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第六章 闇の審判 1

「貴方の能力『ヴィア・ドロローサ』がどんなものなのか、大体、分かっているわよ?」

 くっくっ、とレイアは笑い続ける。


 その女は、今日、纏っている服は真っ黒だった。

 全身、黒だ。

 あらゆる、色を呑み込んだかのような黒。


 瞑想の座。

 ロータスは、重い腰を上げた。

 黒髪が靡く。

 曼荼羅のように描かれた呪詛の言葉の数々。

 様々な言語圏における世界に対する憎悪と怨嗟の言葉が、渦を巻いて、壁や地面に沢山、描かれて。それが一つの絵画へと為っている。


「可愛い女の子。貴方、お名前、教えてくれなかったのよね。戻ってきたのね。会いたかったわ」

 彼女はにっこりと笑った。

 怖気のするような笑みだった。


 きっと、それは普通は柔和だとかでも言うのだろうか。

 宇宙の神苑の中に佇んでいるかのようだった。

 真っ黒な女と。

 黒白の少女。

 二人は。一切、自身に対して妥協していない。

 信念がある。強い信念が。だから、曲げられない。

「貴方の思想なんて、私にはどうだっていい。貴方は私に倒される。それ以上の事実なんて、必要無いって思ったのよ」

 レイアは一歩、前に踏み出た。

「そう。可愛そうに……。女の子がそういう風に生きている、ってどういう事かなあ? 美しい恋愛とかして、愛する人と一緒に生きたりするのっていいと思うわよ。あなたなら」

「黙れ」

 レイアは鼻で笑った。

「言わなかったかしら?」

 くっくっ、と少女は笑う。

 笑い続ける。

 それは、暗鬱な笑いだった。酷く歪で。

「私は独り、生きる、と。愛なんていらない。愛されたいとも思わない。愛したいとも。馬鹿みたいなのよ。くだらない。おぞましいの。吐き気がする」

 ロータスはとても、とても悲しそうな顔になる。

 痛みによって、心が焼き尽くされていくような。

「わたしも、昔、少女だったわ。自分で言うのも何だけど、可愛かったなあ。その頃を思って、今も思って。わたしは女の子達を大切にしたいと思っているの。とても愛しくて。昔のわたしに言葉を投げ掛ける為に」

「あらそう。けれども、私は少女じゃないかもしれないわよ? この身体は、老いない」

 レイアは彼女の言葉を、ただただ拒絶している。

「ねえ、あなたは今、幸せ?」

 言われて、レイアは面食らった。

 言葉に耳を貸してはいけないと分かっている。

「あなたの心は何色なのだろう? あなたは色を完全に隠している。だから、わたしにも分からないの。でも、あなたはとても綺麗。綺麗過ぎて……」

 黙れと言っている、という言葉を口にしようとして、レイアは止めた。

 彼女の言葉に耳を貸している時点で。

何らかの対話の余地を与えている時点で、駄目だ。

 今は只、彼女を合理的に倒す事を考えなければならない。

 いつもの自分を思い返す。

 決して、油断しない。

 それだけは、戦いにおいて必須としている態度。

 負けられない。

 今は、この女と戦っている、という以上に、自分自身と戦っている。

 全ては、鏡だ。

 全ては、人形のようなものだ。

 レイアは全身を捻っていた。

 空中に浮く。全身が、大きな鎌のような鋭利さを帯びる。

 渾身の飛び蹴りを、ロータスの頚椎へと放っていた。

 このまま首の骨を破壊して、床へ叩き付けて、脳漿を地面にぶち撒けて、新たな肉塊の曼荼羅を作るつもりでいた。そこに何の躊躇も迷いも無い。

 しかし、レイアの攻撃は、彼女へと届かなかった。

 攻撃は空を切っていた。

 彼女は思わぬ浮遊感を味わいながら、何とか片手を地面に付けて、体勢を立て直す。

 ロータスは動いていない。

 しかし、自分の攻撃が避けられた。

 迷っていたからか? ……断じて違う。

 彼女はすぐに至った。

 ……何らかの能力?

