076 ローラシアの闇地帯#
from a viewpoint of エヴァ
灰色のエアスーツを着込んだ人物は、階段の一番下に座っていた。
立ち上がると、緩慢な動きで私たちに近付いてくる。
「お使いか? 目的は薬だろう?」
「誰だ?」
ルシファーが聞き返す。
「薬売りさ。欲しいのはこれだろう? 奥の店に行くのなら、ここで買っていかないか」
顔は分からないけれど、くぐもった声からお婆さんだと思った。
抱えていた布カバンの中から薄青い小さな袋を取り出すと、ルシファーに向かって差し出す。
「初回は安くしておくよ。クラック1袋2000ルーグでどうだい?」
「クラック……って?」
差し出された袋には粉のようなものが入っている。
のぞき込んだら、ルシファーに引っ張られた。
「ちょっとどいてろ」
背中の後ろに追いやられてしまった。
「俺らはそれを買いに来たんじゃない。医者を知らないか」
「医者だって?」
「魔法医だ。この辺にいるだろう?」
「魔法医……知らないねぇ。見ない顔だと思ったら、ここに来た用事はそれか?」
「ああ」
お婆さんはこれみよがしにため息を吐くと、のそのそと階段の下に戻っていった。お客でないなら用はないってことかしら。
座ったお婆さんと入れ替わりに、脇の建物から5~6人男が出てきた。こちらに気づいたのか互いに言葉を交わすと、好意的でない笑みを浮かべる。
「エヴァ、ひとつ言っておく」
ルシファーが言った。
「ここは普通の街中と違って命の軽い場所だ。俺やお前に危害を加えようとするやつに、手加減はしない。あとから怒るなよ」
「それって……」
ただでさえ殺傷能力の高いルシファーに、今は私のアクセラレータが上乗せされている。
殺人予告に聞こえるのは、気のせいじゃないだろう。
「待って、またさっきみたいなことするつもり?」
人の指を切り落とすのが手加減した結果なら、今度はどうするっていうの?
ピゲール村であったことや今までの発言を考えれば、彼にとっても人の命は軽いものなのかもしれない。
「やめてよ。私は大丈夫、怪我してもなにしても死なないんだから――」
「だめだ。俺はお前を護るって決めたんだ。襲われなくてもさらわれることだってある。悪意を前にして反撃に手を抜いてやろうなんて甘い考えは、結局後悔に繋がるんだ」
それが真理と疑わない口調で、ルシファーは言い切った。
違うとは言えなかった。こういう場所ではそれが普通で、きっと正しい。
「でも……」
でも私は嫌だ。
相手がどんな人だろうと関係ない。視界に映る人が、傷つくのは見たくない。
ましてや、私に関わったせいで死ぬ人を、もうひとりでも出したくなかった。
「そういうのは嫌なの。自分が助かればいいとか、やられたらやり返せばいいとか、そういう考え方はしたくないわ」
「エヴァが人殺しが嫌いなことは知ってる……でも俺はもう決めてるんだ。だから、この先も必要ならそうする」
そう言うと、ルシファーはわずかに目をそらした。
私がどう考えようと、関係ないってこと?
「私は……誰であっても、死んでほしいなんて思わないわ」
そんなの私のためじゃない。本当に嫌なのに、どうして分からないの?
