066 ばあちゃんとクロ
どうして俺は、標高3,000メーター級の山越えをためらったんだ。
アルティマの領地内の隅の隅を通って、1,000メーターちょっとを越えるだけですませようと思ったのは……もちろんエヴァのためだが。
判断を誤ったかもしれない。
向き合った真っ黒い竜を見ながら、俺は少なからず後悔していた。
体長30メートル。推定体重20トン。
その鋭い牙に猛毒を持つ、希少種・飛竜の子ども。
ばあちゃんの使い魔、クロだ。
漆黒のウロコが日の光に照らされて、威圧的にきらめいていた。
完全に進路をふさがれている。羽ばたきの風圧だけで負けている自分が情けない。そこに留まっているのがやっとだった。
自宅ははるか遠く、上空からやっと確認出来る位置にある。
高速で通り過ぎればなんとかなると思ったのに、待ち構えていたのだろうか。
「よお、クロ……」
俺の声かけが聞こえているのかいないのか、クロはホバリングしたまま冷たい金色の目でこちらを見ていた。
ブレスの気配があったら全力回避だな。
そう心の中で考える。
嫌いなわけじゃないが、俺はこいつとあまり仲が良くない。
というより、ばあちゃん以外にこいつと仲良く出来る人間がいると思えない。
母さんのシロは話せるやつだけど、こいつはほとんど話が通じないのだ。頭から噛まれそうになったことだって、一度や二度じゃない。
クロに炎のブレスを向けられて、間違いなくばあちゃんの使役する魔獣なんだと恐怖を覚えたのは、10歳のとき。
それ以来、俺はこいつと一歩距離をおいて接している。
ちなみに、クロは炎以外に毒のブレスも吐く。
どちらにせよ、普通の人間は食らえば即死だ。
「ばあちゃんに言われて来たのか? それとも巡回中か? 俺、ローラシアに行きたいんだよな。そこ通してくれよ」
年齢で言えばまだ子どものくせに、羽を広げれば小山のようなワイバーンだ。
こんなに育ちやがって、普段一体何食ってるんだか……それは聞かない約束か。
エヴァは俺に抱えられたまま、引きつった顔でクロを見ていた。
「これな、ばあちゃんの使い魔」
ごく簡単に説明すると、震え声が返ってきた。
「わ、ワイバーンよね……?」
「うん。エヴァも同じ使い魔にするんなら、こういうほうが見た目から強そうで良かったんじゃねえか?」
「……遠慮するわ」
『フェル』
いきなりクロがしゃべった。
「え、なに? お前しゃべれたの?」
『馬鹿をお言い。アタシだよ、トルコだ』
「ばあちゃん??」
クロから聞こえてくる声は、間違いなくばあちゃんのものだった。
『なんだい、突然飛び出していったと思ったら、嫁を見つけてきたのかい? 兄たちを差し置いて、やるじゃないか』
拍子抜けするような会話の内容は、間違いなくばあちゃん本人だった。
「いや、嫁のわけないだろ……全部分かって言ってるよな……?」
豪快な笑い声が聞こえてきたかと思ったら、クロが大きく羽ばたいた。
風圧で吹き飛ばされそうになったが、なんとか風を受け流してやり過ごす。俺自身の浮力も上がっているようだ。前の2枚羽だったら、きっと飛ばされてた。
『少し見ない間に顔つきが変わったね、フェル。翼も……なんだいそりゃ、格好いいじゃないか。さすがアタシ自慢の孫さね』
「ばあちゃん、俺、家には戻らない。ローラシアに行きたいんだ」
先制とばかりに俺は言い切った。
ここで連れ戻されるわけにはいかない。
まだ外の世界でなにもできていない。それに、マッドなうちの家族にエヴァがどんな目に遭わされることか。
『ローラシアか……またダダこねて、ひとりで街に遊びに行きたいってかい?』
「ダダこねてるわけじゃない。俺は……やるべきことを自分で選びたいだけだ」
