173 神との遭遇
指先の感覚が、もうなかった。
体は動かないのに、思考だけが止まらない。
(あのクソ教師、最後の教えのつもりかよ……)
他人に関わらず、アルティマの中でだけ生きていけだって?
人嫌いを俺にまで押し付けんな。
冷たい独房に転がったままで、繰り返し記憶を反芻する。
ローガン先生の教えは、いつも一貫していた。
『なにをどれだけ犠牲にするかは目的次第だ。殺すか殺されるかの狭間では、上手に取捨選択し、生き残るように』
賢く選択し、切り捨てろ。
知ってる。分かってる。それが俺たちみたいな人間にとっての正解だ。
でも、すべての人にとっての真実じゃない。
リアムと友達になって、エヴァと出会って、普通に生きている人たちを知った。
強いも弱いも関係なく自分と同じように笑い、怒り、悲しむ存在がいる。
もう知っているのに、誰をどれだけ犠牲にしても目的さえ達成できればいいなんて、どう平気な顔で言えるんだ。
「……むいて、ない……か」
かすれた声が、冷たい石の天井に吸い込まれていった。
俺が暗殺業に向いていないと。そう言っていたのも先生だった。
生まれ持った肉体も、魔力量も、これ以上ないほど人殺し向きなのに。
俺の性根は暗殺家業に向いていない、と。
(そんなこと、知ってる)
それでも、人殺しの家に生まれた以上、そうして生きていくだけだ。
仕事と割り切って、うまくやっていくくらいなんてことない。
そう思っていた。
(無理に、なっちまったな)
あの日、なぜ俺が家を飛び出したのか、今なら分かる。
それまで目を背けていたものが見えてしまったんだ。
感情論でも、甘い嘘でもいい。
今の俺なら「人を殺してはいけない」なんてきれいごとも、笑わずに飲み込んでやれる。
薄れかけた意識のどこかで、知った声に呼ばれた気がした。
錯覚だと分かっていても、その人を捜してしまう。
(……エヴァ)
全身を巡る魔力が薄かった。
息苦しさも、飢えた乾きも。すべて魔力欠乏による禁断症状だ。
あの温かい存在をこんなにも求めてしまうのは、俺が使い魔だからなのか。
「っ違う……!」
即座に否定した。
絶対に、違う。そんな風に考えるな。
大事なんだ。ただ、それだけだ。
(俺は、俺の意思で……)
朦朧とする意識が、目の前の景色を遠くした。
魔力が尽きそうだ。
先生を追おうとして、どうせ死なないならと限界まで暴れてみたが、枷は外れなかった。
高いところから低いところへ。死に落ちていく感覚。
いっそこのまま死ねたらなんて、俺は考えない。
この世には未練が多すぎるから。
(……?)
どうしてだろう。
深い眠りに落ちたはずの意識が開けている。
(誰かいる……?)
暗闇の向こうに気配がした。
ここに閉じ込められてから、唐突に無遠慮な訪問を受けるのにも慣れてきた。
ただ、泥に沈んだような体が起き上がることを拒否していた。
話す気力なんてない。これ以上はごめんだ。
「……誰だか知らねーけど……死にたくなかったら、失せろ」
馴染みのない気配に向けて、声を絞り出した。
ここがすでに夢の中なら意味はないだろうが。
姿の見えない相手は笑ったようだった。
『我が愛し子は機嫌が悪いようだ。初の対面だというのに――』
頭の中に直接響く声。どこから話しかけられているのか分からない。
若いのか、年寄りなのか、性別さえも判別のつかない声だ。
「……?」
気付けば俺の手足には枷がなかった。
周囲は何も見えず、ただ静かな闇があるだけ。
今いたはずの冷たい石造りの部屋じゃない。
ふわふわと浮かぶような心地がして、妙におぼろげだ。
『ここは人の住む次元とは少しずれた場所だ。肉体は入り込めない』
声は意味不明な説明を続けた。
『其方の魔力が尽きそうなおかげで、こうして連れ込むことができた』
上半身を起こせば、先程まであれほど重かった体は抵抗なく動いた。
立ち上がり、闇に紛れて姿が見えない声の主をにらむ。
ただならぬ気配だ……強い。
「まさか、ここって死後の世界なのか?」
覚えのない気配に向かって尋ねる。
淡々とした声が反問した。
『死の因果から外れたその身で、どう死後の世界へ赴くと?』
「知らねーよ、じゃあなんなんだよここは」
考えるような間のあと、声が応えた。
『それは、今重要な問題か?』
「……はぁ?」
『些事に割けるほどの時間はないのだが……』
「っ重要だろ? 人に話しかけてきた分際で明らかに説明足りないだろ? お前、俺と会話する気あるのか?」
『無論、其方とこうして話すのを待ち望んでいた。人の時間でいえば20年という月日だ』
20年……微妙にずれた問答はいちいち謎かけのようで。
円滑なコミュニケーションが取れる相手とは、思いがたい。
「俺はあんたを知らない」
名乗らない相手と話す気はないと、拒絶を込めて言った。
『それも無理からぬこと、其方の母は秘密主義だからな』
母さんを知っているのか?