 彼女は心の中で舌打ちする。


 ……彼女の能力は大体、分かったと思ったけれども。解答が正しくなかった。…………それも、早計ね。ひょっとして、別の能力者が、守っている……?


 その考えが、自然のように思えた。

 アーティの『ライト・ブリンガー』といい。

 まるで、彼女のエタン・ローズの類型にさえ感じる。やっている事は違うのだろうが、現象自体は近いものを感じる。

 レイアはすぐに考えを整理した。

 この戦いは、試練なのだと。

 自分が更なる先に行く為の。

 触れられざる者。

 それを目指し続ける。

 永遠の無垢。絶対の、敢えて言うならば、処女性……。

 レイアは心の中で苦笑する。

 概念の定義はどうだっていい。

 自分が目指そうとしているものの言葉として、それがあるだけなのだから。

 目の前の敵は、明らかに自分の意志にとって邪魔なのだ。

 排除しなければならない敵。

 あるいは、認めよう。こいつは、雑念なのだ、と。

 立ちはだかるべき、岩山。

 ロータスを屹然と見る。

 彼女を取り巻く曼荼羅は、一種の方陣なのだ。

 ある種の結界のように機能している。

 大宇宙の只中のような、空間だった。

 凍えるような寒さが吹き抜ける。

 レイアは鼻で笑っていた。

 こいつの攻撃は、大体、理解している。

 おそらくは、世界に落とされた何らかのエネルギーを再現させている。

 反復させる能力、とでもいうべきか。

 おそらく、それは人間が負とでも呼んでいる感覚なのだろうか。

 痛み、苦しみ。過去に行われた感覚を、再び、この世界に引き戻す事が出来る。

 視界に、様々な情景が浮かび上がる。

 二つの眼とは違う。もう一つ、眼があって、その眼が現実と重なって見せているような。

 そういう能力なのだろう。

 彼女は世界に落とされた、痛覚を読み取っている。

 そして、それを他人にも共有させる事が出来る。

 それが、ヴィア・ドロローサという能力。

「人間は正しき道を歩まなければならないと思うの」

 彼女はとても悲しそうに言う。

「でも国や社会。そういったものに繋ぎ止められる事によって、人間は人間で無くなってしまう。本来の人間らしさを失ってしまう。わたしはそれを、とても悲しく思っている。ねえ、あなたもそうでしょう? そうなんでしょう?」

 彼女は信じるものを持って、佇んでいる。

「人間の根源は、万物との調和。その中でわたし達は生きている。けれども、みんな、いつしか忘れてしまった。みなが一つである事を。自然とも神とも、一つである事を。邪悪さが全てを支配している。世界は暗黒に包まれている。それを視ようとしない人達だって多い。多過ぎる。この世界は闇に塗られている。わたしは、何とかして、この世界の構造を変えたい」

 ロータスは自分の思想を、雄弁に語っていく。

 レイアは一切、折れなかった。

「ふん。何が根源なのか分からないけれども。私にはどうだっていいのよ。貴方は死ぬべき。私が殺す。せいぜい、覚悟を決める事ね?」

 それを聞いても、ロータスの口調は変わらなかった。

「世界を変える力が欲しい。私はそんな事が出来る人達を集めている。みんな、わたしの下に集まってくる。みんな、傷付けられた人達。ねえ、聞きたいの。…………あなたも、かつて傷付けられた子なんでしょう?」

