第六章 闇の審判 2
視られる事を拒んだ私は。もはや、女ではない。
レイアは思う。
自分自身の信念。
肉体嫌悪。
いや、それ処か。
この世界にある自然、万物の一切を肯定していない。
そう。言うならば。
ロータスとの断絶はそこにある。
彼女は、この世界の中でのみ希望を肯定している。みなの幸福を願っている。
レイアは一人、この世界を抜け出したいだけだ。
…………。
彼女は殺す。
…………。
レイアは。ロータスを倒す為には、何よりまず、彼女の鎧を剥いでいく必要があると考えていた。
気になった事があった。
ビルの中に、住民がいない。
おそらくは、別の場所に避難させているのだろうか。
先に始末しなければならない敵がいる。
先ほど、茶髪の青年に会った場所へと戻った。
そこで、男を見つけた。白い服の男。……。
「で。貴方がクライ・フェイスね?」
彼女は冷たく笑う。
「分かっていたんですね……?」
「ええ」
白いタキシードの男は、口から血を吐いていた。
彼女は、背後から彼を襲撃し、胸板を刳り貫いたのだった。
黒い蓮が揺れている。
「貴方の能力は。到達出来る可能性を減らしていくんでしょう?」
彼女は、大体、六十回近く殴って、やっと彼の肉体を破壊する事が出来た。
「ええ、ええ。……正確に言えば、私の能力は。因果律を操作しているものと、自分では認識しています。たとえば、ボールを壁に投げて、ボールが此方に跳ね返る確率はどのくらいのものなのでしょうか? もしかしたら、ボールは壁にぶつかった時に、そのまま地面に弾け飛んで、こちらに跳ね返らずに壁の辺りを転がっていくかもしれない。運動神経などの問題もあるのでしょうが。そういう風に、私にボールが命中する確率を操作する事が出来るんですね。サイコロの目が、一を出す確率を操作する事が出来る」
「やっかいな能力ね。凄いと思うわよ」
彼女は素直に賞賛していた。
「これで、もう。ロータスへの防御は無いわね」
「…………ですね。貴方はやはり、彼女を殺されるのですか?」
「そうするつもりよ」
そうですか、と言って。
泣き顔は、地面に崩れ落ちた。
彼の肉体は、透明な赤色が流れている。
「私は、『アップル』という実験場で生まれた実験体でしてね」
彼は、口元から透明な血を流す。
「そこを離れて、長くなりますが。この場所に身を置いて。幸福でした」
「そう」
彼女は訝しげに訊ねた。
「処で、貴方って心臓を破壊されたら死ぬの? まさか不死タイプじゃないわよね?」
「違います。後、数十秒もすれば、私はこの世からいなくなる。でも、私は苦痛を感じていない。それはきっと、苦痛の方が私に届いていないんでしょうね。苦痛が私の脳に行く確率は、低く設定してありますから」
「もう少し、巧妙に使えそうな力じゃない。もう少し、私と善戦するつもりはなかったの?」
「いえ……私に、戦闘能力なんて、ほぼありませんよ。応用の仕方も苦手だ、ただ、私はみなが好きでしてね」
彼はそのまま、絶命していた。
『コカドリーユ』のクライ・フェイスは地面に倒れる。
まるで、蝋人形のようだった。
レイアはロータスの処に、すかさず戻る。
しかし。
階段を登る途中。
そこには、一人の青年が佇んでいた。
彼は凛然と彼女を見下ろしている。
少女は面倒臭そうな顔をする。
「あら、貴方も死にたいのかしら?」
彼は首を横に振る。
「いえ、只、弔いに来ただけです」
「そう」
彼女は、あっさりと彼に興味を失った。
†
「何処を向いているのかしら?」
ふふっ、と笑い声が響く。
ロータスの背後から、声が聞こえた。
「あら。貴方、他の誰かに話しかけていたの? それとも、壁に向かってお話していたのかしら?」
レイアは冷ややかな顔で言う。
そして。リュミエールを解除し、ロータスが視ているレイアの幻像は消失する。
クライ・フェイスの殺害によって、彼女の防御は無くなっている筈だ。
『リュミエール』を使って、彼女に幻像を見せ続けて。
途中から、彼女の話を完全に聞くのを止めて。
彼女を守っている能力者を探しに向かった。
さぞ、彼女は滑稽だっただろう。
こいつの話なんて、聞くだけ無駄なのだ。
こいつの世界なんて、どうだっていい。もう少し言えば、こいつの守りたい世界なんてどうだっていいのだ。レイアは自分自身の為に戦うだけだ。
たとえ、それがどれ程、他人に犠牲を強いろうが。もう関係が無い。
レイアは修羅蓮華の拳を、ロータスに向ける。
光の粒。
ロータスの全身が発光する。
祭壇が爆裂する。
