エナが来る夜
たすけて、たすけて。闇の中で幽かな声が聞こえた。
人の声だ。私は束の間、微睡みから覚める。
鬱陶しいな、でもすぐに消えるだろう。私は再び眠りにつこうとした。だが、
たすけて、たすけて、たすけて。私の中で何度も悲鳴がリフレインする。
おかしい。私は寝返りをうつ。
一瞬、音の無い稲妻が閃いて辺りの闇を金色に引き裂く。
青や紫に輝くオーロラがたなびいて、私の胎内で眠る、冷たく閉ざされたコータの魂を、優しく包む。
無明に身を潜めていた魔性、多頭蛇や闇蟲達が慌てて私の周りから逃げ去っていく。
静謐に満ちた闇の中を、無限に広がり漂う私の身体。
現世の狂騒や、惨苦の悲鳴も、ここではあえかなさざめきにすぎない。
そんなものが何故、私の微睡みを妨げて、こうまで私を苛立たせるのか。何かが、気になる。
私は闇の中に眼を象った。
いくつもの黒珠のような複眼がキラキラと虚空に生じて、現世を覗き、悲鳴の元を辿る。
見つけた。悲鳴の主は、少女だった。
まだ、あどけなさの残る貌を恐怖に引き攣らせて、ひとけのない路地を駆けながら、必死に助けを呼んでいる。
たすけて、たすけて、たすけて。
私はひた走る少女の後方に眼を遣った。
暗い路地裏に少女を追いつめているのは、痩せぎすの体を幾重もの白衣で覆った一人の中年男。
右手の医療用メスを少女の脇腹に突きつけて、欲望に眼をギラつかせながら、いやらしく嗤っている。
……もう無い私の両手と乳房が、かすかに疼いた。
あの顔、思い出した。私にメスを突き立てた。コータを殺した。あの男。
『教授』。
私が封じた煉獄からまんまと抜け出して、
私達が闇に還った後も、いまだにあんなことを繰り返しているのか。
凍てついた筈の私の心が、微かに波立った。私の心臓に、緑色の焔が灯る。
私は決めた。もはや現世に興味など無いが、そこまで私達の眠りを邪魔すると言うのなら……
いいだろう。私は男を見る。あいつがどこまでも血や苦痛に淫するというのなら、
現世でもない、煉獄でもない、この闇でもない、もっとふさわしい世界に連れて行ってやろう。
来い。私は命じる。無限の闇の彼方で、私を構成していた私の断片がチラチラと瞬く。
私に私が集まってくる。
まだ27%の私が冷たい肌にそれを感じる。
曠野を吹き荒ぶ砂塵
路地に転げた屍を焼いた灰
暗い波間に燐光を瞬かす夜光虫
かつて私であった私の断片が私に収束してゆく。
私の素足が路地の湿った土を踏む。
私の鼻が、腐臭の混じった廃都の空気を嗅ぐ。
私の頬を生温かい夜の風が撫でる。
私は目を開いて気怠い春の闇を見る。
私は、現世に身体を成した。
私は暗い路地に立っている。
冷たい素肌に夜気を纏って辺りを見渡す。
奥まった袋小路の闇の中に、白衣の男の背中が浮んでいた。
「あははははぁ!ιょぅがくせぇ!もう逃げられないぞぉ!」
聞き覚えのある、不快な声。男が手に持ったメスを振り上げた。
「い、いやぁ!」
追いつめられた少女の絶叫。
「さあ!イタズラしちゃうぞ~!」
何度聞いても耐えられない。この男の卑猥な歓声。
だが、興奮した男は、背後に近づく私には気付かないようだ。
がし。私は振り上げられた男の右手を背後から掴んだ。
ごおごおと蒼黒い炎を噴き上げて、みるみる凍りついていく男の右手。
「な……なにぃ!」
異変に気付いた男が、慌てて私に振り向いた。
私は醜悪に歪んだ男の鼻先に、貌を寄せた。
「つかまえたあ」
私は嗤った。
「まりか、りじぇねれいと!」番外編です。




