039 人殺しでいい
「即効性の神経毒だよ。すぐに綺麗に死ねる」
ザワードが、となりに立つ男をあごで指して言った。
男が手にしているのは、細い注射器だった。中に薄青い液体が見える。
「君がここまで踏み込んでくるのと、この針が刺さるのと、どちらが早いか試してみるか?」
エヴァの首元へ添えられた長い針に、分が悪いことを悟った。
氷魔法は相殺される可能性もある。エヴァの命を危険にさらしてまで、賭けに出る気もなかった。
忌々しいが、仕方ない。
「……俺はなにをすればいい?」
眉をひそめたエヴァが、前に出ようとして引き戻される。
「ルシファー……? 待って、なにを――」
「いいね、ずいぶんと理解が早い」
エヴァの言葉を遮ると、ザワードは周囲に待機している男たちへ手を振った。
「そうだね……君、かなり特殊で危ないみたいだから、先ほど言ったとおり指一本動かせないくらいまで弱ってもらおうかな? ……抵抗はナシだよ」
攻撃が加えられるのは分かっていた。
背後から首筋に打ち下ろされたのは、殴打するための鈍器。
骨に響いた痛みを、ただ噛み殺した。
「……エヴァ」
悲鳴が声にならなかったエヴァに、言っておかなきゃいけないことがあった。
「ちょっと目閉じて、他のこと考えてろ」
言い終わったと同時に、背中に横一文字の衝撃が加わった。
ぐらりと揺れた体に、刺し殺す目的でない武器が次々と襲いかかる。
致命傷にならないよう、急所を交わして受けることくらい可能だ。この程度の痛みにも慣れている。
なぶられるままに任せて、反撃のチャンスを窺うことにした。
目を閉じてろって言ったのに、エヴァの悲鳴がずっと聞こえてた。
「そろそろやめろ」
しばらくしてザワードが言うと、男たちは武器を引いた。
床に転がった俺を、ひとりが蹴ってさらに転がした。
こいつら……あとで絶対殺す。
よってたかって殴られたが、動ける余力は残してあった。
だてに頑丈にできちゃいない。
転がったままでいるか、それとも泣き言のひとつでも言ってみるか。
どう油断を誘おうかと考えていたら、さっきまで叫んでいたエヴァの泣き声が聞こえてきた。
これは、寝てちゃダメだな……
「……生きてるから。泣くなよ」
仕方なく体を起こして、ふらりとその場に立ち上がった。
「っルシファー!」
「……ほう、まだ立てるか。満身創痍でも大したものだ」
ザワードが感心した口ぶりで首を傾げた。
「しかし信者でないお前にとって、白銀の巫女はそれほどまでして手に入れる価値があるのか?」
「価値とか知らねえ……俺は、エヴァと友達になりたいだけだ」
「友達ねえ……自分が死んでもか?」
「よく分かんねーけど……俺、自分がやりたいことをやろうって、決めたんだ。誰かに言われたからとか、義務だからとか、そういうんじゃなくて……やりたいことを自分の意思でやろうって決めたんだ、ついこの間。だから今、やりたいことやってんだ。それだけだ」
引きつった顔のままのエヴァに、視線を移した。
「エヴァ、もう少し待ってろ。あとでこいつら、全員床に転がしてやるから」
「はははははは!」
突然、ザワードは火がついたように笑い出した。
狂気にも似た笑みだった。不気味なサイレンのような声をあげながら「素晴らしい!」と拍手を続ける。
場の全員が、その異様なさまを黙って見つめていた。
「おい、白銀の巫女を離してやれ」
信じられない言葉が、その口から飛び出した。
なんの冗談かと思っていたら、エヴァを抱えていた男たちは本当に拘束を解いた。
ふらりと、青い顔でエヴァが俺のほうに一歩踏み出す。
「エヴァ」
よく分からないが、チャンスだ。
エヴァさえ取り戻せば、あとは何とでもなる。
手を伸ばそうとしたら、こちらに歩いてきたエヴァが直前で力を失ってよろけた。
抱き留めて床にひざをつくと、腕に抱え直した。
「エヴァ? 大丈夫か……」
視線が絡んだら、かすれた声が続いた。
「ルシ、ファー……」
ごめんね、と小さく聞こえたあと、エヴァの呼吸が止まった。
薄く開いたままの目が、一点を見つめたままで。
首筋に、ぽつりとした血の跡が見えた。
――まさか。
顔を上げて前方に立つ、男の手の中を見た。
注射器の中の薄青い液体が、消えていた。
「まさか――」
うわずった声が、自分の口からもれた。
最悪の予想が、心を凍り付かせる。
「よく効くだろう? それで死ぬと、肉体が腐らないですむんだ」
ザワードの言葉が、悪夢そのものに思えた。
「死体愛好家って知ってるかな? もうかなり前からアルビノの個体を捜されている方がいてね……言い値で買ってくれるそうなんだよ。本当は洞穴を見つけて死体を持ってくるつもりだったんだが、何故か生きていたようだから、もう一度殺すことにしたんだ。これでようやくオーダーに応えることができる」
売るつもりのエヴァを傷つけるわけがないと、どこかで高をくくっていた。
弱者とあなどって、すぐに取り戻せるとおごっていた。
「これが君がやりたいことをやった結果だ。満足だろう」
俺が。
やりたかったこと――。
なにかが麻痺した指先で、白い首筋に触れた。
脈がとれない。
その事実は、受け入れられない。
「……エヴァ……」
呼んだつもりの声は、かすれた音にしかならなかった。
喉の奥からこみあげてくる、この息苦しさの正体を知らない。
この場のすべてを壊したとしても。
納得のいく結果なんて、欠片も見えなかった。
「……すぐ……」
涙の跡を拭いて目を閉じると、白い頬をなでた。
「片付けるから……ちょっとだけ、ここで待っててくれるか」
こみあげてくるのが怒りなのか、絶望なのか、胸の奥に生まれた痛みが大きすぎてよく分からない。
ひとつだけ確かなのは、こいつらを絶対に許せないということだけ。
「白銀の巫女に傷をつけるなよ。死後硬直が始まる前にラッピングしないとな。そいつは手加減無用だ。今度こそ動けないようにしろ」
ザワードの声で、男たちが楽しげな歓声を上げた。
食べるためじゃなかったら、生きものは殺してはいけない……?