 レイアは舌打ちした。

 話が噛み合っていない。

 レイアは憎憎しげに彼女を見ていた。

「私が傷付けられた子、か」

 自分でも理解出来ないくらいに、冷え切った声をしていた。

 まるで。ナイフのような感情。

「うん。だって、あなたは可愛いんだもの。綺麗な心を持っている」

「馬鹿じゃないの?」

 彼女は思わず、髪をかき上げる。

「私を。人間の領域の言葉で語るな」

 一瞬、深い憎しみに襲われた。

 レイアは此処で折れるわけにはいかない。

 何故ならば、人間を止めようと思ってしまった時。

 彼女の未来は決まってしまった。

 世界の環から外れるという事。

 少しだけ、顔色が蒼白になる。

 ニアスのモーザ・ドゥーグでさえ届かなかった心。

 折れなかった心。

 しかし、こいつは……。

 こいつの能力は……。


 ……かつて、ニアスは現在の私を倒すだけの力が無かった。しかし、もしこいつが過去の私に干渉する事が出来るとするならば? 反復させる能力とは、つまり何なのか。

 心の傷を呼び戻そうとしている。

 自分が人間を止める前ならば。

 こいつの攻撃は……。

 ざわっと、蟲が這うように、闇が這い寄ってくる。

 過去と。現在と。未来。

 全ては因果律として、繋がっている。

 そう、因果律の環から外れる事さえも出来ない。

 レイアは自分自身の肖像を見る。

 それは、モーザ・ドゥーグの黒い犬でさえ辿り着けなかった場所。

 現在の彼女自身から切り離された過去。

 この世界に来る前の。…………。

 現在ではない。過去の亡霊。

 もう、振り返らないものだが。

 無限のような時間と空間。

 暗黒空間が渦巻いている。


 レイアは自分が自分で在る事。自分の肉体が在るという事。

 精神が在るという事を確かめる。

 言葉に呑まれてはならない。

 ざわざわっ、と辺りに気配が充満していくかのようだった。

 ロータスは両手を広げる。

 能力を発動させようとしているのが分かった。

 レイアは出し惜しみ出来なかった。

 全力で戦うしかない。

 こいつは……本当に、ヤバイ…………。

 時間も空間も分からなくなってしまいそうな場所で。

 ただただ。

 ただただ、悲鳴と悲痛の叫びばかりが反復し、反芻され不協和音を上げて鳴り響いている。様々な場所の。様々な地域における、絶望の叫び声。

 一つの音楽となって、それは奏でられ続けていた。


 ヴィア・ドロローサ。

 リュミエールが発動している。

 ロータスは、レイアの姿を見失う筈だ。


 レイアはロータスの背後へと回った。ロータスは彼女に視線を移さない。効果は発動している。問題はこの先だ。

 レイアの拳が、先ほど、こいつに届かなかった。

 一体、それは何を意味するのか。

 彼女の派生能力か。それとも、他に仲間が……?

 そして、現在の状況。

 辺りが闇に包まれている。

 レイアは焦り始めていた。

 今。まだ、部屋にいるのだろうか。

 ならば、一度、出なければならない。

 もし、彼女の異空間に飲まれているとしたら、危険だ。

 ならば。一度、引くしかない。

 引く……またか?

 他の奴ならば、まだしも。

 こいつに対しては、屈辱だった。

 今までの闘争において、何度となく敗北した事はある。

 ついに勝てなかった相手だっている。

 しかしだ。

 こいつには、負けたくない。

 それは、自分自身を超える事。それにも繋がるだろう。

 レイアは指先から、光の球を生み出していく。それは虹色の色彩をしていた。

 それを、幾つか、ロータスの下へと投げ付けてみる。

 この光の球。大体、彼女の拳くらいの威力はある。

 そのどれもが、黒衣の女の下まで向かっていった後、まるで何事も無いかのように、彼女の肉体を通過していく。

 ……幻影? あそこにロータスはいない?

