011 家出の日
真新しいカーペットに、生温かい飛沫が散るのを見ていた。
見慣れた赤は、床の青と混ざってどす黒い色に変わる。
俺たちに流れる血も赤いんだな、と。
当たり前のことを再認識しながら、2番目の兄が膝をつくのを見ていた。
何かを笑いたくなる衝動と、わずかに感じた不快感の正体が分からないまま、血のついた右手を持ち上げる。
この体に不釣り合いな鬼の手は「人間らしさ」から程遠い。
鋭く硬い爪が似合いの人ならぬ手。殺戮に最適な道具だ。
役目を終えたその攻撃的なフォルムは、俺の意思で一瞬の後に10代の男子らしい形に姿を戻す。
「くそっ……! フェル……お前、やりやがったな……!」
視線を下げると、蒼白の顔に怒りを滲ませたシュルガットと目が合った。
血を分けた兄弟が床に這いつくばり、苦しそうに肩口を押さえている。
それを目の当たりにしても、俺の心になんら響いてくるものはない。
「悪いね兄さん、俺もう行くよ」
すぐ横を通過しようとしたところで、血のついた手が俺の足首を掴んだ。
「このまま行けると思うなよ……! 家族間の殺しは禁忌"ゼロ"だぞ……!」
興奮するとどもりがなくなる兄は、そう絞り出すと俺を睨んだ。
足を止めて、ため息とともに兄を見下ろす。
「その程度で死ねるわけないじゃん。神経も大きな筋肉も外してあげたろ? 全治2~3週間てとこ。フォリアに治してもらえば一瞬で完治するよ」
「なっ……」
「そんなことも分からないなんて、実戦足りなさすぎるよね。そもそも最初に捕縛用の魔道具を持ち出してきたのはシュガー兄さんじゃないか。俺が後れを取るわけないのに。馬鹿だなあ」
「僕が馬鹿だと?! 僕の頭脳は誰よりも完璧だぞ?!」
「そうだね、兄さんは天才だけど、馬鹿なところが残念なんだよね」
掴まれた方と反対の足を持ち上げて手首を踏もうとしたら、シュルガットは慌てて手を引っ込めた。
裏が特殊な金属に加工されている俺専用の靴は、片方だけで3kgある。ミートハンマーよろしく、踏まれれば痛いだけではすまない。
作った本人だからこそ、よく理解しているだろう。
「もう止めないの? それじゃ俺行くね」
「ダメだ! 許可できない! 母さんがどれだけ今まで――」
シュルガットはそこで言葉を切ると、息を飲んだ。
ごくり、と飲み込んだツバの音がこちらまで聞こえそうなほど、怯えた感情が伝わってきた。
「どれだけ今まで……? 何?」
冷え冷えとした問いが、俺の口からもれる。
「お前を、一流の暗殺者にするため、に……」
「冗談じゃない」
吐き捨てるように答えた。
強くなれと。
誰よりも強くなれと。
そう言われ続けて20年。
確かに俺は強くなった。破壊に理想的な特殊能力と合わせれば、接近戦において俺よりも優れたものなど、まずいない。
だがここにきて、それの価値はよく分からなくなった。
強くなれ――。
何のために?
殺すために?
くだらない。
どうせそうしているうちに死ぬんだろう? 俺たちも。
「暗殺も強くなるのももういいよ。俺は俺のやりたいように生きていく」
「何を馬鹿な……強さを求めるのが僕たちの」
「知るか! あとな、俺は大きくなりたい。こんなガキのままの体じゃなくて、兄さん達の身長を超えられるくらいもっと早く成長したいんだ。長寿薬なんてもう飲むもんか」
「ま、待てフェル! 僕が母さんに叱られる……!」
テラスに続く掃き出し窓を勢いよく開け放つと、灼ける陽光が目に飛び込んできた。
今日はいつもより太陽が近い。
魔力のない人間は肌を光にさらして歩くことすら出来ない、昼の時刻だ。
部屋の中の快適な空調設備に別れを告げると、俺は背に隠れた黒い翼を具現化した。
漆黒を愛する姉が「この世の造形の中で最も美しい」と称する、闇色の翼。
「バイバイ、シュガー兄さん」
円を描いて舞った風が、周りの草を揺らす。
俺の足は地上を離れた。
(行き先は)
ここではない、どこか。
行ったことのない場所がいい。
「ルシフェル! 待て――……!!」
兄の声は瞬時に眼下へ遠ざかった。
同時に、容赦ない晴天が俺を迎える。
その先にあるだろう『自由』を求めて。
俺は今日、この家を出る。
胸の高鳴りは期待感からか。それとも――。
「暗殺稼業とは、サヨナラだ」
どこまでも続く空に、俺を縛る足枷はなかった。
短めなので、もう一話かなり短いのを続けて投稿します→しました。