否。
やはり俺には、そうは思えない。
胸めがけて槍のような武器が突き出された。先ほどと違って殺すことを視野に入れた攻撃だ。
刃が届く寸前に、体を半回転させて相手の背後に回りこんだ。
背中から突き刺した爪先が、男の胸元から飛び出る。
引き抜くのと同時に、倒れ込んでいく体から鮮血が散った。
「お前ら……祈りの言葉も唱えずに死ね」
手加減も、情けも必要ない。
冷えた殺意が、確実に男たちを沈めていった。
熱い飛沫と濃い鉄の臭いが、植え付けられた行動原理を思い出させた。
一瞬のためらいもなく、殺せと。
血の海と化した床が滑る。
すでに事切れている男の死体を足がかりに、ふたりを同時に斬り裂いた。
ジェットが上がる向こうに、エヴァの白い髪が見えた。
大きく膨れた黄土色の、血管が浮き出るこの変形の手。
硬化した醜い腕の先は、エヴァに見られたくなかった。でも、見られてもかまわなかった、死なれるくらいなら。
もっと早く、最初から、こいつらを全員こうしてやるべきだった。
「うわああぁっ! この化け物!!」
至近距離で男が叫んだ。薙ぎ払われた重武器を交わして、反対方向から突き出された短剣を爪で受けた。
間髪を置かずもうひとつの短剣が襲いかかってくる。
二方向からの攻撃を受け止めたら、動きの止まった一瞬の隙を狙われた。
正面から左肩に衝撃が走った。
「……っ!」
焼けるような痛みをこらえて、その場の三人の首を同時に掻き斬った。
吹き出す鮮血を避けきれないまま、肩口を押さえる。
「本当に全員殺してしまうとは……恐ろしい」
立っている人間がいなくなった空間に、ザワードの声がやけに響いた。
余裕を失った声色は、それでも優位を信じて疑わないものだった。
「だが、問題ない。君のような人間には、魔法などよりこれが一番効くと知っているからね……」
かすかに震える手に握られているのは、科学国の銃に似た飛び道具だった。
ただの銃弾じゃない。これだけダメージが大きいのは、聖なる武器の特徴だ。
俺の苦手な、銀の武器。
「銀の銃弾は、ありとあらゆる魔物に効くんだよ」
「俺は……魔物じゃない」
「そうかな? 現にこれが効くだろう?」
空気の抜けるような発射音とともに、銀の銃弾が連続で吐き出される。
あれは、当たるとまずい。
銃口の向きから軌道を読んで避け続けたが、足にかすって着地が滑った。
派手にひざをついたところで顔をあげたら、目の前に銃口が見えた。
すぐそばまで来ていたザワードが、数十センチ先に、銀の武器を構えていた。
「君は危険だ。生け捕りはやめたよ」
ぐっとその指先に力が入る寸前、硬い左手を伸ばして銃口を握りこんだ。
銃弾は放たれて手のひらにめり込んだが、貫通はしなかった。
「なに……っ?」
銃を引こうとしたザワードを、逆に掴んだ銃ごと引き寄せた。
前に揺らいだ体に、右の爪を突き出す。
「……お前みたいに」
白い祭司服にめり込んだ爪先が、嫌な音を立てた。
力ずくで生肉をかき分けるときの音だ。
「死んだ方がいいヤツがいるなら――」
骨を砕き、赤い染みを広げた指先に、触れた臓器を握りこんだ。
自分から引きはがされる「それ」が何なのか理解したザワードが、カタカタと震えながら俺を見下ろしていた。
「か、返し……」
温かく弾力のある臓器が、俺の手の中で痙攣していた。
本人の目前で、引きずり出したそれを握り潰した。
「俺は、人殺しのままでいい――」
口から細い笛のような音を出すと、ザワードは白目をむいた。
大柄な体が崩れ落ちて、どさりと音を立てる。
血の滴りおちる自分の手に、顔をしかめた。
エヴァの着ている服が、白じゃなくて良かった。
血にまみれても分からないですむ。
「エヴァ……」
寝かせてあった体まで歩いて行って、その場にくずおれた。
ためらいながら腕を伸ばし抱え上げると、まだ温かかった。
「……ごめん」
力の入らない体を抱きしめたら、俺の方が心臓を握りつぶされた気になった。
後悔ばかりが、押し寄せてきた。
ちょい長くなりました……切るところ見当たらなくて<(__)>




