115 求めたらいけない#
from a viewpoint of エヴァ
身じろいだら、体の下でベッドの軋む音がした。
どこか様子のおかしいルシファーが戻ってくるのを待っていて、それから……
(ソファーで、寝ちゃった……?)
やけに深く寝入ってしまった気がする。重たいまぶたを起こしたら、すぐ目の前にゆるいクセの黒髪が見えた。
どきりとした。ベッドのふちにもたれかかって、ルシファーが寝ている。
こんな風に寝ている姿を見るのははじめてかもしれない。
いつも私が先に寝てしまうし、朝だって私より早く起きているのに。
(いつ帰ってきたのかしら……っていうより、なんでこんなところで……)
ソファーから運ばれたのは理解できたけれど、どうしてここにいるのか意味が分からない。ちゃんと自分のベッドで寝ればいいのに……。
寝ているルシファーはいつもより無防備に見えた。
少しの好奇心から寝顔を観察してみる。黒いまつげが長い……女の子みたいって言ったら、きっと怒るわね。
(あ……)
頬にまつげがついてる。取ったら起きちゃうかしら。
迷ったけれど、結局気になって手をのばした。
頬に指が触れる寸前で、ヒュッと風が吹いた気がした。
(?!)
瞬きする間に、手首が掴まれて遠ざけられていた。
「っ……」
紺碧の瞳が鋭く私を捕らえたあと、見開かれた。
「……あっ、悪い……!」
ルシファーはパッと指を外すと、起き上がってベッドに手をついた。おろおろと私の手首を確認する。
「痛くなかったか? あっぶねぇ……もう少しで折るところだった」
はーっと息を吐いた姿を見て、あらためて彼が物騒な人だったことを思い出す。
ルシファーはベッドにどすんと座ると、肩を落とした。
「エヴァ……驚かすなよ。心臓に悪い」
「お、驚いたのはこっちよ。そんなところに寝てるし、顔にまつげがついてたから、取ってあげようと思っただけなのに」
「まつげ……いや、そんなのどうでもいいから、俺が寝てるときは急に触らないでくれ。夢見が悪いときとか、反射的に攻撃しちまう」
「どんな夢を見てるのよ……」
「今日は昔の夢だったなー。魔物の巣窟に置き去りにされた子どものときの。あのときは何度も死にかけたんだ。地上に出るまでにほとんど休むことも出来なくて、疲労で寝かかっては襲われる恐怖と戦ってたから――」
「ごめんなさい、もういいわ」
それは虐待、じゃなくて暗殺一家としての日常なのかしら……。
この人の家は常識で計れないところが多すぎる。
「子どものときからそんな環境で、よくここまで育ったわね」
素直な感想を述べると、ルシファーは首を傾げた。
「うーん、まぁそうだな。でも他の家がどんな風に子どもを育てるのかイマイチ分からないし、俺にとっちゃあれが普通の環境だったからなぁ。そういうの日常だったし、毒物で死にかけたのも2度や3度じゃないけど……あれ? 確かによく育ったよな、俺」
ルシファーはそう言ってカラッと笑ったけれど。そんな”普通”は想像できないし、したくない。
痛かったり苦しかったりすることがたくさんあったはずなのに、なんでこの人は笑うのかしら。
朝の光が窓から差し込む。夜明けだ。
きれいな光は、ときに目に痛い。
「ルシファーは……死にたいと思ったことが、ある?」
思わず尋ねてしまった。
「いや?」
あっさりと答えが返ってくる。
「死んだほうがマシだろうな、と思ったことはあるけど。死にたいと思ったことはない。むしろ絶対死んでたまるかと思ってたな」
「苦しいのを……終わりにしたいと思ったことはないの?」
「ないよ。死んじゃったらそれこそ終わりだろ、もったいないじゃんか。俺、まだあの本読んでる途中だとか、次の行商で頼んでる本が届くのにとか思うと死ぬに死ねないだろ」
「全部本じゃない……」
「それが一番楽しかったからな」
ふっと、その言葉に「楽しい」とはほど遠い感情が混ざる。
全部大丈夫だったわけじゃない。
きっとルシファーは自分で「大丈夫になるように」してきたんだ――。
それが分かってしまったら、なにを返したらいいのか言葉に詰まった。
「でもな」
ルシファーは続けた。
「今はもっと楽しいよ」
なんのわだかまりもなく笑う彼を、すごい人だと思う。
私とは違う。いつでも前を向いて、好きなものを好きだと言える。
自分勝手でデリカシーもないけれど、素直で強い人。
ルシファーはモゾモゾとベッドの上をやってきた小さい魔獣を「おっ、チビ」と抱き上げた。
「おはよー」
フワフワの毛皮に頬ずりするのを見て、ひく、と頬が引きつった。まさかこれを私にもやるつもりじゃ……?
