016 ディスフォール家のその後*
時間は少し戻り、ルシフェルが家を飛び出した一時間ほどあとのこと――。
「フェルが家出したですって?」
開け放ったままのドローイングルームの扉から、足取りも荒く入ってきたのはこの家の長女、ロシベルだ。
黒い瞳は鬼火を灯したように熱を持って、彼女の心中がどれだけ怒りに満ちているかを語っていた。
「ベル、そこで止まれ」
入口にほど近いところに立っていた黒装束の長男、カザンが少し手をあげてその歩みを制した。
向かおうとしていた部屋の大テーブルでは、肩と首に包帯を巻いた青白い顔の次男、シュルガットがおどおどと様子をうかがっている。
苛立たしげに舌打ちすると、ロシベルは目の前にあるカザンの手を払った。
「兄さんがついていながら、フェルに仕事を失敗させて反省房行き。あげく家出だなんて……もとを正せば兄さんに原因がありそうね?」
「ターゲットはふたりいた。俺はフェルに片方を任せた。失敗させるもさせないもあるか。反省房にぶち込んだのは俺だが、やれと言ったのは母さんだ」
その答えに納得いかない色を浮かべながら、ロシベルは怒りの矛先をシュルガットに向けた。
「シュルガット。あなたがフェルを反省房から出したのですってね。どうして飛び出すのを止められなかったの?」
「と、止めようとひたからこのザマなんだろ? な、なんで僕が責められなきゃいけないんだ? あ、あいつ、反省ひたって言ったから……だから、出ひてやったのに」
「シュルガットが何か余計なことを言ったのじゃなくて? 私がいたのならこんなことにはならなかった。フェルが飛び出ていってしまったのは、あなたのせいよ」
ロシベルの片腕が宙に持ち上げられる。
練られた魔力が周囲の空気をビリッと揺らした。
「ベル、落ち着け。シュルガットのせいじゃない」
「止めないでカザン! この無能のせいに決まってるじゃない!」
「無能って言うな! 僕は天才だぞ!!」
「シュルガット、お前もやめろ。その物騒な虫をしまえ」
カザンが頭の上を飛び始めた蜂たちに舌打ちする。
虫型の小型ドローン、暗殺兵器のひとつだ。
「私がそんなものにやられるわけないでしょう?! 全部たたき落としてからお前のハラワタ引きずり出してやるわ!」
「毒針は新開発だぞ! クジラだって一刺し30秒であの世行きだ! 姉さんだってただじゃすまない……!」
「……いい加減にしろ、ふたりとも。まとめて下ろすぞ」
そんな三人のやり取りの外から、くすくす、と可愛らしく笑う声が聞こえてくる。
殺気立つ場にはおよそ似つかわしくない、楽しげな声だ。
「フェル兄さん逃がしたの、シュガー兄さん?」
「シュガー兄さん、フェル兄さんいじめた?」
同じようなトーンでそう問いかける、人形のように愛らしい幼女がふたり。
母親と同じシルバーブロンドの長い髪が、ゆるやかに三つ編みされて後ろに流れている。
ふたりは椅子に隣り合って対称に首を傾けながら、シュルガットに向けて問いを重ねた。
「ねえ、いじめた?」
「いじめたのよね?」
「いじめてない!」
「うそ」
「うそよ」
「うそつきは悪い子よ」
「そう、悪い子はおしおきね」
幼女ふたりは人指し指をシュルガットに突きつけると、またくすくすと笑った。
「ベル姉さんが引きずり出した腸で蝶々結びの刑ね」
「腸で蝶々結び。かわいくする」
「かわいくない!」
姉と妹に挟まれてシュルガットが頬を引きつらせたところで、場に新たな人物が加わった。
「あら、みんな集まって賑やかね」
慈愛に満ちた表情を浮かべ、美女は入ってきた扉から部屋の中心に進み出る。
「母さん?」
「か、母さん、今日は、出かけていた、んじゃ……」
「そういうことにしておいたけれど。ずっといたの。フェルが飛んでいくのも見えたわ」
そう言った母の、ライトベージュの唇が薄く弧を描いた。
遠く窓の向こうの景色を見通すような紺碧の瞳は、家出した三男と同じ色だ。
「分かっていたならどうして止めなかったの……?! フェルが出て行っちゃったのよ?!」
ロシベルが悲痛な声で母に詰め寄った。
「ベル」
「いつか、こんな日が来るんじゃないかって思ってたの。あの子は賢いから……いつか、自分の意思でどこか遠いところへ……!」
「ベル、分かっていたのなら話は早いわ」
「早い……? 何言ってるの母さん、私、フェルのいない家なんて耐えられない! すぐに捜しに行くわ!」
「それはだめよ」
感情の昂ぶりに合わせて、陽炎のようにその身から魔力を揺らす長女と違い、母親は微笑んだまま淡々と答えた。
「これでいいのよ、フェルは」
その一言で、その場の全員が何かを察して黙り込んだ。
力のある魔女は、その能力に合わせて二つ名を持つ。
母親の二つ名は「先見の魔女」。
未来を見通す力を持つ、希有な能力だ。
「母さん……何が視えたの?」
ロシベルが、なおも納得のいかない顔で尋ねる。
「フェルが家を出ることを分かっていて、行かせたのか」
カザンが、ため息交じりに言った。
「さあ、どうかしらね?」
「フェルは……フェルは帰ってくるのよね? ここへ戻ってくるわよね?」
「そうね、いずれは」
「いずれはっていつよ?!」
ロシベルがヒステリックな声をあげる。
母は小首を傾げて答えた。
「私にもすべては分からないのよ。ただ、これはあの子にとって必要なことなの。分かってね、ベル」
「嫌よ……こんなに突然フェルがいなくなるなんて。追ってもいけないなんて」
「今は待ちましょう、あの子が大きくなって帰ってくるのを」
母は子どもたちひとりひとりを見回して、笑みを深めた。
「神にも等しい力を得るための、あの子の旅立ちを祝福しましょう」
異様ともいえるその言葉に、同じように微笑んだのは、双子の妹たちだけだった。
家の中では母がルールブック。それより強いのはおばあちゃん。
さて、兄妹が出揃ったので割烹にイラストあげました……




