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第二章 虚無は深く。宇宙は神苑。神は裁きを知らず。 3

 …………。少し前の話になる。

 …………。

 ……。

 キマイラは現在の自らの生に対して、困惑していた。



 あの古城から戻って、何ヶ月、過ぎたのだろうか。

 キマイラは、未だに生きている事が信じられない。


 何で、生き残ったのだろうか。そんな陳腐な疑問。

 この世界に生きてきて、あそこまで窮地に立たされたのは久しぶりだった。

 別に今更、死ぬ事なんて怖くない、というか、少し、死は解放なのかも知れないと思う時がある。

 悪鬼の名を持つ、弟、ゴブリン。

 弟の為に、ずっと何十年も生きてきたようなものだ。

 弟を失って、自分の生きる目的を見失ってしまった。

 弟は、敢えて言うならば、愚鈍で蛆虫のような奴だった。成虫になって、飛んでいける、蝿にもなれない蛆虫。不快で醜悪なだけでしかない。……。

 子供の頃の話だ。

 弟は自身の能力をコントロールし切れず、自身の脆い自我もコントロールし切れずに、実の両親を殺してしまった。キマイラは、その事を今でも赦せない。

 弟を、今もなお、絶対に赦していない。

 と、同時に。そんな弟だからこそ、守らなければならないと思っていた。それは、盲目的で偏執的で狂信的でさえあるのではないか、と自分では思う。

 だが、それも。

よく分からないが、やはりこれは、家族愛、という奴だったのだろうか、と。

 キマイラは、廃墟のような屋敷を訪れる。

 外装こそ汚いが、中は小奇麗に掃除が行き届いていた。人が住める場所になっている、勿論、一見、廃墟に見えるのはカモフラージュの為だ。

 一通り、家具や台所、風呂場など、生活に必要なものは揃っている。

 此処は、いつもキマイラが隠れ家として使っている場所だ。今の処、襲撃された事は無い。

 彼女の傍らには、一人の少女が寄り添っていた。少し男の子っぽい服装だが、それは少しでも彼女の女性的な弱さを克服させる為にと、彼女の以前の“保護者”が、彼女に与えたものだった。

 彼女の名前は、モニカと言う。

 人見知りで、情緒不安定、そして泣き虫だった。いつも自分の殻に閉じ篭っている。

 キマイラはそんな彼女が、別に嫌いではない。

 弟の死に関与した者から、キマイラは彼女の保護を頼まれていた。

断らなかった。

 彼女の元々の保護者は、キマイラにとって復讐対象でしかなかったが、彼女は違う。

 新しい人生を迎える手助けをしてもいいと思っている。

「貴方は、今日から。此処で、寝泊りするけど、いい?」

「は、はい……」

 モニカは震えている。

 無理も無い。

「貴方って家事出来る?」

 モニカは、ぷるぷる、と小動物のように縮こまったような顔をする。

 そして、首を勢いよく横に振った。

「へ、下手です。……わたし」

「そう」

 キマイラは、特にその答えに感慨を見せる事は無い。

 この羊の角を生やした女は、モニカに一つ一つ、屋敷の中の構造を教えていく。台所やバストイレの場所など。

 冷蔵庫には、アルコール類ばかりが入っている。

 それから、戸棚にはタバコが何カートンも置かれており、その隣に申し訳程度に缶詰が積まれている。

 殺風景のような場所だった。

「何か、買出しに行く?」

「え、えとあの……」

「そうね、疲れているんでしょう?」

 キマイラは淡々と言った。

 モニカはやはり怯えている。それは分かる。しかし。

 キマイラには、そんな感受性がもう分からない。他人への共感は、何処か、壊れてしまっている。昔はもっと違っていたように思える。きっと、モニカの今の不安も理解し、共感したのだろう。

