番外編:花束を抱えて
書籍化記念の短編小説です!
電子書籍一巻の書き下ろし短編小説「指輪を貴方に」のifになるような作品となっております。
そういえば、庭を歩いたことがない。
イーディスがその事実に気づいたのは、久しぶりにオークバレーの屋敷に帰って来たときだった。朝食をとったあと、ふと窓の外に目を向けた際、色鮮やかな庭園が目に入ったのである。
「あれ……?」
足を止め、窓の傍に歩み寄る。
窓ガラスに薄っすら映った自分の驚く顔の向こう側に、絵にかいたような白い東屋や花が咲き誇る庭が広がっていたのだ。王都の城ほどの広大ではなく、非常にこじんまりとしたものだったが、眼下に望む庭園はとても美しく思えた。
「素敵な庭……いつのまに?」
「奥様? 奥様がいらしたときからありましたが……」
侍女が不思議そうに呟くので、イーディスはびっくりして目を丸くしてしまった。
「でも、私の部屋から見えたのは……」
イーディスは自身の部屋を思い出す。
部屋から望む風景は鬱蒼と木が生い茂り、庭と言われなければ森だと勘違いしてしまいそうな風景だった。だから、この部屋に通された当初は「これなら見つからずに逃走できる」と判断して窓から飛び降り、見事逃走に成功しかけたのは、たった数年前の話だ。
「奥様の部屋は屋敷の裏手ですから。こちらが前庭となります」
侍女の戸惑いがちな答えに、イーディスはいかに自分が屋敷を見てなかったかを悟った。
基本的に、自室と鍛錬場を行き来する日々。ダイニングなど限られた部屋しか足を踏み入れたことがなく、移動の際に外をゆっくり眺める心の余裕もなかった。きっと、これまでも視界には入っていたけど、気づくゆとりがなかったのだろう。
「……よろしければ、いまから庭へご案内致しましょうか?」
「!? ありがとうございます。でも、時間は……」
今日は執事から国の歴史を学ぶ約束になっている。そのことを確認すれば、侍女は静かに微笑むのだった。
「奥様がこちらにいらして時間が経つというのに、庭へ一度も足を踏み入れたことがないということは一大事。執事様へはこちらからお話を通しておきますので、ゆっくりと散策をお楽しみください」
実際、執事も二つ返事で了承してくれた。
むしろ、「その様子なら、屋敷の案内もまだなのでは?」と指摘されてしまう。執事が挙げた歴代当主の部屋とか肖像画の間とか、そんなところ一度も行ったことがない。素直にそう返せば、執事はちょっと呆れたようにやれやれと首を振る。
「名実ともに奥様になられるのでしたら、しっかり屋敷に目を通してくださいね」
「すみません……」
これには平謝りすることしかできなかった。
屋敷の探索は、また後日に回し、今日は庭の散策をすることにする。空には雲一つなく、庭の草木は太陽の日差しを一身に浴びて青々と輝いていた。
「まさか、奥様がいらしてくださるとは……っ!」
庭師は背筋をピンっと伸ばして、案内をかって出てくれる。緊張のためか顔は強張っており、なんだか申し訳なくなった。
「では、薔薇園から案内致します」
庭師は右手と右足を同時に前に出しながら、非常にぎこちない足取りで歩いていく。
イーディスは「そうか、この人とは何年も同じ屋敷にいたのに、一度も言葉を交わしたことがなかったのだ」と気づかされ、なにか語りかけないと! と思い、口を開こうとした。
ところが、その前に暖かい春の風が吹く。
「いい香り……!」
柔らかな花の香りが風に乗り、ふんわりと漂ってくる。
整えられた石畳の両脇には、赤や白の薔薇が交互に大輪の花を咲かせていた。花については詳しくないけど、花弁一枚一枚が重なる様は豪奢なドレスのような薔薇は非の打ち所がないほど美しい。その少し先に植えられた茂みには、ピンク色の小振りな薔薇がひしめき合っていて、風がそよぐ都度、歌うように揺れていた。
