100 怖くない
自分になにができるかと考えて、最善が分からないことなんてザラにある。
良いか悪いかで物事を考えると行き詰まるし、どうすれば正しいかなんて誰にも分からない。
それに俺は、そういうことを論じられるような人間じゃない。
エヴァにとって頼れる存在でなかったとしても、俺は迷わずに自分のやりたいことをやるだけだ。
不死をなくす方法があるのなら、探してもいい。
でも見つけた先で、エヴァを死なせるのはダメだ。それだけは本人がどんなに望んだって、叶えてやらない。
俺が嫌だから。
流動剤のおかげで、エヴァの魔力は勢いを増しているようにみえた。流れを良くする効果を狙ってのことだから、これでいいんだろうが……。
当の本人は膝の上で手を握りしめたまま固い表情だ。変わらず魔力を閉じ込めようとしている。
わずかでも不安を取り除きたくて、細い肩に手を置いた。
「エヴァ、大丈夫だから、少し力抜けよ」
「……っ」
不安に揺れる、夕焼け色の瞳と目が合った。
エヴァの目は普段はもっと澄んだ赤だ。オレンジがかったこの赤になるときは、よくないことを考えているときだと、最近気づいた。
リアムの家で医者が流動剤を使ったときの、エヴァの動揺を思い出す。
心の問題で魔力を外に出せないと思い込んでいたくらいだ。その思いは、強迫観念に近いのかもしれない。
「アクセラレータが外にもれても、それ自体は大したことじゃない。普段通りにしていて大丈夫だ。俺がいるだろ」
「……どこから来る自信なのよ、それは」
「自信の出所なんてどこでもいい。俺が大丈夫だって言ってるんだから、お前も大丈夫だって思ってればいいんだ」
胸を張って説得力のない理由を口にすれば、エヴァは「なにそれ。馬鹿みたい」と言ってまた視線を落とした。
痛そうなくらい握りしめていた手が緩んだのを見て、少しだけホッとする。
「姉さん、本当に任せていいのか」
あとは、澱とやらを溶かすだけ。
尋ねると、姉さんはパチリとウィンクしてみせた。
「ええ、任せてちょうだい。フェルの健康のためだもの。ここでしてもいいけど……さっき程度には脱がせたいから、別の部屋がいいかしら」
「ふたりだけでするのか……? それ、嫌なんだけど」
「心配しないでも痛いことはしないわよ。これはあくまで治療。マスター、どこか一部屋貸してくださらない?」
「ああ、じゃあそっちの部屋使って。楽器が置いてあるけど、座るとこはあるから」
マスターの厚意に甘えて、奥の部屋を借りることにした。
思ったよりも広い部屋で、一番奥に黒いグランドピアノやドラムセット、壁際にいくつかの楽器や機械が置かれていた。
音楽スタジオってやつか。こういうとこはじめて入った。
「ほら、フェルは出て待ってなさい」
もの珍しくて眺めていたら、姉さんに背中を押されて追い出された。
向こうを向いているエヴァの表情は見えない。
扉を閉める直前、姉さんが「これ忘れてたわ」と、薄いシートを押しつけてきた。シュガー兄さんが手配したらしい、セントラルの地図だ。
「絶対、乱暴なことするなよ」
「しないわよ、安心して待ってなさい」
その笑顔が怖いんだよ……。
重たい音を立てて扉が閉まった。
心配で扉の前に立っていたが、中の音は聞こえてこない。落ち着かない様子の俺を見て、マスターが苦笑いした。
「ルシファー君、そこ、防音室だから聞こえにくいんだよ」
「そういうことは早く言ってくれ……」
べったり扉に張りついたら、かすかに声がした。
なんかエヴァ、嫌がってないか??
