112 おかえりなさいのあとに
「嘘つかないで」
「いや、嘘じゃねえって」
就寝前。深夜。
仕切られた部屋の奥で寝ているのは、丸まった白い幼獣だけだ。
いつもなら寝ているはずのエヴァは、なぜだか俺の前に仁王立ちでいる。
あれか、昼間寝すぎてまだ目が冴えてるのか。
そして俺たちは、押し問答の真っ最中。
「魔力、あれから結構消費したってロシベルさんから聞いたのよ」
姉さんは帰り際、わざわざ千鳥亭に寄って「アルティマで待ってるから、遊びに来てね」と言い残していったらしい。本当にろくなことをしない。
俺の魔力はまだ全然足りてる。
貧血になるまで我慢する気はないが、頻繁に供給してもらうつもりもなかった。
本格的に中毒患者にされる危険性があるからだ。
色んな毒を摂取してきた俺には分かる。あれはヤバい。
「本当にまだ平気だって」
ソファーにどっかり座った俺を、エヴァは疑いの眼差しで見下ろしている。
「信じられないわ。ロシベルさんが教えてくれたの。次からは具合悪くなる前に、早めに供給しておいたほうがいいって」
姉さんめ、余計なことを。
「いくらなんでも早すぎだろ。まだまだ大丈夫だから……」
「あなたの『大丈夫』はもう信用しないことにしたのよっ!」
前回、我慢して言わなかったことを根に持ってるらしい。
「大丈夫」を一刀両断すると、エヴァは手を伸ばして俺の服を掴んだ。
「もう普通に供給できるんだから遠慮なんていらないのよ。足りなくなる前に、少しだけでも供給しておかないと」
「待て待て俺の話も聞け。遠慮じゃねーから」
「なんで避けるの? その時点でおかしいじゃない」
おかしくない。おかしくないから。
お前が分かってないだけで、俺には十分断る理由があるんだって。
そうも言えないまま視線をそらしたら、「ちょっと、答えなさいよ」とぐいぐい腕を引っ張られた。ああ、どうするか、これ。
無言で腕を取り返したところ、うっかりエヴァごと引っ張ってしまった。
「あっ……」
倒れてきたエヴァを受け止めたら、俺が肘掛けに後頭部をぶつけた。
地味に痛い。と思っていたら、頬の上にさらりと白銀の髪が流れた。ふいに吸い込んだ甘い魔力の匂いにどきりとする。
……いやいや、俺は虫じゃないからな? 香りなんかに惑わされないぞ。
「ず……ずいぶんと大胆ですね? エヴァさん?」
動揺に気づかれないよう軽口を叩いたら、人を押し倒した気まずさで真っ赤になったエヴァがガバッと上半身を起こした。
にらまれても俺、悪くないからな。
「あっ、あなたが馬鹿力で引っ張るからいけないのよ! それに、魔力供給のときは意識が飛ぶこともあるから、横になれる場所のほうがいいってロシベルさんが言ってたし――ちょうどいいわよ!」
あの姉はあぁぁぁ……この状況を想像して絶対楽しんでるだろ……!
「ちょうどいいか……そうだな。スキンシップ歓迎」
続く軽口と一緒に腕を伸ばしたら、案の定エヴァは飛び退いてソファーに座り直した。そのままキッとにらんでくる。
「勘違いしないでよね?! これはあくまで必要だからするのよ!」
……なんか、モヤッとするんだよなぁ。それ。
「ほらっ、ルシファーも座って! 魔力供給するんだからっ」
人の返事も待たずに、エヴァは俺の手を引っ張った。
大義名分があれば手を握るのも抵抗はないのかよ……。
結局は逃げられないだろうことを悟って、仕方なくもう一度座り直す。
「その……本当に、ちょっとだけでいいからな……」
「くどいわ」
本当の本当に、俺をお前の魔力ジャンキーにしないでくれ。
言えないまま、肩を落とす。
エヴァは俺の手を両手で抱えると、祈るように胸元に近づけた。
艶のある唇が「分かったから、じっとしてて――」とささやいて。
純度の高い宝石みたいな、赤い瞳が閉じていく。
そのまま見惚れていたら、握られた手から白く透ける魔力が立ち上った。
ふくらむ気配に、首筋が震える。
熱気をふくんだ魔力は、流れるように内に押し寄せてきた。
(これは……ある意味暴力だよなッ……!)
受け取り拒否とか、全く許されないことが分かる。
姉さんが「とっても美味しい」と評した魔力は、味として知覚できるかどうか分からなかった。
それでも人を酩酊させる甘い匂いは、じわじわと強さを増していく。奇妙な浮遊感に目の前が眩んだ。
(俺が中毒患者になるとか、ありえねぇだろ……!)