「なんで距離とるんだよ」
「……別に」
後ろに下がった私を見て笑ったのに、正面から目が合ったらルシファーは急に黙って。大事なことをいうときの顔になった。
「エヴァ、昨日、ごめんな」
「……なにが?」
「置いて出て行っちまって、悪かった」
「別に……気にしてないわ」
本当は私がなにか悪いことしたんじゃないかって思ってた。
でも先に謝られてしまったら、言い出し損ねた。そのままじっと見られて余計に言い出せない。
「……なに? なにか顔についてる?」
「へへへ。いや?」
「変な人ね」
「なぁエヴァ」
「なによ」
「俺さ、ずっと側にいるからな。エヴァが不死の魔女じゃなくなっても、頂点の魔女じゃなくなっても、もし……俺が使い魔じゃなかったとしても。お前が、俺をいらないって言わない限りはどこにも行かない」
口調は柔らかいのに、誓いのような響きをふくんだ言葉だった。
なんで、今そんなこと――。
「……急に、なに言い出すのよ」
やめて、と言いそうになった。
そんな真っ直ぐな言葉を、聞くのは怖い。
「いいから聞けって。俺はお前の魔力が欲しくて一緒にいるんじゃないからな。最初から自分の意思で、エヴァの側にいたいからここにいるんだ。それ、忘れないでくれよ――」
彼に、側にいて欲しいと言ってしまった、あのときに戻れるのなら。
次は絶対に言わない。
あなたとのつき合いは、従魔の契約がなくなるまでの間だけだと。
私はそう言わなければいけなかったのに――。
(もっとちゃんと拒絶するべきだった)
一緒に過ごす時間が多くなるほど、何度も後悔した。
呪われた生に意味をくれるルシファーも、それをうれしいと感じる弱い自分も、大嫌いだ。
情けなくて、胸が潰れそうで、どうしようもなく泣きたくなる。
「……エヴァ?」
ルシファーは困った顔で手を伸ばすと、私の頬に触れた。
「あの……ごめん……言っておきたかっただけなんだ。泣かせるつもりは……」
こらえきれずに目から一筋こぼれた涙を、その指がぬぐった。
この手を知ってから、私は弱くなってしまった。
もうこれ以上、踏み込んじゃいけない。
踏み込ませてはいけない。
「俺また勝手なこと言ったか? うまくいかねーなぁ……エヴァにちゃんと分かってて欲しかっただけなのに」
「……そんなの、分からないわ」
「は? 嘘だろ?? 俺これでも結構な覚悟で――」
「あなたは不死をなくす方法を一緒に探してくれればいいの! そこまででいいの! ずっと側にいる必要なんてないのよ……!」
頬に添えられた指を引きはがしたら、ルシファーは驚いて手を引いた。
気遣わしげにのぞきこまれた目を、見返せない。
「私たちが今一緒にいるのは、そうする必要があるからよ……! それ以外の理由なんて、いらない」
ルシファーは少しの間黙って私の顔を見つめると、片手に抱えていた幼獣を床に下ろした。
「いらない、って……?」
傷つけた。
そう思っても、謝るわけにはいかない。
「お前、俺に側にいて欲しいって、言ったよな?」
「……あのときと今は違うの」
「じゃあ、なんだよ。もう俺に……いて欲しいとは思わないのか」
「……いて欲しいとか、欲しくないとか、そんな風に思う必要はないわ。私が死んだら契約も終わるもの。私たちは従魔の契約を解除するための方法を探す、運命共同体。それだけでいいじゃな――」
ふいに肩が引き寄せられた。
その力の強さに、抵抗の一切が無意味と知る。
