134 ディスフォール家の長女#
from a viewpoint of ロシベル
時間軸が少し遡ります(又かよって言わないで)
ローラシアのドームに潜入した日の、夜のお話(助詞多用)
ベッドサイドの薄明かりに揺れるのは、どこかから入った一匹の蛾。
薄羽根から視線をそらして、少ない家具の置かれた空間を眺めた。
使用人のもの、と考えれば立派な広さだけれど。
相も変わらず最低限のものしかないこの部屋は、いつでもこの世から消えてしまっていいと考える心の表れのようで。
居心地が悪い。
飛んでいた蛾が、音もなく床に落ちた。
わずかに焦げ臭い蛾を見るでもなく、落とした本人は膝の上のページをめくる。
ヘッドボードに背中を預けていてもだらしなく見えないのは、就寝前のひとときにも気を抜かないでいるからね。
美徳とはほど遠い歪んだ性質を、それでも美しいと思う。
私は横たわったまま、その横顔を見つめていた。
「ねぇ……調べ物、まだ終わらないの?」
文字をたどる指に指をからめて声をかける。視線は本に落としたまま、くしゃりと髪を撫でられた。
「もうすぐ終わるよ。眠ければベルは先に寝るといい」
絶世の美女の誘いを無下にするのは、残酷な死神。
触れれば切れてしまいそうな、暗くて冷たい魔力は少し弟に似ている。
「待ってるわよ。どうせそれしかできないもの――」
私に堕ちない男はいない。
なびかない男などいない。
この人をのぞいては――。
だから欲しいのか、と聞かれたことがあった。
そうよ、と答えた。
手に入らないことが許せないのじゃない。
こんなにもあなたを見ているのに、振り向かないのが許せない。
そのままどこまで逃げるつもりなのかしら。こちらは地獄の果てまで追う覚悟だというのに。
本当に、ひどい人。
綺麗な指を眺めていたら、きっちり最後まで読んでから本を閉じた。
恨めしげな視線を受け止めて微笑するあなたを、それでもいいと思ってしまうのは惚れた弱みかしら。
思い通りにならないけれど、あなたが好きよ。
思い通りにならないから、あなたが好きなの。
「ねぇ、先生と同じ髪色をした人、見つけたの」
「そう」
「驚かないのね」
「君がこうして私の寝床に潜り込んでくるときは、なにか驚かせたい事があるのだろうけれど。その話題は意外性に欠けたかな……期待に添えなくて悪いね」
「とっておきだったのに」
もう隠すこともないと思っているのだろうか。
こちらは見つけてやったと思っていたのに。
大事に隠してきた、彼の秘密を。
「血筋よね。私に堕ちない男なんてやっぱり腹が立つけれど、面白いわ。それにとてもきれい。あんなにきれいだと滅茶苦茶にしたくなる」
「ベル」
「あら、いけない? ねぇ、どんな人だったの? 母親もきれいな人だった?」
「……そうだね」
「私よりも?」
尋ねると、サイドボードに本を置いてから手を伸ばしてきた。
頬に触れて、唇に触れた指には騙されずに、その冷たい瞳を見つめ返す。
「ベルよりきれいな人なんて、いるのかな」
「あら、心にもないお世辞を言うのね。先生らしくないわ」
「本当のことだから、お世辞にはならないと思うよ」
口を閉ざして軽くにらむと「信用していないね」と笑われた。
「きれいだよ、ベルはとても」
「お世辞じゃないならただの嘘ね」
「困ったな。私はどうすれば?」
「そうね。明日の朝、ここを出て」
その言葉に、先生は今度こそ意外そうな顔をした。
少し考えたあと「理由を聞いても?」と首を傾ける。
「フェルが、帰ってくるわ。『お友達』も一緒よ」
「……そうか、思ったより早かったね」
「運命って、動き始めれば早いのですって。母さんが言うにはね……」
先生は少しの間、黙って私を見ていたけれど、「分かったよ」と呟いた。