なにより、ルシファーにそんなことをさせるのが嫌だった。
「それでもこれは譲れない。お前に嫌われても……俺はやるからな」
「……ルシファー」
背中を向けてしまった表情は、もう読めない。
「なになに? ケンカ?」
かけられた声に、ハッとうつむきかけていた顔をあげた。
現れた男たちが、手に刃物をちらつかせながら距離を詰めてきていた。
「お坊ちゃん、いい服着てるなぁ。見ない顔だ」
「財布に金はあるんだろう? おとなしく置いて行きなよ。悪いようにはしないよ」
ルシファーが「……ほら、来やがったぞ」と呟いた。
「次から次へと湧いて出やがって……クズ日和だな、今日は」
「なに? 言うじゃねーか、死にたいみたいだな」
「これだからいいとこのお坊ちゃんは。世間知らずで困る」
ルシファーの言葉に、男たちが笑う。
「そっちのお嬢ちゃん、いいねぇ。まれに見る美人だ。置いてきなよ」
無遠慮な視線からかばうように、ルシファーが一歩前に出た。
「ルシファー……だめ……!」
離れていく手を、自分から追って握りしめた。
ルシファーと私は同じ人殺しだ。
そしてどちらがより恐ろしい存在かと考えれば、それは私のほうに違いない。
私に、彼のしてきたことを嫌う資格も責める資格もない。
でもこれ以上、誰かを殺めるのを見ているわけにはいかなかった。
「離せ、エヴァ」
「嫌よ! 相手にしないで逃げればいいじゃない……!」
「逃げる必要なんてない。カモる相手を間違えたこいつらが悪い」
ルシファーは私の手を振りほどくことはせずに、反対の手を上げた。
「全員、そこで凍ってろ――」
空気中の水分が魔力で圧縮される気配があった。
それと同時に、男たちの足下から冷たい氷の柱が立ち上がる。
「なっ……魔法?!」
「冷てぇっ!」
一瞬で胸元まで凍り付いた男たちは、その場から動けなくなって悲鳴をあげた。
「ルシファー!」
魔獣にしたように、本当に凍らせてしまうつもりなんだ。
力でかなわないのは分かっていても、腕にしがみついて「やめて」と引っ張った。
不機嫌そうな顔が、振り返る。
「なんで止めるんだ」
「もうあれで動けないわ、十分じゃない!」
「十分じゃない。まだあと、後ろにふたりいる……」
「だめよ! もういいから行きましょう!」
力の限り引っ張ったら、拍子抜けなほどあっさりとルシファーの体が動いた。
勢いのまま揺らいだ体を支えながら、私も一緒に地面に倒れ込んだ。
「あ、いた……っ」
打った腰を押さえて体を起こす。転ばせるつもりなんてなかったのに……
地面に両手をついたルシファーに謝ろうとして、顔色の悪さに気が付いた。
「ルシファー?」
「……くそっ、なんなんだ……目がかすむ……」
その一言で理解した。
またどこかおかしいんだわ。
「っ捕まって……!」
肩を貸してなんとか立ち上がると、力が入らないのをいいことに、その場から引っ張って離れた。
回された腕を掴んで、なるべく遠くに行こうと歩き続ける。
「おい、どこに行く気……」
「病人は黙ってて……!」
ぴしゃりと返す。男たちは追ってはこなかった。凍った人たちは助けてもらえたはずだ。
誰も死ななかったろうことに、ほっとした。
「エヴァ、もういい……離してくれ……」
しばらく歩くと、ルシファーは私の肩から無理矢理腕を外した。
「あっ、ちょっと……!」
すぐ横が階段だった。
ルシファーは壁に手をついたけれど、その場にずるずると座り込みながら階段を数段下までずり落ちた。
「ちょっと! 大丈夫?!」
「分かんねー……けど、少し休めば……」
青ざめた顔色が路地の薄暗い中でも分かる。
どうしよう。こんな場所で動けなくなったら。どう助ければいい?
魔法医はどこにいるの? 本当にこの辺にいるの?
「――そんなところで、どうした?」
頭の上からかけられた声に、びくりと肩を揺らした。
見上げればヒゲを生やした中年男性が、階段の上から私たちを見ていた。
ルシファーが私の肩を掴んで、引いた。下がれ、ということだろう。
「怪我でもしたか?」
でも、続けて尋ねるこの人に悪意はなさそうだ。
「あ、あの……」
「具合悪そうだな。立てる?」
ヒゲの男性は階段を下りてくると、腰を屈めてルシファーの顔をのぞきこんだ。
にらみ返されたのに気にせず、あごを撫でさする。
「あー、唇が紫だなあ。あんまり良くない所見だ」
「……誰だ」
うめくように、ルシファーが言った。
「そこの店のもんだよ。こんなところに転がってられたら、商売の邪魔」
階段の下にある、古めかしい店舗の扉を指して苦笑する。
『千鳥亭』と漢字で書かれた看板。
「ま、それでなくとも子どもが困ってるのに素通りできないだろ。身ぐるみ剥がされる前に、店に入りなよ」
男性は、そう言ってウィンクしてみせた。