レイアは理解する。
こいつの能力は…………。
無制限だ。
何度でも何度でも。反復させる事が出来る。
しかし。
法則性はもう、分かっている。おそらく、彼女の能力ヴィア・ドロローサは。
…………。
一度、歴史の中に生じた人間の苦痛を引き戻す事が出来る。同じ苦痛を、何度でも、フラッシュバックさせる事が出来る。何度でも、何度でも。
問題は、その攻撃に。若干のタイムラグがある。それは、距離と時間に関係するのだろう。だからこそ、タイムラグの短い攻撃を起こすべく。クラスタ内において、苦痛を発生させる必要がある。
こいつは。既に呼んでいた。
あの。……。
……ヴリトラ戦での攻撃を。
そう。……。
レイアに向かって。
ヴリトラを殴り続けた、レイアの拳が反復され、彼女に襲い掛かる。
ヴリトラはやはり、彼女の重要な駒だった。
能力をフラッシュバックさせる為の。ヴリトラはきっと、本望なのだろうか。
レイアは必死で、自分自身の攻撃を防御し続ける。
何物をも、打ち砕きかねない攻撃の連続。
……強い。
レイアは、ビルの外に出ていた。
空中の只中にいる。全身が落下していく。
また、再び、体勢を立て直す必要がある。
レイアは思わず、歯噛みした。
あのウォーター・ハウス。彼ならば。
この女を難なく、倒せただろうに。
ウォーター・ハウスの能力である『エリクサー』を思い出す。
光すらも喰らおうとした殺人ウイルスの攻撃。あれならば、彼女がヴィア・ドロローサで何をやってこようが。更に、永続し続けるウイルスの散布によって。先ほどのクライ・フェイスの防御も簡単に超えて、彼女を余りにも簡単に殺せただろうに。
†
ビル全体に衝撃が響き渡る。破壊音が続いている。
カイリはクライ・フェイスの死体を前にして、考え事をしていた。
仲の良い友人の死。
ヴリトラの死体も先ほど、見つけた。
カイリは悔やんでいる。自分の馬鹿さ加減に。
外部からの襲撃。実は、それは日常の一部として還元されていた。
此処の人間は恨みを買っている者も多い。なので、復讐者や始末人がやってくる事もザラだ。みんな、ヴリトラ達が始末していた。しかし。
ヴリトラの死体を見て。
自分の認識の甘さを感じた。そして。
泣き顔の死。
酷い、後悔を感じている。
分かり合える友人だった。彼もまた、帰る場所が失われてしまった者だから。
フェンリルがいつの間にか、彼の背後に立っていた。
「レイアが気になってな」
彼はそれだけ告げる。
「アニマを守らなければならないんだ。それから、ロータスさまも」
カイリは涙を零していた。
「他はもう、どうだっていい。俺は自分の馬鹿さ加減に苛立っている」
彼は独り呟く。
フェンリルは、そんな彼の背中を眺めていた。
めきり、めきりと、骨が軋むような音。そして、木の葉がざわめくような音。
フェンリルは息を飲む。
カイリ。
確か、『ファイヤー・ブリンガー』という能力だったか。詳しくは聞かなかったが。
彼の背中が裂けていく。
かつて、フェンリルが憧れたもの。
鳥の翼だ。
灰色の鳥の翼が生えてくる。巨大な翼。
灰と炎の能力と言ったか。こいつの力は。
「不死鳥……」
フェンリルは思わず、それを口にした。
ざわざわ、と。生い茂る青葉が、さざめくような音が聞こえた。
カイリは翼を広げる。
「そこ。……どいてくれないかな?」
丁度、窓の辺りに、フェンリルは座っていた。
少し、考えて。首を横に振った。
「断る」
明確な拒絶。
「お前をロータスの処には行かせない。何となく、だけど。オレはオレで、レイアの戦いの邪魔をさせたくない、って気持ちになっている。何でだろう? 不思議な感じだ」
レイアの戦い。
今や、自らの戦いに為りつつなる。
「お前らはロータスの護衛なんだろう? お前らはロータスの能力を有効に使う為に存在している。違うか? ならば、お前を行かせるわけにはいかない。オレがお前を始末する」
レイアの戦いを応援しているのだろうか。それは、きっと。
自らに投影しているからだろうか。……。
「……友人になれたかもしれないのにな」
カイリは少し、寂しそうに呟いた。
「少し。何かが、違っていたんだろうな。俺と君とでは」
フェンリルは眼を閉じる。
「そうだな。オレとお前は違う。どうしようもない断裂があるんだろうな。きっと、生き方も考え方も違うんだ。オレは別に世界がどうなったって構わない」
「俺は苦しんださ。俺なりにな、そして出した結論が。守りたい者を守るって」
「それは叶わない。何故なら、オレはお前を、守りたい者の下へと行かせるつもりがないからな」
