18話
気がつくと、灰色の空を見上げていた。
空気が痛いほど冷たい。上から白いものがふわりと舞い落ちてきている。雪だ。イーディスは眉間にしわを寄せた。季節はまだ秋のはじめだ。雪が降るにしては、いささか早い気がする。
「お姉ちゃん」
イーディスは降り注ぐ雪を見上げていると、目の前に顔が現れた。
「お姉ちゃん、大丈夫!? しっかりして!」
「……アキレス?」
忘れもしない。それはアキレスの顔だった。紫色の大きな瞳からは、ぼろぼろと涙が零れ落ちている。
「僕のせいで、僕のせいで、本当にごめんなさい!!」
「ぼくの、せい?」
「僕のせいで、ロルフたちに殴られて――お姉ちゃん、女の子なのに」
ああ、そのことか。
彼から言われて気がついたが、腕や足、腹などに鈍い痛みを感じた。
「気にしないで」
イーディスは起き上がりながら、アキレスに微笑みかけた。
「アキレスのせいじゃないから」
アキレスは、身体が弱い。
だから、よく体格の良い男の子たちにいじめられていた。それを止めに入るのが、イーディスの使命だった。とはいえ、武術を習ったこともなく、体の動かし方も知らない小娘が自分より一回りも二回りも大きい男子の集団に勝てるわけがない。
いつも連中の気が済むまで殴られ、蹴られていた。
「だいたい、あいつらが勝手につっかかってくるだけでしょ? アキレスは何も悪くないのに」
「でも……そのせいで、お姉ちゃんが痛い目にあうのは違うよ。本当にごめん」
「だって、アキレスは私のたった一人の家族だもの。守るのは当然よ」
イーディスは、アキレスの頭に手を伸ばそうとした。腕に青あざができているせいで、手を伸ばすと鈍い痛みが奔る。だが、ここで顔をしかめると、アキレスを心配させてしまう。イーディスは努めて笑顔を作りながら、アキレスを優しく撫でた。白い髪は柔らかく、祭りの時に触った絹のように滑らかだった。
「アキレスは気にしなくて平気だからね」
「でも……お姉ちゃんは、それでいいの?」
アキレスは悲しそうに顔を歪めた。
「いいよ。アキレスが無事なら、それでいい」
「ロルフたちに仕返しはしなくていいの?」
「してるよ。この間は、あいつらが盗んだ銀食器の隠し場所を密告してやったわ」
「そうじゃなくて、それは……その、僕のためでしょ? お姉ちゃんがやられた分の仕返しは、しなくていいの?」
「私の分?」
イーディスは、アキレスが何を言っているのか理解できなかった。小首を傾け、彼が口にしたことの意味を考えてみる。
「だって、いつもお姉ちゃんは、僕のためでしょ? やり返したのも、僕のため。それは嬉しいんだけど、もっと自分のために復讐してもいいんじゃない?」
「だから、私はいいんだって」
「……クリスティーヌ・エンバスは?」
アキレスは静かに問いかけてきた。
もう涙は流していなかった。ただ、どこか寂しそうな瞳でこちらを見つめている。
「アキレス? なにを言ってるの?」
「王太子や神官たちは? お姉ちゃんに酷いことをしたのに、それを許すの?」
「私は……」
イーディスは言葉に詰まった。
彼女たちに認めてもらいたい、とは思っている。自分の実力を示して、見返してやりたいと思っている。そのために、聖女としての仕事を終えてからも、修行を積んできた。
ただ、復讐したいとまでは思っていない。彼らの嫌がらせを許すとか、許さないとかもズレている。
なぜなら、彼らは彼らで初めての過酷な環境に苛立ちを募らせていた。そこに、なにもろくにできない小娘がいたら厳しく接してしまうのは、どこか仕方ないことのような気がするのだ。だから、イーディスが欲しかったのは「頑張ったね、お疲れさま」の言葉だけだ。他にはなにもいらない。
もちろん、彼らには悪感情しかない。旅の仲間は大嫌いだ。彼らが酷い目にあっていたら、いい気味だと思ってしまうくらいの気持ちは持ち合わせている。そこまでお人好しではない。
ただ認めて欲しいだけなのに、復讐するのは筋違いな気がした。
ところが、アキレスはそう思わなかったらしい。
「お姉ちゃん。あいつらのせいで、僕たちは引き放されたんだよ? 僕は、あいつらのせいで、お姉ちゃんに会えなくて寂しい思いをしたんだ」
