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28話

 

 華やかな会場に、小さな風が巻き起こった。

 ざわりと沸いた雑音と共に、貴族たちの視線がイーディスに向けられる。


「……はい、参ります」


 ついに来た。

 イーディスは静かに背筋を伸ばした。


「しっかりしろよ、イーディス」


 ウォルターに優しく背中を押される。

 それを合図に、ゆっくり歩き出すと、人垣が自然に割れた。開かれた細い道は、まっすぐ王の佇む上座まで続いていた。脇によけた貴族たちの表情は、どれもこれも当惑で満ちている。当然の反応だ、とイーディスは思った。なにしろ、名目上、魔王は滅ぼされている。聖女はお払い箱にされた。それなのに、公の場で王に名指しで呼ばれたのだ。何か事情があるに違いない、と誰もが思うはずである。


「お久しぶりです、王太子様――いえ、王様」


 イーディスはドレスの片裾をつまみ上げ、一礼をする。

 改めて近くで見ると、王は少しやつれていた。神の造形物かと思うほど完璧な美貌だったはずなのに、どことなく不自然に痩せていた。化粧で隠されているが、よく見ると目元にはくまができている。不摂生な生活をしてきたのか、肌も荒れているように思えた。


 ただし、王は黒い靄を纏っていない。

 魔族の気配は一切感じられなかった。声色が冷たいのは、魔族云々関係なく、ただ純粋に嫌われているのだろう。


「ふん、余もお前と再会するとは思ってもいなかった」


 王は不服そうに呟くと、すぐにイーディスから目を逸らした。

 ここまで露骨に嫌がられると、逆に笑いが込み上げてくる。聖女と呼ばないのは、おそらく彼が自分を聖女としていまだに認めていないからだ。だが、いくら形だけとはいえ貴族の正妻になった者を敬称もつけず呼び捨てするのは違う気がした。

 裏表がないのは美点かもしれないが、それは国を背負う者として、いかなるものなのか。


「……エドワード、あとは任せた」

「承知しました、王様」


 王の傍らに控えていた神官 エドワードが顔を上げた。


「魔王が滅され、早いことで数か月が経ちました」


 エドワードが会場に響き渡る声で話し始めた。 


「ここにお集まりになった貴族の皆様も金銭面などで多大なる援助をしていただき、我々はまことに感謝しております。そのささやかな返礼として――聖女様より祝福の加護を皆様に授けていただきます」



 表面上は、貴族たちへの感謝として、聖女から「祝福の加護」を与える。

 そして、本来の目的は「祝福の加護」で隠れた魔族を一斉に検挙するという作戦だ。


 ちなみに、今回の計画の内容は事前に王ならびにクリスティーヌたちに知らせてはいない。

 もちろん、おおざっぱな表面上の理由だけは説明してある。だが、細かいところはすべてエドワードが詰めていた。王やクリスティーヌも魔族に憑かれている可能性がある以上、詳しいところまで計画を公表することはできなかったのである。


「それでは、聖女様――どうぞ」

「はい」


 エドワードが指を鳴らすと、夜会会場の扉が開かれた。

 重厚な扉の向こうには、ハンナの姿があった。彼女は軽く礼をすると、静々とカートを押してくる。そのカートの上には、数多の小さなグラスと輝くばかりに磨かれた――古びたじょうろが鎮座していた。じょうろの中には手筈通り、普通の水がいっぱいに詰まっている。


「それでは――これより、皆様への感謝の気持ちを込めて、祝福の加護を唱えたいと思います」


 イーディスは静かに持ちなれたじょうろを握りしめた。

 じょうろには水がたっぷり入っていて、今にも零れそうだった。イーディスは両手でしっかり支えながら、祈るように詠唱を唱える。


「聖女 イーディスの名のもとに。祝福の加護よ、この水に宿りて、魔を払う力を与えたまえ」


 紫色の粒子がぱらぱらとじょうろに降り注ぐ。

 その光景はじょうろが銀のポットに見えるほど幻想的で、貴族たちも、王ですら惹きつけられているようだった。粒子はじょうろを通して水にしみわたり、紫色の輝きが水面に、そして全体へと広がっていく。そして、紫の輝きがじょうろ全体に広がると、静かに光は失われていった。


「皆様の元に、どうか祝福が行き届きますように」


 がらにもなく綺麗ごとを口にする。

 力を使った余波で、案の定、身体中から体力が抜けていく感じがした。だが、ここで倒れるわけにはいかない。イーディスはじょうろを握りしめたまま、ゆっくりとグラスに向けて傾けた。1つ、また1つとグラスを水で満たしていく。

