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第五章 神の火は、淡く。 3

 フェンリルは。レイアとキマイラとは、別のルートを辿る事にした。

 

 あの二人と、彼は目的が別だった。

 住民達と会話をしてみたい。

 

 彼らは一体、何を考えているのか。正直、分からない。分からないし、理解が出来ない。だからこそ、接触を試みようと思っている。

 元々の三人で決めた目的とも一致している。

 レイアはロータスの討伐。

 キマイラはアーティの討伐。

 そして、彼は他の能力者達の無力化だった。

 ……避けているなあ、と自分なりに思う。

 キマイラの描いてくれた地図を頼りに、道を歩いていく。

 大体の見えない迷路の構図は、ある規則的なパターンによって組み合わされたものだった。だから、それを攻略すれば簡単なものだった。

 特定のビルの内部には、アーティの能力が張り巡らされてないと、ヴリトラは言っていた。どうやら、此処がそうだろう。

 フェンリルは今や一人だ。他のみなも、おそらくはもう好きに行動しているだろう。

 だから、彼は彼の好きにさせて貰おうと思っていた。

 自らの意志と生き方の為に戦う。それだけだ。

 大きな衝撃音が響いた。

 どうやら、近い。

 直感。

 どうやら、レイアが戦っているのだろう。能力者と。

 巻き添えを食らわないように、気を付けなければならない。

 彼女は、本気の眼をしていた。他の者に何の容赦も無いだろう。

 フェンリルは、導かれるように、その場所に辿り着いた。

 その場所には。沢山の絵画が飾られていた。

 不気味な画廊だった。

 そのどれもが、生々しい惨劇の賛歌を描いている。

「もう、この辺りには。アーティさんの能力の効果は無いですよ」

 声は言った。

 いつの間にか、そいつは現れていた。

 そいつは、白いタキシードのようなジャケットを着込み、白いズボンを穿いている男だった。何だか、全体的に無機質な印象の男。

「ああ、私の名はクライ・フェイスって言います。クラスタにようこそ」

 フェンリルは、一応、警戒しておく。

 いつでも、この男に斬り掛かれる準備をした。

「ちなみに、住民達が固まって住んでいる辺りには。アーティさんの能力が及んでいません。アーティさんはクラスタの頭目に為り切れていないから、彼と接触せずに、クラスタに住む人間も多くいるんですよ。だから、この区画内では彼の能力が働いていないです」

「そうか」

 フェンリルは彼を吟味する。

「処で、お前はオレを排除するか。始末しなくていいのか?」

「そうですねえ。私はどちらかというと、友好的に行きたいんですよ。情報によれば、やってきたのは、アサイラムのケルベロスさんでしょう? なら、幾らでも説得の余地あるじゃないですか。どうやら、彼はアーティさんと出会って、お話しているみたいですね」

 クライ・フェイスは被っている、シルクハットの帽子を取る。

「まあ、ゆっくりしていってください」

 男は歩き出す。

 フェンリルは、彼に付いていく。

 しばらく歩くと、画廊に着いた。

 様々な絵が架けられている。

 一人の女がいた。

 キャンバスに絵を描いている。

「ああ、彼女はアニマって言います」

 タキシードの男は言う。

 アニマは少し、弱弱しそうな女だった。顔立ちは何処となく品がある。

 艶やかな髪。切り揃えられた、綺麗な金髪をしている。

 何処となく気品はあるが。何処となく陰のある女だった。

「こんにちは」

 彼女は笑顔を向ける。



 カイリは。黒白のドレスを纏った青年と話をする事になった。

 