 レイアは考える。

 それも、早計ではないか、と。直感が言っている。

 再び、撒き散らすように光の球を投げ続ける。

 パシッ、とロータスの頬が弾けた。

 みるみるうちに、澄ましたような顔の頬が、赤黒く腫れ上がっていく。

 ロータスは自身にダメージが通った事に気付いたみたいだった。

 そして、後ろを振り返る。

 彼女はレイアを認識出来ない。

「クライ・フェイスが、わたしによくしてくれて」

 ロータスは困惑したような顔になる。

「わたしを守ってくれるの。でも、彼の力は完全じゃなくて」

「あら? 教えてくれるの?」

 レイアはほくそえんでいた。

 彼女は。

 自ら、この現象の事を語っている。

 敵であるレイアに、自ら教えている。

 戦いというものを、知らない。そんな女だ。

 レイアは理解する。

 彼女を守っている能力者がいる。

 どうやら、それは何らかの現象として、攻撃が届かなくなる。

 しかし、その壁は完全じゃなくて。何回か、あるいは何十回に一回かは命中する。

 ならば、やるべき事は一つ。

 攻撃を与え続ければ、いつかは届いて倒せる。

 何の障害でもない。

 彼女の存在自体に、まだ得体の知れなさを感じているが。

 しかし、戦闘においての彼女の態度は段々、理解していた。

 ……強くはない。戦いの経験もそれ程、無いように感じる。ドーン辺りの言葉を使うならば、素人とでも言うべきか。戦闘の素人だ。

 実際、彼女自体は隙だらけだった。

 未だに、レイアの能力もまるで見抜けないみたいだった。

 ならば。

 迷いさえなければ、すぐにでも勝てるべき相手ではないか。何も苦戦などしていない。

 レイアは右手の拳を掲げる。

 光と闇。

 それは、おそらく、人間が世界を認識するにあたって感じ取ったであろう最初の色彩。

 太古の大地より織り成す。

 黒衣の女は、右腕を高く掲げていた。

 それは、まるで天空に手を伸ばすような。

 何事かを行おうとしている。

 彼女の全身を、沢山の曼荼羅が蠢くように廻っている。

 曼荼羅の一つ一つに彫り込むように書かれた、呪詛の言葉。

 森羅万象全てを飲み干していく。無限大の闇。

 それは、何処までも、何処までも暗い、深い闇だ。

 …………。

 爆撃音が鳴り響いていく。

 彼女は攻撃に移っている。

 戦闘機の射撃音が聞こえた。

 戦車砲の爆音。

 …………。


 そう。

 彼女は召還しているのだ。

 かつて、人間達に傷付けられた刻印を。

 沢山の子供達の泣き声が聞こえた。

 小さな子供だ。悲鳴は唱和となる。さながら、聖歌のような。

 彼らは何故、泣いているのか。何の為に泣いているのか。ただただ、悲しみは反復し続けて、永遠の傷痕として、刃のように打ち鳴らしている。


「光の全てを人々は忘れてしまった」

 彼女は、とても。とても、悲しそうな声で言う。


「彼らは忘れられてはいけない人々。歴史という記録の中に封じられて、消え去っていった。顔の無い人々。わたしは彼らの言葉なの。彼らは未来の世界においてなお、その顔を。相貌を、現したがっているわ。自分達がどれ程、苦しんできたのかを。自分達がどれ程、悲しんできたのかを。教えたくて」


 思わず。


「何が言いたい?」

 レイアは思わず、叫んでいた。


「協力しましょう? 少しでも、世界を救いたい」

 それを聞いて。

 レイアは頭を抱えていた。

 完全に馬鹿にされている気分だ。

 一切の対話が出来ていない。

 お互いが、お互い、自らの意志の下、好き勝手に言いたい事を言っている。いや、そもそもレイアは対話などするつもりなどない。この女の言葉は、嫌でも耳に入ってきた。語り掛けるだけの才気がある。