 まるで、鉢植えに水を撒くように。


「完成しました。祝福の加護がつまった聖水でございます」


 イーディスが水を注ぎ終えると、エドワードは一つのグラスを手にとった。

 そのまま、グラスを王に差し出す。


「これは、王の分でございます」

「ま、まさか……その水を、余に飲めというのか?」


 王は驚いたように後ずさりした。


「その、道具で入れた水をか!?」

「ええ、そうでございます」


 エドワードは表情一つ変えることなく、静かに応えた。王は目を白黒させながら、グラスとじょうろを交互に見た。


「なにを言っている?」

「王様だけではありません。王妃様も、大臣様も、ここに集ったすべての貴族の方に飲んでいただきます」


 エドワードが言った瞬間、動揺の波が瞬く間に広がった。


「じょうろの水を飲めるか!!」

「怪しすぎる! 腹を壊したらどうするんだ!」

「即刻捕らえ、首をはねろ!」


 魔族であるなしにかかわらず、貴族たちの反応はもっともである。

 イーディス自身、いくら丁寧に磨いてあるとはいえ、じょうろから注いだ水など飲みたくない。


「静まれ!」


 エドワードの怒声が夜会会場を震わせた。

 あの小さな身体のどこから出したのか、と思うほど大きな声だった。瞬間、貴族たちの罵詈雑言が水を打ったかのように静まり返る。エドワードは王よりも冷徹な眼差しで貴族たちを一瞥すると、言葉を続けた。


「貴方たちは――聖女から与えられた水を飲めない、と?」


 そんなことはない、と表立って口にする者はいない。

 いかに孤児出身で汚らわしい存在であったとしても、聖女は聖女。実力や出自はどうであれ、神の神託を受けた救世主である。そんな彼女を正面から否定する――それはすなわち、神への冒涜に他ならない。

 普通の貴族であれば、拒否できるはずがなかった。


「……ええ、飲めませんわ」


 普通の貴族であれば。

 反論をしたのは、クリスティーヌだった。彼女の取り巻きの中には、黒い靄を纏った者もちらほら確認できた。その者たちが中心となって、イーディスを睨み付けている。


「水は――おそらく、聖水なのでしょう。ですが、そのじょうろで注がれた水を飲むことはできませんわ。王族としての威厳に関わります」

「それは――」

「クリスティーヌ様、このじょうろを使わなければ聖水を作ることはできないのです」


 エドワードの返答を遮り、イーディスは口を開いた。


「祝福の加護は、聖女である私自身が愛用している物を媒介にしなければ、付与の効果を発揮できないのです」


 嘘八百である。

 やろうと思えば、今まで一度も触れたことのない白い陶器のポットでもなんでも、祝福の加護を宿らせることが可能だろう。事実、直前までその手筈になっていた。

 計画を変えたのは、イーディス自身のエゴだ。

 これまで、さんざん嫌な思いをしてきたのだ。もちろん、イーディスにも非はある。しかしながら、その非とは比べ物にならないほど辛い扱いをされてきた。


 だから、王たちも少しは嫌な思いをしてもいいだろう。

 これは、イーディスなりの小さな嫌がらせだった。


「さらに、私の祝福は、魔を払う浄化の力です。じょうろにいかなる汚れがついていたとしても、そのすべてを浄化した清潔な水になります。そうですよね、神官様」

「……ええ、たしかに清潔な水ですね」


 エドワードは真顔でグラスを受け取ると、躊躇うことなく飲み干した。


「ちょっと、エド! 大丈夫ですか!?」


 クリスティーヌの顔が蒼白になる。麗しい頬に手を当て、悲鳴を上げる姿は、本気でエドワードの身を案じているように見えた。


「……雪解け水のような喉ごしですね。大変美味しかったです」


 エドワードの様子は変わらない。

 ……彼が躊躇わず飲み干す――毒見役を買って出るのは、計画の範囲内だった。王もクリスティーヌも飲まないだろうし、イーディスやウォルターが飲んだら「あれだけ毒が入っていなかったのだ」と妙な詮索を立てられかねない。

 しかし、「魔王討伐の仲間」としての接点しかなく、「クリスティーヌ親派」のエドワードなら話は変わってくる。彼が飲み干し、無事を確認できれば――もう飲むしかない。


「……まさか、王妃様が飲まないのですか?

 国を背負って立たれる方が、聖女の加護を――神の祝福を受け入れないのですか?」

「――ッ!!」


 イーディスがまっすぐ見つめれば、クリスティーヌの瞳は揺れた。その瞳は、まるで恐怖で縁取られているようだった。相変わらず、魔族の気配は感じないのに、どうしてここまで恐れられているのか理解しがたい。


「ばかばかしい、飲まないぞ!」

「行きましょう、クリスティーヌ様!」


 クリスティーヌの取り巻き含め、数人の貴族たちが逃げようと扉の方へ向かう姿が見えた。いずれも、黒い靄が見え隠れする者たちだ。

 しかし、扉は固く閉ざされ、ウォルターが仁王立ちしている。


「おっと、逃げるんですか?

 おかしいですね、聖水を飲めないなんて……まさか、魔族だったりするんですか? それとも、他に聖水を飲めない理由でも?」

「そ、それは……」


 他、脱出経路はない。

 公の場で、神の祝福を断れるはずもない。問題は一点だけ――「じょうろ」という庭師の道具で入れた聖水であるということだけだ。それで注がれた水を、いかに聖水といえど、王族としての矜持が許さないのだろう。


「私――私、クリスティーヌは……」


 わずかに震えた声は、クリスティーヌの迷いを如実に表している。

 彼女の額には珍しく、汗が滲んでいた。




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