 彼は美しい顔形をしている。そして、ぞっとするような鋭利な雰囲気を纏わり付かせていた。金色の中に銀が混ざる、長い髪。長い睫毛。小さな顔。滑らかで、整った骨格。

 どう見ても女にしか見えないが。鋭利な攻撃性が、彼を近付けがたいものとしていた。

「クラスタってのは何なんだ?」

 彼は問うた。

「クラスタですか。正直、俺にも分かりません。何なのか。弱い人間、疎外された者達が集まって出来た集落としか言えないし。分からない」

「クライ・フェイスから聞いた。お前は幹部の一人なんだろう?」

「そうです。でも、俺にもこの集落が何なのか分かりません」

 クラスタ内で、轟音が響き渡っている。

 誰かが、戦闘を続けている。

 おそらくは、ヴリトラではないだろうか。

 揺れが此処にまで、伝わってくる。

 絵画の何枚かが、地面に落ちる。

 慌てて、アニマは絵画を元の場所へと戻していく。

「どうしたのかなあ? カイリ」

 不安そうな顔。

 カイリは直感的に思った。

 このフェンリルという青年は知っている。

 あの暴君の事を。

 だから、それを前提に話をしてみようと思った。

「俺は神なるものを、信じるに値するものを見出していないんです」

 次に言われるであろう言葉、お前は一体、何者なのか? と聞かれる前に答えた。

 自分は何者なのだろう。

 幹部というのは、あくまで流れに任せた結果に過ぎない。

 役職の意味も機能していない。

 では、自分はクラスタにおいて何者なのだろう。

 この世界において、何者なのだろう。そう自ら問うた。

 何者でもないのかもしれない。

 ただ、虚無と何も出来ないという失望の只中に生きている。

 死ぬ事さえも。自ら死ぬ事さえも、諦めている。

 生きる事に希望も見出せないもの。しかし、重度の病人ですらない。

 ロータスの言葉。アーティの言葉。

 どちらにも希望を見出せていない。

「ふん、そうか」

 彼は何だか、興味を失ったみたいだった。

「オレは変えるかな。正直、ケルベロスの頼みもどうでもいい。ドーンもアサイラムも、興味が無い」

 カイリは、ふと、彼ともう少しだけ話してみたいと思った。

 彼は何か、言葉を持っているのかもしれない。

 カイリの心を揺さぶる何かをだ。

「カフェテラスに行きませんか?」

 彼は首を傾げた。

「ロータスさまと、よくお茶を飲む場所です。とても景色が良い」

 カイリは、フェンリルをその場所へと案内する。

 階段を上っていく。

 バルコニー。

 階段を上り終える頃には。

 いつしか、クラスタ内の地震のごとき振動と、轟音は止んでいた。

 どちらの勝利か知らないが。きっと、決着が付いたのだろう。

 

 そう、信じたい。

 仲間が勝利したのだと。信じたい。



 そこは海が見える場所だった。


 遠くで、カモメが飛んでいる。ウミネコかもしれない。

 晴れた日の昼は。雲が太陽と溶け合っている。

 絶景だ。

 クラスタの中の、一番、景色の良い場所の一つ。

 ロータスとカイリは、此処の景色がとても気に入っていた。

 アニマも。画家のセルキーも、よくこの場所に来て、イマジネーションを膨らませている。少なくとも、此処の景色を眺めている間は。生きている時間なのだと感じる。

 クラスタの中で、苦しみ絶望している者達。

 いつか、彼らもまた、この景色が美しいと感じる事が出来ればいい。

 今は、夕刻に差し掛かっている。

 一番、美しいと思う

 太陽が海原に沈んでいく。

 赤と青の混合。それは溶けるように鮮やかな色彩だ。

 フェンリルは冷たい紅茶が好きなのだと言う。

 紅茶の中に、少量のスパイスが入っているのが、最近は好みなのだと。

 カイリは、彼の前に。クッキーと此処の庭園で取れる茶葉から作られた紅茶を置いた。

 対話。対話。

 まず、害が無い事を何よりも伝えるべきだ。

 クラスタという場所。

 此処にやってくる者も多い。此処を破壊しにやってくる者も。


「此処に集まってくる人達は。生きる事に絶望している。というか、希望の形が分からない。その中に、犯罪者も多くいて。此処が魔窟と化しているという一面も確かにあります。それを否定する事が出来ない。俺達は彼らをコントロールする事は出来ない」


