003 漆黒の少年*
ワンワン、とどこかで犬が吠えている。
都市部の一角にある、大きな邸宅の一部屋。
高級ブランドのロゴを主張する茶色いガウンに身を包む男は、首を回すと窓の外を眺めた。
外気を遮断する分厚い特殊ガラスの向こうには、ぼやけた黒い空が広がっている。
夜になっても明かりの絶えない科学国の街からは、完璧な星空を見上げることはできない。
ワンワン、ワン、ワンワンワン……
邸内にまで聞こえてくるとは、随分と騒がしい犬共だ。
喧嘩でもしているのか。
手元に置かれたグラスに赤い液体を注ぎながら、男は肥えた腹を撫でた。
深く体を沈めたソファーが、ぎしりと音を立てる。
だんだん唱和し始める犬達の声に、男は苛々とグラスの中身をあおった。
遅い。
今宵の肴はまだ来ないのか。
昨日は黒い肌の赤毛だった。今夜は何色かと期待していたのに、その楽しいだけの気持ちはとうに薄れていた。
遅すぎる。これを楽しみに一日職務をこなしてきたというのに。
軍の中間管理職など面倒でつまらない仕事だ。権威を利用して美味しい思いができなければ、何のために働いているのか分からない。
もう一度グラスに瓶を傾け、その中身がポタポタと落ちたところで男は鋭く舌打ちした。
「おい! 新しいワインを持ってこい! あと肴はどうした?! 遅いぞ!」
広い部屋の中に怒鳴る声が響き渡った。
いつもなら、扉の外に待機しているメイドか執事が「すぐにお持ちいたします」と声を返してくるはずだった。
だが、返答はない。
「おい、聞こえないのか?!」
扉は沈黙を返した。
しかしよく見れば、扉の下、わずかな隙間から何かチラチラと動くものが見える。
「……なんだ?」
いぶかしげに思った男がそれをよく見ようと、腰を上げかけた瞬間。
耳をつんざくような破裂音がすぐ側から響いた。
背後にあった窓ガラスが、ガシャンパリンと音を立てて床に散乱する。
「……っ?!」
勢いで立ち上がった男は、だらしなくはだけたガウンの前を直すことも忘れて、足下のガラス片を見つめた。
その顔から、血の気が引いていく。
「あ……ああ、あ……ガラスが! 外気が入る!!」
外とひとつなぎになった部屋の空間に、冷えた空気が入り込んでくる。それは有害物質から守られた邸内が、外気に汚染されることを意味していた。
自然の驚異から身を守る術を持たない、魔力なしの人間にとっては命に関わることだ。
外気の侵入を感知して、部屋の警報が鳴り出す。
ウー……ッ……ウー……ッ……
「――こんにちは大佐、いや、こんばんはか」
そんな中、あどけなさの残る声がのんびりと届いた。
男は両眼を見開いて、割れたガラスの上に立った一人の少年を凝視した。
「ベルストック・ポアレ大佐で間違いない?」
男の姿がうつされた写真をヒラヒラさせながら、少年は笑顔で問いかける。
どこから現れたかは聞くまでもない。
建物の4階に位置するこの大窓から、銃弾でも割れない特殊ガラスを破って入ってきたのだ。
飾り気のない白Tシャツに、黒のジーンズ。ハイカットの黒スニーカー。
どこにでもいそうなカジュアルな軽装でありながら、少年の風貌は「普通」からかけ離れていた。
無血の彫像のごとき端正なシルエット。
その双眸に光るのは、深くも鮮やかな紺碧。
ひときわ目を引くのはつややかな黒髪と同じ色をした、2枚の翼だった。
夜に溶けてしまいそうな漆黒の、本来人に在るはずもない大翼がその背でバサリと音を立てる。
「なっ……なんだお前は?! 私に何の用だ?!」
男は壁際に立てかけてあった剣を取り上げると、鞘から抜き放った。
突如として現れた目の前の子供が、斬り捨てねばならない怪異なのは明白だ。
切っ先を向けられた少年は、ひるむ様子もなく続けた。
「ああ、間違いないみたいだね。良かった」
屈託のない笑みを浮かべて、ジーンズのポケットに写真を押し込む。
ふっと、その瞳から笑みが消えた。
「それじゃあ、バイバイ」
平坦な声が、突然の別れを告げる。
男はふいに部屋が回転するのを見た。
喉元に風がぶつかるような衝撃を感じた瞬間、視界が回ったのだ。
「え」
次に見えたのは、衝突する床。
天井。床。そしてまた天井。
ボールのように転がるカメラから見えるような、映像。
停止した頭が見上げたのは、美貌の少年が持ち上げた異様なほどに大きい右手と、温かく降り注ぐ赤い雨だった。
「……ジェットはなるべく上に吹き上げぬようにせんと、己がかぶるじゃろう」
少年の声と違った低い声色が、不満そうに響いた。
「ジェット?」
声のしたほう、部屋の隅に立つ小さい老人へと少年は首を回した。
少年の右手は、この部屋に現れた時と明らかに違う形状をとっていた。
己の顔以上に大きくごつごつとした土気色の皮膚に、鋭い刃のように伸びた硬い爪先が並んでいる。
まるで物語の鬼を思わせるかのような造形。
変形。
少年の家族は、それをそう呼ぶ。
「ジェットは太い血管、特に総頸動脈を切断した時に上がる血しぶきのことじゃ」
「知ってるけどさ……だって、斬れって言ったのじいちゃんだろ? 頸椎の間にキレイに入ったじゃんか」
「バカモノ、誰が首を斬り落とせと言った? 心臓を抜くか斬るかで良かったじゃろう。これは狭い部屋の中でやるもんではないわ」
少年としてはちゃんと今日の仕事を終えたつもりだったのだが、やり方がまずかったらしい。
少し口を尖らせて面白くない気持ちを表すと、爪先についた血を振って払った。
同時にその腕が流動し、瞬きする間に元の少年らしい形状を構成していく。
「屋敷の人間には皆眠ってもらっておるが……中を通るは面倒じゃ。来た道から帰るぞ」
部屋の扉の隙間から、チラチラと立ち上る煙を顎で指して、老人が言う。
あの薄紫色の煙は、催眠剤。ことがスムーズに運ぶよう、事前に流してあったものだ。
しばらくの間、この部屋には誰も駆けつけてこないだろう。
老人は年に見合わない動きで、ガラスの割れた大きな窓枠に跳び乗った。
濃い灰色の甚平に草履といった服装が、長い白髪を一本で結んだ風貌に妙に合っていた。
その姿は孫の世話を焼くお人好しそうな老人と見えるだろう。
この部屋に、文字通り血の雨が降ったあとでなければ。
少年と老人が風通しの良くなった窓から飛び出ていくと、後には警報の音だけが残った。
部屋の主の意識は、すでに絶えていた。