 自分は、鈍感なわけでも、愚鈍なわけでもないと思っている。

 別に、繊細さが無いわけでもないと。しかし。

 何処か、ズレている。おかしい、それは自分でも分かっている。

「ああ、そうだ。モニカ」

 未だ、面と向かって、目を合わせてくれない少女に向かって言った。

「私、他人の痛みって分からないから。貴方を容赦無く傷付けるかもしれないし、不快に思わせるかもしれない。分かんないんだけど、私ってほら、貴方のお友達、殺しちゃったじゃない。そういう人間と一緒にいるとやっぱり、嫌なのが普通よね? それは理解している」

 その事実を、キマイラはやはり感情の灯らない声音で告げていく。

 すると、モニカは、もう一気に泣き出してしまった。

 怯えているようでもあり、その事実を振り払おうとしているようにも見えた。

 キマイラは少し、困惑したような顔になる。

「え、……。私、何か、失言したのか?」

 キマイラは理解していない。

 自身の発音の冷淡さ、無感情さを。

 モニカは受け止めてしまう。

 それは、まるで見えない氷の刃のようだ。

 人間は、声の質、口調、抑揚などによって、言葉の与える意味合いが変わってくるのだと。キマイラは知らない。一応、理解こそしているつもりだが、実感が無い。

 言葉の持つ、あるいは言語表現、声のトーンの持つ暴力性を理解出来ない。

「ああ、そうね。ごめんなさい」

 彼女は、また抑揚の無い声で、モニカにそう言った。

 更に、その無感情さが、モニカを傷付ける。

 一体、どういう風に接すればいいのだろう?