 しかし。

 レイアは世界と自分を完全に切り離して考えている。

 その事に対して、一切、曲げるつもりはない。

 しかし。ふと、思った。

 少しだけ、興味が湧く。あるいは、疑問か。

「世界を救うって何?」

 レイアは冷ややかな声で訊ねた。

「みんなが生きる事をしなければならない」

「……生きる事?」

「何処までも広がっていって。無限に続いていく苦痛の中で、みんな賄えない苦痛の中で生きている。みんな愛を忘れてしまった。愛する事を。大切なものを。だから、ずっとずっと、この世界は悲劇に満ちている」

「そう。けれども、私に愛はいらない。愛したいとも思わないし、愛する事も出来ない。これ以上、無駄だと思わない?」

 レイアは彼女を理解した。そう……。

 そう、この女は。

 宗教的な神を信じていない。あるいは、思想としての神を。

 神が人間の世界を救わない事を。理解した上で……。


「わたしは、人間には神様が必要だと思うの。わたし自身、ずっと求めている。あるいは、元々は人間は神様の一部だったのかもしれない」


 神とは何なのだろうか。外側の存在だ。

 レイアは神を知っている。神の世界もだ。


 レイアは、この世界の外側を知っている。

 それでなお、レイアは一切、人間を救済したいだとか、他人を大切にしたいだとかを考えていない。考える事に意味を感じていない。

 善悪のどちらにも、興味が無く。そもそも、他人に興味が無いのだ。

 黒白と。黒。

 歪なパラドックスが、環を為している。

 神の世界に行ける力を持ってしても、エゴイストとしてしか生きないレイア。

 神が世界を救わない事を知って、それでも神を欲するロータス。

 二人は、一切、分かち合えないのだろう。

 望むものが、余りにも違い過ぎる。

 目指すべき場所が。求めているものが。

 ふふっ。ははっ。あははははっ。あははははっ。

 レイアは笑う。笑い続ける。嘲笑い続ける。

 まるで、全てが闇に塗られるように。

 それは、何処までも邪悪で。ある意味で言えば、底無しの無垢さで。

 一切の迷いが無い。


 レイアは黒に白を足す事によって。より、邪悪で。より、暗い黒が現れるのだと考えている。黒白の色彩は。漆黒よりも、より邪悪なのだと。強過ぎる光は、何処までも暗い闇であるのだと。そう、考えている。


 生の肯定か否定か。

 エロティズムの肯定か否定かが、問題なのだろう。


 この世界で生きる事に。レイアは意味を見出していない。


 神なんていない。

 神を信じる事が、良い事とされて。神を信じない事が、悪い事とされる。

 ロータスは詠うように言う。

 それは、一種の賛歌となって響き渡る。

 慄然と空間が歪む。


「弱さを肯定しなければならないの。人間の持つ、弱さを。それがもうどうしようもなく、美しくって。弱い、という事。被害者である事。支配の世界、搾取の世界。その環から抜け出す為の可能性だと思わない? 支配的な力。おそらくは人間が誰しも持っている力を得たいという事。逸れは何処までも肥大化して、怪物と化して、この世界を蹂躙していく」


 彼女は踊るような声音で言う。


「わたしは闇に閉ざされた者達の側の声。だからこそ、此処には沢山の人々が集まってくるのでしょうね。疎外された者達。みんな多分、子供達なの。小さな弱い子供達。支配の中に従属出来なかった、支配する側にもなれなかった子供達。彼らはこの世界を拒み続ける。良い事なの。それこそが、とても正しい事」


 それは、音楽のような歌声に似て。


「人を理由無く、殺す破壊者。理由が無いからこそ意味がある。理由って、ほら、支配の世界によって作られた価値から生まれてくる。純粋なる悪人ならば、純粋なる善の可能性も秘めていると思わない? 確かに、殺される人達はとても可哀相。でも、余りにも人間が可哀相過ぎて。どうしようもない、本当に殺されているのは、この世界にいる全ての人々。肉体は死んでもなお、魂が死なないのだとすれば。それは生きた証」