頬に添えた指が離れそうになるのを、握って引き留める。
「……他にもご要望が?」
「私以外、見ないで」
そんな言葉でこの人を縛れるなんて、かけらも思っていないくせに。
口にしないではいられないの。
不安で。
「私だけを見ていて。過去でも、未来でも」
この瞬間にも彼が消えてしまいそうで。
不安で仕方がない。
「仰せのままに、お姫様――」
落とされた口づけを受け入れながら、くせのない灰茶の長い髪を撫でた。
この人の熱は、指の間から流れていく水の、どうしようもなさに似ている。
受け止めたいのに、受け止められない。
留めたいのに、留まらない。
思考の狭間に、ひとりの少女の姿が浮かんだ。
この人によく似た悲しい目で、自分を呪っていた。
死だけが救いだと分かっていても、自らそれを選ぶこともできない哀れな少女。
あれは、そう――今日あった出来事。
朝、家出した可愛い弟に、無能な弟がコンタクトを取っていることに気付いた。
「放っておきなさい」と母さんは言っていたけれど。
シュルガットが連絡を取っているのに、なぜ私はいけないの?
ついカッとなってシュルガットを脅し、使用人が運ぶ予定だった地図を奪い、自分が運搬役になることでローラシアに向かった。
たどり着いた大国の宿泊先に姿はなく、図書館にも姿はなく、聞いていた情報のとおり小さなバーで弟を見つけた。
久しぶりに見た弟の無事な姿にどれだけ安堵したか。
可愛い弟。
世間知らずで、素直で、家族思いで。能力値は兄弟一のくせにおごらない。
いつだって仕事はちゃんとこなすくせに、面倒なことはしたくなくて、浮いた話のひとつもない。
あの子の空いた時間のほとんどは、本を読むことに費されている。
そんな子どもだと思っていた弟には、確かな変化があった。
仕事のとき以外は、いつもぼうっと気だるそうだった顔つきが変わっていた。
(あの子のせいなのね……)
一緒にいた人形のような少女は「不死の魔女」だと聞いた。
科学にも魔法にも属さない、第3の力を持つ異能力者。
母さんの説明では、フェルは彼女と出会うことが必要だったという。
世界の均衡のため。
科学と魔法の天秤を大きく傾けないために、必要なのだと。
「先見の魔女」が言うのなら、そうなのだろう。
それはもはや家族間だけの問題ではなくて、世界の存続に関わる。
だから、黙っていた。
可愛い弟が誰かの使い魔になるなんて、そうでもなければ許せなかった。
弟を使い魔にした少女は、なにかぬぐえない業を背負っていることが一目で分かるような、不幸そうな顔をしていた。
腹が立った。
私の宝物を手に入れたくせに、なぜそんな顔をしているのかしら。
少し脅してやろうと思った。
それなのに――。
『私が、生きているからいけないのよ』
返ってきた言葉に寒気がした。
それは、昔どこかで聞いた言葉に似ていたから。
『――私は、生きていることそのものが罪なんだ』
だから、その告白を受け入れる気はないと。
みすみす幸せでない道を選ぶのはやめなさいと。
子どもを諭す口調で言われたのを、覚えている――。
そして、今も私の心は受け入れられないまま。
「――姉弟そろって……馬鹿よね」
「……なにが?」
「なんでもないわ、ひとり言よ」
望んで死の淵に立つ人を好きになってしまった。
そこからこちら側へ引き戻そうと必死になるところも、きっと同じ。
そんなところ、似なくても良かったのにね――。
「愛してるわ、先生」
今日も答えは返らない。
あなたはただ、冷たく微笑むだけ。
いいわ、私はしつこいの。
どんなにひどい過去があったとしても。
生きているのがいけないなんて。
そんな便利でくだらない理由、私は絶対に認めてあげない。