 キマイラは思う。

 いつもならば、コミュニケーションの相手は、ハンターやら殺人犯やらばかりだった。そんな奴らと関わる上で、まともなコミュニケーション能力など必要無かった。

 でも。

 今は、“人間”と触れているのだ。

 それも、普通の、弱い人間、と。

 この泣き虫の少女は、きっと辛く生きてきたんだろうなあ、とは思う。

 それに関しての、深い想像力までは及ばないが。

 この世界は、こんなに弱い人間が生きていられるような場所なんかじゃない。

 だからこそ、弱い人間は死ぬべきだ、などとは、キマイラは思わない。

 強い人間は大抵、醜い。強欲で傲慢で、サディストで支配的な奴らばかりだ。そもそも、人間の強さ故に、死ななくてもいいだろう、人間が沢山、死んでいる。

 権力だとか、貧困だとかも、強い人間がいるからこそ、その格差は広がっている。

 弱肉強食の摂理が嫌いだ。生物の規範が嫌いだ。

 突き詰めて考えれば、人間もそういった生物の一種。

 だからこそ、キマイラは人で在りたくないのかもしれない。

「ああ、そうそう。モニカ。青髭の物語じゃないけれど、地下室には近付かないように。一応、地下は貴方が絶対に近付いてはいけない場所だから」

 そう言いながら、キマイラは地下に鍵を設置していない事を悔やんだ。

 どうせ、誰もこの屋敷に近付かないだろうし、仮に誰かに侵入されたとすれば、鍵など合っても無意味なのだから。



 夜だった。


 キマイラは、ありったけの食料を買い込んでいる。

 彼女は何が好きなのだろう? そんな事を思い返す。あんまり料理には自信が無いので、インスタントで食べられるものばかりだが。

 家を出て、二時間。彼女はちゃんと家の中で待っているのだろうか? それとも、屋敷を逃げ出したりしてしまっていないか。

 モニカはいた。

 何をするわけでもなく、台所の椅子に座っていた。

 どうやら、二時間もの間、ずっとそういう風に座っていたらしい。

 動くのが怖い。そう察する。

 あと、それから。

「トイレの場所、そこから遠いでしょ。一緒に連れていって上げるわよ」

 俯いていた彼女は顔を上げた。

 そして、キマイラは彼女をトイレへと連れて行く。

 水洗トイレだ。ちゃんと水が流せる。トイレット・ペーパーの買い置きが無かったので、それも買ってきた。

 モニカがトイレに入っている間、キマイラは夜食を作る事にする。

 作るといっても、適当に買ってきた冷凍食品をレンジに放り込んだり、ティーカップに紅茶を注いだり。惣菜のチキンや白身魚を盛り付けたり。

 自分の味覚も変なのも、自覚している為、人様に自分の料理なんてとても出せやしない。

 モニカはトイレに閉じ篭っているみたいだった。

 この子は、本当に隙あらば、自分の殻に閉じ篭る。

 キマイラは言った。

「夕食出来たわよ、出ていらっしゃい」

 たっぷり十分近くかけて、彼女は外に出る。

 そして、彼女をテーブルの前まで連れてくる。

 無言のまま、キマイラは皿に乗った料理を口に入れていく。

 その際に、ドレッシングやケチャップ、ソースや香辛料の粉末などを、めちゃくちゃに料理に振り掛けて食べる。

 そして、ぐちゃぐちゃと音を立てて、口に運んだ。

 モニカは出された食事を、おそるおそる、口にしているみたいだった。

 顔を見る限り、味を感じなさそうだった。

「ちゃんと食べなさいね。嫌いなものは残してもいいから。食べられるものは食べなさい、何だかんだで、貴方、衰弱しているから」

 そう、彼女の肉体の調子は余り良くない。

 きっと、身体にも異変が出ている筈だ。



「モニカ。サイコパスって言葉、知っている?」

 いつも怯えている、小柄な少女は首を縦に振る。

「私、それみたいなのよねえ。他人に対する共感の欠如。他人に対する苦痛の共感性の無さ。後、ちょっとサディストな部分もある。ああ、勿論、向ける対象は完全にコントロールしているけど。人の痛み、分からないから。自分の衝動しか分からない。もっとも、『能力』のせいもあるけれど。その視点で考えるのって意味無いか。能力って、そのまま持ち主の人格、実存に根差したものになっているから」

 そう言いながら、キマイラは気付く。

 ああ、きっとこの少女も。まったく違ったベクトルとはいえ。

“他者がいない”んだろうなあ、と思った。

 自分の殻の中に閉じ篭り。

 世界を否定している。

 でも、思うのだ。

 キマイラは、そんな人間が嫌いではない。

 そういえば、古城の事を思い出す。

 暴君の周りにいた、女達。

 モニカとどれだけ、仲が良かったかは分からない。

 たとえば、彼女達とモニカはどんな会話をしたのだろう?

 キマイラが殺してしまった女達。…………。

 その事に関して、後悔はまるで無い。

 女達は、敵として向かってきた。だから、殺す必要があった。

 しかし、問題は敵にも、そいつを慕う家族や友人がいるという事実。

 その事に関しては、いつもなら無視する。他のハンターだってそんな感傷は、同じように無視する。そうしなければ、……この世界では、生き残れない。

 ……狂っていなければやっていられないのよ。

 キマイラは煙草の箱を取り出して、火を付ける。

 そして、指で空気を掻き混ぜて、煙がモニカの処に行かないようにする。

 窓の外は、夜闇が広がっている。

 この空間。この時間。

 一体、二人の間で、どれだけの距離が縮まる事が出来るのだろうか。

 ひょっとすると、傷付ける事しか出来ないのかもしれない。

 氷の壁は未だ、溶けない。

 そういえば、彼女くらいの年齢の頃、どうだったのだろう。

 ……、昔の自分はもう少し、優しかったかなあ。思い出せない。

 今はただただ、強い狂気によって支配されている。

 他人の痛みに対する欠落。

 弱さの無理解。

 あるいは、ひょっとすると、強さに対する無理解。

 自分が少女だった頃、一体、どんな性格だったのだろう。思い出せない。

 何十年も生きてきて、今ではただ時間ばかりを浪費している。

 何か。言葉があるのだろうか。コミュニケーションの仕方。

 何故、自分はこのようにしか生きられず、振舞えないのだろう。

 自分の心は、きっと壊れている。これからも、ずっと。

 ただ、キマイラは思うのだ。

 彼女は。この女の子は。

 きっと、キマイラが無いからこそ。大切にしなければならない、何か、だと。


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