そう、宣言してやる。
二人は、瞬時に動いていた。
ナイフのように鋭く尖った翼。
虚空から生み出した二本の剣。
それらが、激突する。
その、衝撃のエネルギーを。
フェンリルは、カイリの胸元に転移させた。
カイリの胸が引き裂かれていく。しかし。
彼の切り裂かれた肉体の傷は、即座に塞がっていく。
「再生と創造かな? お前の能力は」
フェンリルは、すぐに、彼の能力を分析していた。
どれ程の事が出来るのか、出来るだけ早く、理解しなければならない。
「お前じゃオレに勝つのは無理だ。経験の差で。オレはお前をこの部屋から出すつもりは無い。残念だけど、大人しく死んでくれ」
そう言って。
彼は勢いよく、壁を蹴り付ける。そのエネルギーを。
カイリの顔面に瞬間移動させる。
「いつも苦戦させられるのは、狡猾な奴らばかりだった。権謀術数を用いてくる奴ら。お前からはそれを感じない。少しはお前の教祖を見習うべきなんじゃないのか?」
フェンリルは壁を蹴る。
今度は、脇腹にヒットする。
骨がへし折れる音が聞こえた。
カイリの両眼は黒ずんでいる。
フェンリルもまた、彼の相棒同様。何処までも冷酷だった。
「一つ、言っておきたい事がある」
数秒、間を置いて。言い放つ。
「お前の教祖は。世界を救えない。それだけは間違いないだろうな」
それでも。
それでも、クラスタの住民達は、彼女に希望を抱いている。
しかし。返ってくる答えも予想出来た。彼なら冷酷に言うだろう。
そのクラスタの住民もまた、他人の希望の破壊者だ、と。
此処には、殺人犯やテロリスト達が集まっているのも事実。
此処の者達が食べている食物。流通してくる食物などは、何処かの貧しい者達から奪っている部分もある。それが、……世界の環の中で生きているという事実。
「思想で世界を救えるわけがないだろう」
彼の声は、何処までも底冷えしている。
「此処の者達はまだ。幸福なんじゃないのか?」
更に、言葉のナイフを刺していく。
「少なくとも、お前らの言っている官能とやら。食事の楽しみ。景色の楽しみ。それらを味わえて生きているんだろう?」
言葉に悪意を混ぜていく。鋭い刃物をイメージする。
「他人の痛みは、何処までも行っても。他人の痛みだと思うけどな?」
唇が歪んでいた。
この嘲笑は、誰に向けたものなのだろうか。
「君は何の為に生きているんだ?」
「ああ。オレはエゴイズムとナルシズムで生きている」
そうなのだ、彼は。
正義なんて信じていない。他人の為になんて、生きていない。
カイリとの中に引かれた境界線。何処までも分かり合えない断絶。
カイリは、生きる事に絶望していた。けれども、大切な人の為に今を生きている。けれども、彼は他人の為に生きていない。自分の為に生きている。
「オレは悪でいい」
もう一度、彼は壁を蹴り上げる。
カイリの全身が吹き飛んだ。
「君は……」
「オレは搾取する側の人間でいい」
彼は両手の剣をくるくると回転させる。そして。
それを投げ付ける。
カイリの両翼に、それぞれ剣が突き刺さる。
「いいか。人間の生命それ自体が、どのようにしても他人への搾取だと考えている。オレはな。どんなに愛について語ろうが。それは変わらないと思っている。お前らの教祖は、世界を救済したいんだろう? しかし、何も出来ない」
更に、叩き付けるように言ってやった。
「人間は絶滅してもいいんじゃないのか?」
かつて。
かつて、彼が憎んだ強敵。
ウォーター・ハウスが言った言葉。
それを、そのまま、目の前の男に言っている。
ああ。
闇に塗られていくのだと思った。
…………。
フェンリルは人を殺せない。生理的な意味で。精神的な弱さから、殺せない。
もう、それを認めなければならないのではないか。ならば。
殺せないならば、殺せないで、やり方は幾らでもある。
意思を砕く。
彼の心をへし折らなくてはならない。
彼の行動の一切を、無力化させればいい。
「オレは他人が嫌いだ」
彼は空中に跳ね上がる。そして。
地面に勢いよく、着地する。その衝撃が飛んでいき。
カイリの右足を砕いた。
彼は能力によって、再生させるだろう。
それでも、彼を倒し続ける。彼の何かに負けない為にだ。
フェンリルは彼を追い詰めながらも、思考を続けていた。
一つ、問題がある。
こいつは。
こいつの能力は、一体、何なのかだ。
灰と炎とは、一体、何なのだろうか。……。
もし、こいつの能力が、フェンリルが考えている通りならば。
……ヤバイ。
†




