(覚えてる――)
幼い頃、母が歌っていたあの曲だ。
歌詞も一部をのぞいて忘れてしまったと思っていたのに、俺はちゃんと覚えていた。そのことがたまらなくうれしかった。
目の奥がぐんと熱くなるのを感じた。
押し寄せる懐かしさに、深い安堵とうれしさが混ざって言葉にならない。
短い歌が終わり、最後の一音が宙に溶けても、夢うつつの気分から現実には戻れなかった。
「……"愛のほほえみ"ですね」
はじめて聞く曲名を、アスカが口にする。
俺はどんな顔をしていたんだろう。
「……セオさん?」
ひどく戸惑った声が呼んだ。
「合ってましたか? この曲だと思ったんですが……」
不安にさせてしまった様子に、慌てて表情を取り繕った。
大の男が感動のあまり声も出せなかったなど、言えるわけがない。
「――ああ、この曲だ。ありがとう」
短い礼の言葉に、アスカはホッと息をついて微笑んだ。
「驚いた。まさか、聴けるとは思わなかったんだ……すごいな、アスカは……」
額を押さえて、そのときはそれだけ言った。
「本当に、すごい」
アスカは普通じゃない。
世の中には俺と同い年で、もっと年若く見える人間もいるという。
見た目の年齢だけで、あの子を子どもと思ってはいけないのかもしれない。
いや、むしろそうであれば説明もつく。
どんな背景があの小さな肩の後ろに広がっているのか、俺はまだ知らない。
それでも、あの子が抱えるものの中に俺が引き受けられるものがあればいい。
いっそ全部受け止めてあげられたのなら。ひとりで頑張らなくても大丈夫だと言ってあげられたのなら。
あの子は、俺は、なにか変わるのだろうか。
「なにもしないうちからリタイアするなんて、あり得ないだろう……」
思わずこぼしたセリフに、マスターは「がんばり屋のセオらしいな」と返した。
そうだろうか。
俺はただ、子どもよりもわがままなだけの気がする。
やってみて駄目だったと言うのなら、まだあきらめもつく。
だが、同じ場所に立たせてもらうことすらできないのに、なにをどうあきらめろというのか。
そう食い下がる俺のほうが、アスカよりよほど子どもじみている。
(そうか、あのウクレレも……)
焼けてしまった中に、あの楽器もあったろう。
あらためてアスカの失ったものに思いを馳せると、胸が痛んだ。