強烈でも不快でないのだから始末に負えない。
この甘さにずっと浸っていたい。溺れたいという欲求を、意識の外に振り払おうと努めた。
「――このくらいでいいかしら。良かった、ちゃんとできたわよね?」
少しのあと。エヴァは供給を止めるとあっさり手を離した。
ぱたり、と膝の上に落ちた俺の手を見て、不思議そうに小首を傾ける。
「……ルシファー?」
見るな、と言いたかったけど、声が裏返りそうだったので黙った。
やばい、汗でてきた。
「顔が赤いけど、大丈夫? 私、なにか間違えた……?」
「……っ」
額に伸ばされた指に、余計に体温が上がる。
「待……さわんなって」
軽く払ったら、エヴァが驚いた顔をした。
違う。
拒絶したかったわけじゃなくて。
知られたくないんだ、魔力供給がどんなものか。
知られたら、なにか余計に、大事なことが歪んでしまいそうで――。
「……必要だからじゃ……ねえよ」
「えっ?」
よく分からないけど、俺、なんかおかしい。
こんなにイライラして、頭の中、絶対どっかおかしい――。
「っ暑いから、ちょっとだけ外で涼んでくる……先寝ててくれ!」
立ち上がると、呼び止める声も無視して部屋を飛び出した。
(俺は別に、エヴァの魔力が欲しいわけじゃない)
使い魔と主人に利害関係があるなんて当たり前だろうけど、俺とエヴァは違う。
だって、俺らは主従になりたかったわけじゃない。
エヴァだって、俺のこと友達だって言ってたじゃないか。
じゃあなんで。「必要」だからだなんて。
素直じゃないだけだと分かっていても、そんな言葉で片付けられるのは納得がいかなかった。
「……なんなんだよ、くそっ」
ホテルの従業員用口から、裏の非常階段に飛び出した。
足音を立てずに一気に屋上まで駆け上がる。
この苛立つ気持ちに名前が欲しくて、科学国の明るい夜空に翼を広げた。
答えをくれそうな人物がいる方へ。
11番街は一飛びで目の前だ。
あっという間にたどり着いた上空から、ブラックマーケットの位置を捕捉する。
闇夜に紛れて降下すると、千鳥亭の目の前に着地した。
衝動的に飛んで来てしまったが、階段の下の扉には「CLOSED」の看板がかかっている。
訪ねるべきか、やめておくべきか躊躇していたら、ふいに扉が開いた。
「……ルシファー?」
現れたのはセオだった。
俺を見ると怪訝な顔で階段を上がってきた。
「帰ったんじゃなかったのか。こんな時間にどうした? エヴァは――」
「エヴァは置いてきた。すぐ帰る。マスターいるか? ちょっと、話聞いて欲しいことがあって」
「……いるにはいるが、今か? 明日で済む用なら今日はもう休ませてやってくれないか。疲れているようなんだ」
「あ……そうか……そうだよな」
今日はマスターにとっても色々あった。それにとうに日付が変わっている。
まだ営業してるかと思ってきたが、こんな時間に訪ねてくるのは非常識だった。
「俺にとっての活動時間は、普通みんな寝てるもんな……悪かった」
帰ろうと背を向けたら、「待て」と声がかけられた。
「話を聞いて欲しいことがあるんだろう? 俺ではマスターの代わりにはなれないが、それでもいいなら家に寄っていくか?」
思いがけない誘いに驚いた。
「え、いや、でもセオだって疲れて……」
「掃除屋は24時間営業だから問題ない。来るのか? 来ないのか?」
わずかだけ考えたが、その誘いは不快ではなかった。
聞きたいことが聞けるかどうかはともかくとして、少しだけ頭を冷やす時間が欲しくて答えた。
「……行く」
歩き出したセオの後をついて、街灯もない、妙な臭いの漂う路地裏を歩いて行く。背筋を伸ばした後ろ姿を見ながら、思った。
こいつは本来、こういう場所にいるような人間じゃない気がする。
汚い闇の職業が、どうにもそぐわない。
「なんか……セオって、元の育ちは良さそうだよな」
「……なんだ、急に」
「いや、なんとなくそう思っただけ」
それきり会話もなく、千鳥亭から200メートルほど離れた3階建てのアパートにたどり着いた。
入口にはセキュリティがついていて、比較的きれいな佇まいだった。
3階まで上がって、端の部屋の前にたどり着く。
「ここだ。靴は脱いで入ってくれ」
青銅色の金属扉を引きながら、セオが言った。




