008 失敗
俺は部屋の入口に立つ兄さんを振り返った。
覆面と前髪の間からのぞく両眼が、いつもより険しさを増している。
「何故そいつはまだ生きている?」
俺と違い、兄さん――カザンは格好からして不審者だ。
隣に立つ少年は、明らかに怯えた表情に変わっていた。
「……兄さんは片付いたんだね?」
兄の手にあるものを目で指すと、少し持ち上げて「これが今回の目的だからな」と続けた。
成人女性の右手。
二の腕の途中から切断されて、今なお、血が滴り落ちている。
「大佐夫人は離れでお楽しみの最中だった。相手ごと始末はつけてきた……右手さえあればいいと言われているから、こちらはこれで終了だ」
「ああ、そうなんだ」
ガタン、と椅子の倒れる音がすぐ側から聞こえてきた。
「ディスフォールって……あの、ディスフォール家か……? それに、その手……まさか……」
蒼白の面で少年がカザンの持った右手を凝視していた。
自分の母親の手だ。ディスフォールの名に覚えがあれば、何があったかは想像に難くないだろう。
「お前、俺を騙したのか……! 本当は殺すつもりで!!」
少年はサイドボードに駆け寄ると、引き出しの中から小型の銃を取りだした。
ためらうことなく、その銃口を俺に向ける。撃鉄がガチン! と鳴った。
その一連の動作を止めることもできたはずなのに、俺は何故か見ているだけで。動こうという気にすらならなかった。
「死ねぇ!!」
一発の銃声が響き渡る。
視線の先で、茶色い頭の少年がのけぞるように倒れていくのが見えた。
銃弾を発射することなく暴発した銃身が、宙を舞う。
その銃口に刺さった黒い十字型の金属は、カザンの忍術武器だ。
銃が床に落ちる前に、少年の喉元に一本の刃が突き立った。
「ぐぇ……」
カエルを踏みつぶしたような声と、血の泡が少年の口からもれる。
仰向けに床に倒れ込んだ体が、2、3度大きな痙攣を繰り返したあと、静かになった。
「……銃口を向けられて、何を突っ立っている?」
動かなくなった少年の傍らから立ち上がったカザンが、短い刀についた血を払って鞘に戻した。
まるで、手を拭いたハンカチをポケットに戻すような、自然な動作で。
そう、これは俺たちにとって「何でもないいつものこと」にすぎない。
「いくらお前の体が頑丈だとはいえ、無防備すぎる。何故俺がここに来る前に殺っておかなかった?」
目の前まで歩いてきたカザンの言葉が、耳に入ってこなかった。
俺自身にもよく分からなかったが、頭がうまく働かない。
意識は魂のなくなった肉塊に向けて、一点に集中していた。
ざわりと、気持ち悪い何かが背中を駆けぬけていった。
押し寄せる、不快感。
「友達に……」
「何?」
「友達に、なれるかと思ったんだ……」
言い終わった瞬間、右のこめかみに衝撃がきた。
横から飛んで来た兄の手甲が、俺の体を吹き飛ばした。その先にあった灯りのスタンドが巻き込まれて横倒しになると、派手な音とともに砕け散る。
「そんなものは不要だ」
俺は床から身をはがしてその場に座り込んだ。立ち上がる気になれなかった。
告げられた言葉の意味と、鉄の味が滲んだ口の中に、感じたことのない理不尽を覚えた。
(なんだ、この気持ちは?)
ルールを破ったのは俺だ。自分が悪いことは分かっている。
それでも正体不明の憤りは、じわりと俺の中でふくらんだ。
(何故殺した?)
ターゲットだからだ。
でも死んだら、殺してしまったら、友達にはなれない――。
「俺に……一生、家族以外と関わるなっていうのか……?」
絞り出すように吐いた言葉は、そうと知っていて、いつかどこかのタイミングでなくなるだろうことを期待していたルールへの、問い。
「今更だな。友達はお前にとって弱みになる。ディスフォールの人間に、弱者との付き合いなど不要だ。それに勘違いするな、こいつはターゲットだ。請ければ必ず殺る。それが俺にとってもお前にとっても絶対のルールだ」
そんなこと、分かってる。
俺も、家族もそうやって生きてきた。それ以外なんて知らない。
「殺人鬼に、友達などできない」
追い打ちをかける言葉を受けて、胸の内の憤りはさらに大きくなった。
知ってる。分かってる。
アルティマを通過する行商人や兵士たちが、俺たちをどういう目で見ているかくらい理解している。
誰も俺たちに関わり合いたいなんて思わない。
でも本当は俺だって……
俺だって、何だ?
握りしめたひざの上の拳から、目を上げた。
テーブルの上にカードのいくつかが残っていた。
その先を並べる手は、もうない。
そうしたのは俺たちだ。
「こいつは、今日死ぬなんて思ってなかったよな……」
まだできたことがあったはずの人生が、突然終わる。
そんなことがきっと誰にでもある。特別なことじゃない。それなのに――
「こんなふうに死ななければ、明日も、明後日も、それで遊べてたんじゃないか……?」
どうして俺は、こんなにも納得がいかないんだろう。
自分の手で仕事を完了できなかったからか?
欲しかった友達を手に入れられなかったからか?
じいちゃんの言うとおり、俺はターゲットと言葉を交わしちゃいけなかったのか。
「ターゲットについて思いを巡らすのは、禁忌"4"だ」
「考えるなっていうのか、俺に」
「そうだ」
「何も考えずに殺せ、か」
自嘲をにじませたセリフに、カザンが覆面の下の顔をわずかに歪めた。
この兄は、わがままというだけでは説明のつかない、俺のこの不快感の正体に気付いたのだと思う。
「フェル」
大きな手が俺の腕を掴んで引っ張り上げる。
立ち上がった頭にポン、とその手を乗せてカザンは言った。
「お前は少し混乱しているだけだ。仕事は終わった。帰るぞ」
無理矢理会話を打ち切られて、腕を引かれて家を出た。
未熟な頃に、うまく殺れなくて失敗したのとは訳が違う。
自分の意思でルールに背いたのは初めてだった。
それに対する罪悪感と、胸の中に生まれた説明のつかない澱が足取りを重くする。
帰り道は、どう飛んで帰ったのかすらよく分からなかった。
ただ去り際に見た、床に散乱したカードと、動かなくなった少年の足だけが妙に記憶に焼き付いた。
死体の指で指紋認証が突破できる、できないという質問があれば「この世界では可能」という回答で。
(実際には指紋認証の種類によって可否が分かれるかと)
ところで本作は次回予告していないのですが……あとがきスカスカだと寂しいので、たまにはなにか書こうかな、と思う今日この頃。