彼の言う通り、確かに彼らのせいでアキレスと引き離された。アキレスも悲しい思いをしたはずだ。急にいなくなった姉を想い、寂しかったはずだ。いじめっ子たちから殴られたり、蹴られたりしたこともあったに違いない。
イーディスはアキレスの真剣な瞳を見ていると、自分が間違っているようにも思えてきた。
「それからね、あいつらのせいで――」
唐突に、耳元で大きな音が聞こえた。
イーディスが目を開けると、そこは礼拝堂ではなく、自分の部屋だった。ベッドの脇にあった花瓶が四散し、飾られた花と花瓶の破片が床一杯に散らばっている。せっかくの絨毯も水を染み込み、色が変わってしまっていた。
「だから! オレはこいつの旦那でも夫でもねぇって言ってるだろ!」
ベッドから少し離れたところには、ウォルターがこちらに背を向けて立っていた。相当怒っているのか、背中から殺気が滲み出ている。その視線の先には、リリーやハンナがいた。リリーはいつも通りの無表情だが、ハンナは何かがおかしいのか、怒られているにもかかわらず、笑みを押し殺すように口を結んでいた。
「師が弟子の心配をして何が悪んだ!」
「……」
「おい、リリー! なにか言ったら――」
「旦那様、後ろの方が起きていらっしゃるみたいですが」
「はあっ!?」
リリーが静かに言うと、ウォルターは驚いたように振り返った。
「イーディス、目が覚めたか!」
「あ、はい。えっと……」
イーディスは床に散らばった花瓶に視線を向ける。すると、ウォルターは気まずそうに頬を掻いた。
「あー、それは……だな」
「旦那様が手を滑らせて、割られました。すぐ片付けますのでご安心を」
リリーが目を伏せながら代わりに答えると、ハンナがすぐに動いた。彼女はてきぱきと花瓶の破片を拾い集め始める。しかし、まだ肩を震わせていた。
「えっと、なにかあったのですか?」
なにがそこまで面白かったのか、少し気になった。だが、誰も答えようとしない。
「別に。なかなか目覚めなかったから、様子を見に来ただけだっての。……で、調子はどうだ?」
ウォルターは口元を引きつらせながら笑いかけてきた。だが、正直、怒っているようにしか見えない。無理をしているのがバレバレである。自分が目覚める数秒前まで、いったい何が起きていたのか。かなり気になったが、首を突っ込んではいけないことなのだろう。
「ええ、まあ、おかげさまで大丈夫です」
イーディスはどうやって返したらいいのか分からず、とりあえず苦笑いで返した。
「そうか、よかった。2日も目を覚まさなかったから心配したぞ」
「そうですか、2日……2日!?」
祝福の加護を使い、初めて寝込んだ日よりも長いではないか。
イーディスは愕然とした。
「あの神……次からは気絶しないとか言っておきながら……」
「ん?また夢の中で神と会っていたのか?」
「いいえ、私が見た夢は……」
ウォルターは興味を惹かれたのか、顔を乗り出すように近づいてきた。
イーディスは首を横に振った。
「……むかしの夢です」
夢の全貌を語る気にはなれなかった。
その昔――神官が教えてくれた。『夢は、自分が考えている事柄が強く出る』と。ウォルターに自分の深層心理を伝える必要はない。むしろ、夢を分析するだけバカバカしい。要は、ただ自分が「アキレスに会いたい」というだけの夢である。アキレスのために喧嘩をして、他愛のない話をして、ちょっとだけ彼から叱られ、心配される……そんな、1年前まで当たり前のようにあった日常を望んでいるだけだ。
「……ばかばかしい」
「ん、どうした?」
「いえ、なんでもありません」
イーディスは半身だけ起こした。身体には疲労はもちろん、痛みすら残っていない。どうやら、すべて回復したらしい。
「神官様は?」
「ああ、あいつなら昨日、目が覚めたぜ。あの魔族に乗り移られているときの記憶は、あまりねぇらしいが……」
ウォルターは口を濁した。言おうか言うまいか迷っているような表情だったが、覚悟を決めたのだろう。イーディスと向き合うと、こちらの目をまっすぐ見つめてきた。
「あいつは、お前に話したいことがあると言っている。孤児院関係のことで」