「素敵……」
率直な感想が零れ落ちる。
それに答えたのは、庭師だった。
「そうでしょう! 私が世話をした薔薇ですから!」
つい先ほどまでの緊張は薄れ、くしゃくしゃと頬の皺を寄せながら微笑んでいる。心なしか、声のトーンも一段ほど高い気がする。
「こちらの薔薇は先代の奥方が隣国から取り寄せた珍しい品種でして、そちらは王立の薔薇園で交配した種となります。それから――」
庭師は楽しそうに薔薇について語り出す。恋人や我が子のことを話すかのように、すらすらと流れ出る言葉は薔薇への愛に溢れており、夢中になって話す姿は無邪気な子どものようにも見えた。
イーディスは薔薇については詳しくないし、あまり興味もなかったが、聞いているうちに、こちらまで楽しくなってくる。いつしか、こちらの頬まで緩んでいた。
「――ということになりますが、奥様は特に薔薇がお好きですか?」
「そうですね……」
正直なところ、そこまで薔薇に馴染みはなかった。
自分の身近な花は、このような立派な庭園とは不釣り合いな花ばかり。薔薇は見たことあれど、どれも蔓がひょろっと細く貧相なものか、王都の花屋の店先に並んだプロポーズに渡されそうな薔薇の花束くらいだった。
イーディスはうーんと悩みながら薔薇園を見渡す。
「これですね」
やや思案した末、赤い薔薇のなかで極めて真っ赤な一輪を指さした。
「見事なくらい綺麗な赤ですから」
そして、愛する人の目の色と同じ。
情熱的なまでの赤い瞳は挫けそうな自分を叱咤激励し、立ち上がらせてくれる。進み方の分からぬ自分に道を示し、手を取って一緒に進んでくれる――同じ色の薔薇を眺めているだけで、安心してくるような感じがした。
「ああ、なるほど……」
庭師も理解したのか、暖かい眼差しを向けてきた。
なんだか無性に恥ずかしくて、背筋がむずむずとしてきたが事実なので誤魔化しようがない。
「奥様は旦那様のことが本当にお好きなのですね」
「……はい」
それこそ、庭師が愛しの薔薇について立て板に水が流れるようにつらつら語るように、ウォルター・ピルスナーとの思い出や好きなところは際限なく話せる自信がある。とはいえ、たぶん話し出すと顔が薔薇や彼の瞳より赤く熱をもってしまうので、実際には途中で口を閉ざしてしまうかもしれない。
「……薔薇について、もう少し教えてもらえますか?」
イーディスは庭師の薔薇談義に耳を傾けながら、ふと――こんなことを想像する。
もし、この屋敷に来たばっかりの頃、この庭師と出会っていたら……そのときも、こうして薔薇の話を聞いていたのだろうか。そのときの自分は、どのような薔薇を選んだのだろう? もしかしたら、薔薇の話すら出ず、まったく別の花についての話を聞いていたかもしれない。
それは、もしもの話。
ありえたかもしれない、過去の話。
もし、自分がもっと心に余裕があれば……。
たとえば、リリーと一緒に屋敷を散策するゆとりがあれば……。
「奥様?」
庭師が怪訝そうな目でこちらを見てくるので、すぐに現実に意識を引き戻す。
もしもの自分は、いまの自分とは異なる存在だ。似たような困難に直面しても、乗り越える方法が違うかもしれないし、違う結末に辿り着くかもしれない。終着点につくまでの過程が違えば、そこに至るまでの物語も変わってくるのだろう。
「いえ、続けてください」
イーディスは続きを促した。
過去の自分が耳にしたかもしれないし、話題にすらあがらなかったかもしれないこと。でも、今日の庭師の話は、今日の――いま、この瞬間の自分にしか聞けない話だった。
だから、庭師が綴った一つ一つの話を花束のように抱えて、今日の夕食の席で伝えようと思う。
そして、今度は……近いうちに、貴方も一緒に庭を巡りたいと頼みたい。
暖かな日差しを浴びながら、イーディスは密かに決意を固めるのだった。