『はあ……悲しいねぇ。いつも「ばあちゃんばあちゃん」言って素直だったフェルが……お前、家族ごとアルティマを捨てるつもりかい?』
「……それは……」
互いに押し黙った。
自分のやりたいことを選ぶために、アルティマとは決別したつもりだった。
だがそれを「捨てる」と言われると……その通りなのだろうが、ばあちゃん相手に即答できなかった。
クロから『くくっ』と笑いが聞こえてきた。
『冗談さね、お前の言いたいことくらい分かってるさ。まあ……アタシはお前をそろそろ放してやってもいいとは思ってたからね』
「えっ?」
『かまわないよ。しばらくは好きにするといいさね。外でしか学べないことを勉強しておいで』
「……本当か?」
驚いた。しばらくは、の部分が気にはなったが、その言葉に警戒を緩める。
ばあちゃんやクロと戦うとか、洒落にならないからな。
『でもね、お前はそろそろ長寿薬の効果が切れる頃だよ。一度戻ってきて服薬してから――』
「長寿薬はもう必要ない。俺、不老不死ってやつになったみたいだから」
『……ほう? なにやらアタシが知らないことがあるみたいだね……?』
「とにかく、もう長寿薬は飲まない」
『不老不死ね……ああ、なるほど……まあ、そろそろその幼い精神年齢を年相応に戻したいと思っていたから、ちょうどいいさね。効力が切れるまでにはもう少しかかるだろうが……長寿薬も休みってことで、ひとまずはいいだろう』
「なんか、色々俺の意見が通って気持ち悪いんだけど……」
正直に感想をのべると、ばあちゃんはカラカラと声を立てて笑った。
『アタシは孫に甘いからねぇ。特にお前には』
「……じゃあ、ばあちゃんの気が変わらないうちに俺、もう行きたいんだけど。クロをどけてくれないか?」
『お待ち。クロをやったのはお前にこれを渡すためだよ。受け取りな』
真っ黒い飛竜が首を一振りすると、キラリと光るものが俺の手の中に落ちてきた。
エヴァを抱えたまま、片手で受け取る。
チェーンのついた、黒い角型の笛だった。これは……
「ばあちゃんこれ、飛竜の角笛じゃ……」
飛竜を呼び寄せて、使役するための道具。
じいちゃんがクロと仕事に行くときには、これを使っているのを知っている。
『クロ用だよ。お前なら扱えるだろ。自分の力だけでどうにもならないとき、本当に困ったときには使うといい』
「いいのか……?」
『セレーネには内緒だからね。あの子は視えすぎてあれこれうるさいんだよ。これはあたしの一存だ』
「……ありがとう、ばあちゃん」
心から礼を言った。
ばあちゃんは意外と、俺の味方なのかもしれない。
『可愛い子には旅をさせよって言うだろ? 気がすんだら帰っておいで。嫁も一緒にね。悪いようにはしないよ』
「だから、嫁じゃねえって……」
用は済んだとばかりに、クロはフン、と鼻を鳴らしてななめに傾いた。
そのままグライダーの要領で、家に向かって滑空していく。
黒い巨体を見送って、俺は肺の奥から息をついた。
なんかよく分からないけど、助かった。
「ルシファー……」
「ああ、悪い。驚かせたな。なんとかなったみたいだ」
俺自身、どうなることかと思ったが。
正直、見つかった時点で銀の手枷と首輪をつけられて、引きずり戻されると思ってた。
無事に放免だなんて、嘘みたいだ。
しかしクロが来たってことは、姉さんの化けガラスが飛んで来てもおかしくない。あいつらはダメだ。問答無用で俺をたたき落としそうな気がする。もうさっさとこの場から去ろう。
「よし、じゃあ行くぞ、ローラシア」
うなずいたエヴァを抱え直して、俺は科学国の上空に見える、灰色の雲に進路を定めた。