「おい! 本当に大丈夫なんだろうな?!」
ガンガン、と扉を叩いてみる。
わずかな間のあと、エヴァが叫び返してきた。
「ルシファー! 入ってきたら、絶対許さないから……!」
「――だそうよ。フェルはおとなしく待ってなさい」
ふたりの声に脱力する。なにやってんだろ……。
仕方なくカウンターに座って待つことにした。
マスターが出してくれた果実ジュースの黄色い液体を、ストローでぐるぐるかき混ぜて気を紛らわす。
めちゃめちゃ時間の経つのが遅い。
しばらくそうしていたら、エヴァたちよりも先にセオが出て来た。
マスターが振り向いて声をかける。
「気分はどうだい?」
「スッキリした。頭のもやが晴れたようで爽快だ」
「……うん、そうか」
短いやり取りでふたりは黙ると、セオはカウンターから出てきて俺のとなりに座った。
チップを取ったらしいところは、長めの後ろ髪に隠れて見えない。
ぱっと見はなにも変わっていないように見えるが……
「連れはどうした?」
「え? ああ、エヴァは今、あそこだ」
「防音室?」
「ルシファー君のお姉さんが来てるんだよ。治療中なんだ」
俺の代わりにマスターが答えた。
「君の身内が……治療中? どうしてまた」
「姉さんのことは気にしないでくれ。治療はこれを届けに来たついでだから」
セントラルの地図を指でつまんで持ち上げる。
セオはそれを受け取ると、真剣な顔で眺めた。指で拡大したり縮小したりしながら、内容を確かめている。
「ずいぶんと詳細に書かれているな……だがドームの中へはどうやって入るんだ。東西南北の門は憲兵がいて無理じゃないのか」
「正面から穏便に通してもらうのが一番だけど、さすがにドームは無理かなぁ。俺、VIPな偽造身分証あるから、大抵のとこは入れるんだ」
「偽造身分証、か……俺はないな」
そんな話をしていたら、防音室の扉が開いた。
出てきたのは姉さんだけ。俺は椅子から立ち上がって、そちらに向かった。
「エヴァは? 澱ってのは取れたのか??」
「ええ、きれいさっぱりいただいたわ。さ、魔力供給いってらっしゃい」
ドン、と押されて部屋の中へ入る。
エヴァは壁際のソファーにぐったりと倒れていた。
「エヴァ……?!」
「大げさね、生きてるから大丈夫よ。ああ……どのみちなにしても死なないんだったわね、ふふ」
そんな声とともに、ガチャリと背後で扉が閉められる。
仰向けに横になったまま動かないエヴァに駆け寄って、傍らに膝をついた。
「エヴァ、大丈夫か? ひどいことされなかったか?!」
「……ルシ、ファー……?」
姉さんめ、わざと剥いたままにしていったな。
目をそらし気味に、着ていたパーカーを脱いで上半身にかけてやった。
「気分どうだ? 魔力、動かせるようになったか?」
「……はやく……ないと」
「え? なんだ? 聞こえない」
聞き取ろうと顔を近づけたら、伸びてきた2本の腕が俺の頭を抱え込んだ。
引き寄せられるまま、ぽすんと白銀の髪に頬が埋もれる。
瞬間。むせかえるような甘い香りが広がった。
我慢していたはずの空腹が、耐えがたい乾きに変わる。
「ちょっ……待て……!」
吸血鬼が獲物に牙を立てるときって、こんな気持ちなのかもしれない。
欲に負けて吸い寄せられるように。
目の前の白い首に噛みついただけじゃ、俺の空腹は満たされないと分かっていても。抗えない衝動に突き動かされそうになる。
(新手の拷問かよ?!)
「エヴァ、離してくれ……!」
焦って離れようとしたら「ダメよ」と細い腕に力がこめられた。
普段俺が触れようとすると、叩くか逃げるかするくせに。
「ルシファー……」
なにしてくれんだ、お前は――?
「大丈夫。怖くないわ……」
自分に言い聞かせる言葉のあと、膨れあがった白い光に飲み込まれた。