 …………。


 世界の環の規範を正そうとする、ロータス。

 世界の環から抜け出したがる、レイア。


 二人には、境界が引かれている。

 分かち合えない境界が。


 …………。


「カイリに言われたわ。その先に一体、何が待っているのかって。万物の位相を変革するという事。人間の位相を変革するという事。もし、人間同士の支配の世界が無くなった世界が誕生してしまったら。この世界はどうなるか。正直、それはわたしにさえも分からない。ひょっとすると、みんな一つの塊のようになるのかもしれない。全ての意識と意識の共有。みんなで、一つの生命体になるのかもしれない。どうなのかしら? わたしにはそこまで分からない。けれども、悲劇を無くせるのならば。人間同士の悲劇を無くせるのならば、その可能性も捨てたものじゃないのかもしれないわね。個体と個体を無くすという事。それは究極の共産主義なのかもしれないわね。わたしには分からない。その先に何があるのか、を」


 自問自答にさえ、聞こえる。言葉。


「仮に、全ての個体を無くす事さえも正しくないとする。だとするならば、全ての個体と個体、あらゆる様々な人種、価値、思考が分かり合えるのだとすれば。誰も傷付かない世界が誕生するのだとすれば」


 少しずつ。

 ロータスは少しずつ、少しずつ、狂的に感情を発露させていく。

 自分自身でさえ、自分の思想が分からないのだろう。

 感性だけで、先行させている。


「でも、官能の情感は美しいわ。恋愛、友愛。満たされた時。愛する人。抱擁。口付け。あなたは、何も愛さないと言う。わたしは悲しく思う。全てが本来の意味である愛の環の中に生きられるとするならば。虐待でも凌辱でもない官能ならば、それは何処までも美しいし、貴方の考えているような、愛無き世界なんかじゃない。艶かしさは聖性で、男女の愛は楽園になる。どちらかが、どちらかに対して、一切のサディズムが無いならば。それは美になる。他にもあるわね、たとえば食事。誰かを搾取して得た食べ物じゃなければ、それは何処までも清らかだし」


 …………。


「闇の中の小さな少女。幼い少年。閉ざされた収容所の中で泣き叫ぶ人々。彼らの悲鳴が聞こえる。彼らは何を視るのかしら? 彼らは世界を愛するのではなく、世界を憎むのでしょう。どんな聖典にも彼らは救われない。強制収容所で生き残った人々でさえも、他の囚人達を食い物にしてきたわ。それが、支配の世界。形のある信仰を信じ続けても、涙は報われないの。書物も言葉も、人を救いはしない。世界の構造自体を変えなければならない。でも、それは既存の戦争やテロリズムじゃ駄目でしょうね。人類全てに普遍的に通じる言葉があるとするならば。もし、万物の中に根源があるとするならば。もし、その根源の構

造自体を変える事が出来るとするのならば」


 …………。


「貴方の強さは、弱いという事じゃないかしら? 貴方は正しさを否定する。この世界の環の中にいる事を。それは美しい。けれども、同時に貴方はこの世界の中で生きたくない、という弱さもある。それは、

きっと正しくないと思う」


 …………。


「憎しみの肯定。悲しみの肯定。怒りの肯定。ありのままで、純粋無垢な感情の肯定。その結果として、他人の殺害行為に移るとしても。自分自身の殺害行為に移るとしても、それは正しい事なの。彼らの生きた事の証明だから。彼らは自分が自分で在るという事を生きた。此処に集まってくる人達は、心的外傷を克服出来ずに、生きる事を行えない。未だ彼らは戦禍の只中にいる。彼らの苦しみを無駄にするわけにはいかない」


 …………。


「世界の暗闇の中で、出口の無い、行き場の無い世界の暗闇の中で。闇に閉ざされた世界の中で。わたし達は光なるものを願っている。天空に光が刺し込むように。天空に両手を伸ばすように。外へ、外へ、みんな出たがっている。閉ざされた暗闇の部屋の中から、外へと」


 静寂と無音。暗黙。

 そればかりが、広がっている。




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