目の前に迫った紺碧の瞳が、痛そうに細められた。
「――いいわけねーし」
少し苛立った、低い声。
「お前なに? 俺に嫌われたいの? そんなに俺が嫌い?」
「……っそうよ! 距離感のおかしい人は嫌いだって言ってるじゃない……!」
「俺はこういう自分も結構好きだけどな」
「は……? なんでそこで開き直って……馬鹿なの?」
「馬鹿はエヴァのほうだろ。俺はお前が思うよりずっと、人から向けられる嫌悪には敏感なんだ。そういう意味不明な嘘つくな」
「う、嘘じゃないわ。デリカシーのないルシファーなんて、別に好きじゃないもの」
「あー……はいはい。じゃあもうそういうことでいいよ、今は」
肩を掴んだ手は、離れる気配がない。
ひとつため息をつくと、ルシファーは続けた。
「いいか、エヴァ」
「な、なによ」
「俺は俺のやりたいようにやる。お前がいくら望んでないって言っても、信じてやらない。不死をなくしても、死なせてやるつもりもない」
「……また……そうやって勝手に……」
「いつだって、俺はここにいる。エヴァが不安なら、いつだっていてやる。泣かないですむ方法を一緒に考えてやるから、変な意地張るな」
聞きたくない。
やめて、もうそんな優しい言葉は聞きたくないの。
押し返そうとしたら、逆にきつく抱きしめられた。
「俺、いつかお前に『生きてて良かった』って言わせてみせるからな」
覚悟してろよ――と、温かさをまとわせた言葉に、今度こそ全身から力が抜けた。
「……ルシ……」
思わずその背中に、自分も腕を回しかける。
(違う……!)
かろうじて思いとどまると、そっと手を下ろした。
違うの。
それは一番、怖いことなの。
私に必要なのは、伸ばされた手をとらない覚悟だ。
自分から手を伸ばさない覚悟だ。
不死をなくして消えるときに、なにも残してはいけないから。
幸せの光が明るく進む道を照らせば、足元には暗く濃い影が落ちる。
温かい場所に帰れないことくらい、最初から知っていたのに。
ルシファーを使い魔にしてしまった、あの瞬間から。
きっと私たちは、ひどく悲しい未来に向かって進んでいる。
しばらくそのまま、無言でお互いの鼓動を感じていた。
ルシファーは私の頭を撫でる手を止めると、言った。
「エヴァってあったかいよなー……」
「……あなたの体温が低いのよ……」
ぽつりと、なるべく平坦な声で返す。
「そっかなぁ……」
そう言うと、腕の力が緩んだ。
ルシファーはそのままずるずるとずり落ちて、腰にしがみつく形になってから、ごろりと仰向けになった。
「眠い……もうちょい寝る」
「え? 寝るって……」
それだけ言うと、信じられないことに寝息を立てはじめた。
足にかかる頭の重量に、身動きが取れなくなってしまったことに気づいたけれど、もうどうしようもない。
少し寝癖のついた黒髪に、おそるおそる指先で触れてみる。
今度は眠ったままだった。
(今だけ、よ……)
何度そう思っただろう。
こんな時間が積み重なっていったら、辛すぎる。
自分の中でルシファーの存在が大きくなっていくのは、もう否定できなかった。
でもこの気持ちがなんなのかは、知らなくていい。
「犯した罪ごと……災いの引き金になるものを消すのよ。生きることの辛さは、死ぬことが救ってくれる。それでいいの。それ以外は、選べないの――」
一緒に生きたいなんて。
それだけは、求めたらいけない――。