「そうか。まあ、オレにはどうだっていいんだけどな。オレは依頼を受けて来ただけなのだからな」

「でしょうね。だから、話したいと思った」


「俺はね、フェンリルさん。死のうと思い続けて、死ぬ事さえにも意味を見出せずに生き続けている人間なんです。俺の人生は灰なんだ。何も無い」


「そうか、別にオレはそんな人間は嫌いじゃないな」

 彼は紅茶に口を付ける。

 そして、美味いな。と神妙な顔になる。

「クッキーなのだが。干し葡萄は嫌いだ。ドライ・フルーツ全般も。残していいか?」

 彼はむうっと眉間に皺を寄せた。

「ああ、違うの持ってきましょうか?」

「いや、いい」

 彼は巧みに、干し葡萄を弾きながら、クッキーを食べていた。

 そして、少し不味そうに食べ始める。


「言葉で人は救われるのでしょうか?」


 カイリは理解している。

 色々な人間を見てきたから分かる。

 その人間を見れば、その人間と少し話せば。感覚的に、その人間がどういう人間なのか、何となく分かるものなのだ。

 きっと、このフェンリルという青年は。

 カイリにとって、意味のある言葉を言ってくれるような気がした。


「言葉で人は救われる、と言う人もいる。でも、此処の施設では言葉も食べ物も、何もかも、与える事によって生きる意味を見出せない人ばかりだ。みんな、色々なトラウマの体験から、その体験を克服出来ずに生きている、生きているとはいえない生を生きている。俺には一体、どうすればいいのか分からない。出口が無いんだ。答えが見つからない。俺はどうすればいいのか分からない。ロータスさまはロータスさまの視ている神を信じ続けている。アーティはきっと、既存の神を。俺は何も信じられない。何処にも向かえない。俺は一体、どうすればいいのか分からない。生きる事をしなければいけないと言われる。でも、生きる事って何なのかって」


 涙が零れ落ちていた。

 顔がくしゃくしゃになる。

 何故、こんな初対面の相手に、こんな事を言ってしまうのだろうか。

 

分からない。

「瞬間、瞬間の中に生きる事があると言う。確かに、瞬間の中にある歓喜。それはとても、幸せなんだと思う。けれども、俺はそれですらも、空しく感じる。俺は贅沢なだけかもしえない。怠惰なだけなのかも。でも、俺は答えを見つけたい。探している。俺はどうすればいいのか分からない」


 カイリはアニマとの子供が欲しかった。


 自分の分身となる、我が子がいれば。

 もしかしたら、この虚無も消せるのかもしれない。

 彼女の肉体。

 それは、カイリにとっての宇宙だった。ロータスなどに比べたら、小さな宇宙でしかないのだろうが。 それでも、何処かで願っている。ささやかな幸福。

 胎内の中から、カイリの子を宿してくれれば。

 どれ程、良い事だろう。

 一つの生命が終わり、また新たな生命が生まれる。

 種が地に落ちて、新たな芽を吹かせるように。

 もし、そんな事が可能ならば。

 きっと、幸福はあるのだろう。

 太陽の暖かさ。

 命の温もり。

 生命。

 命の炎。灯火。

 愛。

「ふん。恋愛やその延長線上の行為でお前は幸福になれるんだな?」

 彼は冷たく言い放つ。

 彼には、本当に分からないようだった。

 人を愛する、という事が。

 その事を、実際に言ってみる。

「いいや、オレは他人を愛する事もあるかもな。お前の愛って奴とは違うだけだろう」

 彼は少しだけ、眼が泳ぐ。

「もっとも、オレは独りが好きだけどな」

 空疎な空間。

 彼はこの世界を、きっと忌み嫌っている。

 しかし、カイリとは生き方が違う。

 彼には、生きる為の強い目的があるように思えた。

 決して、みなに理解されるようなものではないかもしれないが。

 確かな信念を感じる。

 少しだけ。

 羨ましいな、と思った。

 彼にも、何処か空虚感を感じる。しかし、けれども彼は自分の意志を信じている。

 目的を信じている。

「オレはこの世界が嫌いだ。けれども、オレは勝手に生きていく、それじゃ駄目なのか?」

 カイリは何かを返そうとした。

 しかし、何も無い。

 カイリは空ろに生きている。未来の世界を信じていない。

 二人は、似て非なる者同士だ。

「オレはもう行く。興味が無いから」

 彼は席から立ち上がった。

 カイリは、まだ何かを聞きたい。

 あの、と言おうとした。

「オレの事、聞きたいんだろう? もっと」

 彼は自分の性に関する事を話してくれた。

 カイリにとっては、衝撃的な内容だった。そんな人間もいるのか、と。

 フェンリルの持っている、強い性行為に対する嫌悪感。

 彼が見つけた、生命に対する解答。

 これらもまた、二人の間に。大きな境界が引かれている。

 埋められない断絶だ。

 理由を問うた。

 女が嫌いなんだ、と言われた。

 男も嫌いなんだとも言った。

 人間の肉体が気持ち悪いのだと言った。

 体臭だとか、何だとか。あるいは、全てが。

 彼は官能を否定している。情欲を憎悪している。

 カイリは彼を見て、不思議な感情が湧き出てくる。

 彼は異端でありながらも、決して自身が疎外された者だと思っていないのではないか。あるいは、まるで気にも留めていない。それが当たり前なのだと思い、自分の感性を信じ切っている。

 新しい命。

 新しい始まり。

 新しい声音。

 それらは。

 全て、小さな灰から生まれるような。

 自分自身の可能性とは、一体、何なのか。苦しみの中に芽生える、花のように。


 泥の中より、生まれる無垢なる蓮のように。



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