そう尋ねる前に、暗闇から黒い布に身を包んだ長身のシルエットが進み出た。
「な、に……?」
目を疑った。
闇に透けて広がる、4枚の大翼――。
自分以外に出会ったことのない、漆黒の大翼がそこにあった。
長くのびた髪も同じように黒く、闇を引きずるように暗い。
白すぎる肌との対比は作り物のようで。
生身として感じられる温度の一切を否定している。
若い男だ。どこか見覚えのありすぎる端正な顔に、強烈な違和感を覚えた。
「……俺……?」
放心したような声がもれた。
正確には、俺より年上だ。
20歳くらいだろうか……俺がもう少し年を重ねたら、いや、年相応の姿であれば、きっとこんな姿だったろうというくらい、似ていて――。
「まさか……ウィング……?」
俺より年上の、よく似た顔といえば死んだ兄の……いや違う。
ウィングは、だって、もう――。
『どちらも不正解』
俺と似た顔の男は言った。
『其方と似ているのは、我の模倣ゆえ』
「もほう?」
『そう。器として親和性を高めるために、似せて作った』
周囲のぼんやりさ加減とは対照的に、頭ははっきりしていた。
だが、こいつがなにを言っているのかだけ理解できない。
『しかし思ったよりも小さいな……そろそろ頃合いと思ったが、この差はどうしたことだ、面倒な』
いつの間にか俺の背にも、4枚の翼があることに気づいた。
俺の意思とは無関係に具現化している。
『肉体がこれでは、不十分と言わざるを得ないか……?』
俺を眺めて呟きながら、男はひとり思案する。
「あんた……誰だ?」
今一番確認しなくてはいけないことを尋ねた。
男は微笑むと、当然のように答えた。
『其方たちが神と呼ぶ存在だ』
普通なら「なに言ってんだ」と笑うところだろう。
だができなかった。妙に腑に落ちてしまった。
肌で感じるのは人ならぬ者の放つ畏怖。それだけで十分と感じるほどの、人とは異なる存在感。
黒翼の神には思い当たる名も在る。
「…………クラミツハ、か?」
尋ねると、神を名乗る男はゆったり首をかしげた。
『それは人が我につけた呼称のひとつ。我は6大神の始まり、闇を司る神よ。好きなように呼ぶといい』
テトラグラマトンに仕える6大神のひとり。闇の神クラミツハ。
大崩壊前の神話に出てくる、神の名だ。
(本物かよ……)
理屈ではなく、絶対に勝てない相手だと感じる。
強者と弱者。支配する者とされる者。
その圧倒的な差が、この世界ではよりダイレクトに感じ取れた。
「……その神サマが、俺になんの用だよ」
死んだのでないとすれば、こんなに唐突に、神に遭遇した理由が分からない。
クラミツハは当たり前のことのように言った。
『時は満ちた。その体を明け渡してもらいたい』
「は?」
『もう良い頃合いだと言った』
「いや、意味不明すぎる。やっぱりこれ夢なのか?」
俺と似た顔をした神は、わずかに眉根を寄せた。
『無意味な逃避はやめてもらおう。限られた時間よ。有意義な会話がしたい』
「っ神だかなんだか知らねーけど、アポ無しで突然押し掛けてきて『有意義な会話がしたい』とか、大・迷・惑だって思わねーか普通っ!」
こちとら信仰心なんかカケラもないんだ。神なんかと関わりたくない。
それでも聞かなくてはいけないことがありすぎて、鬱陶しさがつのる。
「説明くらいまともにしてくれ。さっき『似せて作った』って言ったよな? どういうことだ?」
神はなんら表情を変えず答えた。
『そのまま言葉通りよ。親和性を高めるため、我に似せて其方という器を作った』
「うつわ?」
『神を現世に降臨すために必要な身体のことを、器、または身代と呼ぶ』
言葉の内容を咀嚼するのに、少し時間がかかった。
「……誰が、なんの器だって?」
『まだ問うか? 其方が我の器よ。6大神は世界に直接関与する術を持たぬゆえ、力の行使には親和性のある媒介が必要になるのだ』
「……俺が、その媒介……?」
『そう言っている。もう良いか? 我はやらねばならぬことがある。そのために、其方の体を借り受けたい』
言ってることはなんとなく分かった。
嘘だろ、と笑い飛ばしたくもなった。
だができなかった。この状況すべてが、真実を指していることが不愉快すぎて。
『器を作るのは創世以来はじめての試み。幾度か失敗し、其方で四度目よ』
クラミツハは俺がまだ分かっていないと思ったのか、説明を続けた。
「……四度目ってことは、俺以外にもいたのか、その器ってのが」
『一度目は闇の力を付与することには成功したが、性別のせいか親和性がなかった』
「女で無理だった、ってことか?」
『そう。親和性を高めるのに容姿を似せねばならないと分かったのは、三度目のことよ』
ということは、やっぱりこいつは男なんだろう。
俺が四度目の器と聞いても、まだピンとこないが。
『二度目は組成をいじりすぎたせいで、魔力がほとんど宿らなかった。三度目はうまくいきそうだったのだが……肉体に負荷をかけすぎて失敗した。そして四度目の其方よ。魔物の力を融合させることで脆弱な部分を強化した。予定より小さい以外は完璧に見える』
クラミツハの説明を聞く内に、思い当たった。どこかで聞いたような話だ。
一度目は女で、二度目は魔力無し。三度目は失敗……なにが失敗だったんだ?
思考を巡らせた先の答えに行き着いたら、血の気が引いた。
まさか、そんなわけ……
「それ、もしかすると……俺の兄姉のことか?」
思い当たったことをそのまま口にすると、黒翼の神は聖者の笑みを浮かべた。
『理解が早いな、愛し子よ』




